第十話 回復不能なはずの世界線の変更

これから、まだ決めるべきことが沢山あり、水戸斉昭に今、ヘソを曲げられては困る。

そう判断した阿部正弘は、堀田正睦を諫め、水戸斉昭を宥めることにした。


「確かに堀田殿の言う通り、オランダは古い武器を売り難くなったやもしれません。

ですが、値段が適正である保証はないのではないですかな」


この当時の多くの武士たちはお金を穢れと考え、値段のことを気にするなど、恥ずかしいことだと考えている。

だが、阿部正弘ら、幕閣にいるものは、幕府の財政を握っていることから、予算のことを気にせざるを得なくなっているのだ。

一方、殿様である水戸斉昭は予算のことなど、さして気にすることもなく過ごしているのだが、生意気な蘭癖大名の堀田をやり込められるならと、阿部正弘の言葉に乗ることにする。


「そうじゃ、そうじゃ。それに、オランダ人も付き合いが長かろうと所詮は異人。

いざとなれば、日ノ本より異人の仲間を優先するであろうよ」


水戸斉昭がそう言うと、堀田正睦が言い返す。


「武器の値段の方は、他の国とも交易を始めれば良いのです。

そうすれば、オランダが高値で売ろうとしても、他の国が安く売ってくれれば、

オランダも高値で売ることなど出来ないはずです」


「どうして、他の異国が武器をわざわざ安く売ってくれると言うのじゃ。

奴らが裏で手を組んで、高値のまま売ってくる方が自然じゃわい」


そう言われると、堀田は反論が思いつかず、黙り込む。

確かに、まっとうに競争をするよりも、裏で手を組み異人同士が日本を獲物にする方がありそうな話だ。

そして、本来の歴史においても、多数の国と国交を結んだのもかかわらず日本は、ライフル銃の普及によって欧米では使われなくなり余ったゲベール銃を高値で売り付けられているのだ。


多少なりとも、水戸斉昭の腹の虫が治まったようなので、阿部正弘は根回し通りの発言をすることを期待して、水戸斉昭に尋ねる。


「では、水戸様は、どのようにすべきかとお考えで」


「こちらから打って出るのじゃ」


水戸斉昭はドヤ顔で答える。


「奴ら、異人どもは、勝手にこちらに来るが、こちらから奴らのところに行くことはない。

だから、奴らの本当の姿が解らぬのだ。

ならば、穢れるのを覚悟で異国に行き、奴らの隠しているものも、何もかもを見れば良い。

さすれば、高値で古い武器を売られることもないし、奴らの技術を手に入れることが出来るはずじゃ」


「しかし、それは海外渡航の禁に反するのでは」


「だが、黙って異国の侵略を受け、支配されるようになるよりは余程マシじゃ。

今日の砲術試しを見て、わしは確信した。

このまま戦えば、日ノ本は大きな犠牲を払うことになろう。

ならば、まず、わしらに必要なのは時間じゃ。

その為に、奴らが交易を求めて来るなら、ぶらかして、時間を稼ぐことが必要なのじゃ」


「ですが、それで待ちきれなくて異国が攻めてくるようなことがあるのでは」


「その為の渡航よ。

奴らが我らと交易をする価値があるかどうかを見定める為に、奴らの国を視察をさせろと言うのじゃ。

さすれば、わしらを粗略に扱うことも、攻めることも出来ぬはず。

そして、その上で、一刻も早く奴らの技術を手に入れる。

どうしても、交易がしたいと言うなら、奴らの国で交易してやっても良い。

押し出し交易じゃな。

この尊き秋津洲あきつしまが奴らに穢されないだけマシであろう」


水戸斉昭の言葉に阿部正弘は内心ほくそ笑む。

斉昭は自分の考えのように話しているが、実のところ、それは阿部正弘が誘導した結果だ。(第三部第六話)

そして、攘夷の総本山たる水戸藩が異国への視察を提案する以上、海外視察に反対するものはいないであろう。


「なるほど、そうでございましたか。

実は幕府でも、その方針でアメリカ、ロシアと交渉を行っておりましてな。

アメリカも、ロシアも、視察の受け入れを検討する為に、本国に戻っている状況でございます」


「おお、そうか。そうであったか。

ならば、なるべく早めに視察を決めるのじゃ。

奴らを調べ、奴らの武力を手に入れねば、いつ攻められるかもわからぬからな」


自分の提案通りに幕府が動いていることに斉昭は上機嫌になる。

これに対し、幕閣には視察に行くと言いつつも時間を稼いで結局行かないようにしようと提案していた者もいるのだが、この場の空気に反対するだけの勇気はない。

現状維持で済ませたいものは、自ら最初の一歩を踏み出したくないものなのだ。

そんな人間に、この場の空気を変える発言など出来るはずもなかった。


「異国への視察、良いですな。私も是非、協力させて頂きたい。

我らのところには、西洋技術を学んでいる者が数多くおりまする。

それらの者を参加させて頂ければ、異国の技術を学び取るお役に立てるかと」


島津斉彬が心底羨ましそうに言うと、他の蘭癖大名たちも口々に参加を志願する。


「そうじゃな。確かに蘭学に通じた者が参加した方が効率的じゃろう。

では、参加希望者の名簿を作って貰えぬか。その中から選ばせて貰おう」


水戸斉昭が偉そうに言うと島津斉彬が驚いて見せる。


「これはしたり。まさか、水戸様ご自身が異国まで出向かれるおつもりか」


「当然じゃ。自分で言い出しておいて、他人に穢れを押し付ける気はない。

それに、わしは隠居の身。既に家督は既に慶篤よしあつに譲っておるから、後顧の憂いもない。

異国で何があっても問題なしじゃ。わしが行くしかなかろうて」


幕閣の人間の多くは、海防係の役人の中から、外国奉行という役職を作り、その者たちを使いに出そうと考えていたので、斉昭の突然の宣言に泡を食った。


「いやいや、お待ちくだされ。異国の事情なら、私の方が水戸様よりも通じております。

それに、水戸様にもしものことがあれば、どうなさるおつもりか。

それに対し、私は幕府から見れば外様。異国で何が起ころうと問題ありますまい」


と島津斉彬ら、外様大名たちが次々に視察団の参加に名乗りを上げる。

蘭癖大名たちは、異国に興味を持ち、知りたいと思う男たちなのだ。

この様な機会があるのを取り逃すつもりはないのだろう。

幕閣の中では、堀田正睦までもが参加希望を表明している。

だが、外様大名がこれ以上力を付け、更に異国と通じる危険を井伊直弼は黙っていることが出来なかった。


「お待ち下され。今回の視察は幕府を代表して異国に派遣するものではございませぬか。

いくらなんでも、島津殿が幕府を代表するなど、認めることなど出来ませぬよ」


「私が信用出来ぬと、仰るのですか?」


島津斉彬が確認をすると井伊直弼との間にピリついた空気が流れる。

その空気を和らげるために阿部正弘が口を挟む。


「全権代理とすることは難しいという意味でございますよ。のう、井伊殿」


島津斉彬の一言で肝を冷やした井伊直弼が、その言葉に乗る。


「然り、然り。今回の視察団は、国の命運を握り、全権を担うもの。

その様な重荷を島津殿らに任せるのは、我ら、譜代大名としてあまりにも不甲斐ないではござらぬか」


「なるほど。で、あるならば、視察団の長となられるお方は、

水戸様の様な幕府の重鎮でなければ難しいということですか。

あるいは、尾張様、一橋様、堀田様でございましょうか」


そう言うと黙り込む島津斉彬を、江川英龍は平伏しながら感心して聞いていた。

実のところ、この話し合いの前に、阿部正弘、江川英龍に島津斉彬を加えて打ち合わせをしていたのだ。

阿部正弘がどのように話を誘導し、島津斉彬がどの様な役割を果たすのかも。

時に宥め、時に賺し、時に威圧し、互いに協力していることを悟らせぬように、話を進めて行く。


もともと、幕府のお歴々は、視察団を出すことにすら乗り気ではなく、どうしても派遣することになったら江川らを視察団の長にすることを考えていたようである。

その案、江川、個人としてはとてつもなく、ありがたく、行ってみたいものではあった。

しかし、その結果、江川程度の地位の役人の報告ではお歴々が耳を傾けるかが甚だ不透明であるから、視察の派遣するなら、報告すれば一目置かざるを得ない重鎮、それも平八の夢では、この国の不安定因子となりかねない方々を異国視察団の長にしようと決めていたのだ。

一人は水戸斉昭公、そして、もう一人が。


「その通りでござる。視察団の長は、私井伊直弼が務めさせて頂く。

井伊家は、幕府の重鎮。大老を何度も出した家柄ですからな。

水戸様程ではないにせよ、幕府を代表すると言っても何の問題もないはずです」


誘導に従い、自ら名乗りを上げる。


「井伊殿、よろしいのですか。異国への旅は何が起こるかわかりませぬぞ。

井伊家はどうなさる。

水戸様の様にご隠居なさった方や、異国事情に通じた島津殿、あるいは尾張様や堀田殿にお任せした方が」


阿部正弘が心配そうな顔で話すと、井伊直弼は期待通り、最後の一線を踏み越える。


「ならば、私も水戸様の様に隠居し、家督を倅に譲ってから異国に向かうことといたしましょう。

これで、私も後顧の憂いはないはず」


そうは言うが、実際のところ、この倅というのは、まだ数えで6歳かそこらの歳。

決して安心出来る歳ではない。

元々、井伊直弼は阿部正弘との事前の相談で、海外視察に行くことは考えていた。

しかし、お家のことを考え、井伊直弼は最後の一線を踏み越えられなかったのだ。


だが、外様大名と異国を結び付けることも、水戸藩関係者ばかりを異国と結びつけることも、徳川宗家の為には危険であると思い込んでいる直弼には、これ以外の選択肢は思いつかなかったのだ。

この時、紀州藩主はまだ若い上に次期将軍候補で、とても生きて帰れぬかもしれぬ異国に出す訳にはいかない存在。尾張藩主は水戸藩の親戚。

堀田正睦も水戸藩と組んで一橋慶喜を次期将軍として擁立しようとする一橋派。

水戸藩の勢力ばかりが異国と結びつけば、それは水戸藩が徳川宗家を上回りかねない危険な状態。

井伊直弼の狭い視野では、他の誰かに任せることが出来ず、自分が行くことしか考えられなかった。


全ては阿部正弘と島津斉彬の計略通りに。


これで大老井伊直弼の誕生の可能性は消滅し、安政の大獄も、桜田門外の変も起きないこととなるはずである。


しかし、不安定因子を追い出すだけでなく、視察団を成功に収めたい彼らは手を緩めない。


続いて視察団の目的、構成について、話を進めて行くこととなる。

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