第二話 日ロ領土交渉
「プチャーチン殿は、先程、北蝦夷(樺太)はロシア領であると仰ったが既に北蝦夷(樺太)には我が国の人間が住んでいる。
これは、先占の法理に当てはめれば十分北蝦夷(樺太)獲得の事由となることはご理解されよう」
まず、国際法を盾に樺太所有を主張する川路に手強さを感じながらプチャーチンは反論する。
「しかし、それは、ほんの僅かの人数が南部に住んでいるに過ぎないはずです。
ならば、南の一部だけは日本の所有なのかもしれません。
更に、ロシアは、それ以前に土着の民にロシア領にして欲しいとの依頼を受け、サハリン(樺太)を支配しているのです」
住んでいる部分だけは先占という理屈を持ち出してきたプチャーチンの矛盾を川路が突く。
「土着の民とは、誰のことで、領有を頼まれたのはいつのことであるのか。
50年前、貴殿と同様に我が国との通商を求めて長崎に来たレザーノフは、通商を断られた腹いせに北蝦夷(樺太)を砲撃して海賊行為を働き、更に、その7年後に、ロシア政府は日本沿岸の略奪行為を正式に謝罪している。
となれば、少なくとも、43年前までは、ロシアの認識でも、北蝦夷(樺太)はロシア領ではなかったということになるが、まずはそれでよろしいか」
通商交渉がうまくいかなかった腹いせに樺太攻撃をしていったレザーノフの例を出され、プチャーチンは内心苦虫を噛み潰す。
強硬な主張をすれば、レザーノフと同じ運命が自分を待っていると示されたも同然だからだ。
だが、そんなことは顔に出さずに、プチャーチンは答える。
「残念ながら、今回は、いつ、誰にサハリン(樺太)領有を頼まれたという記録は持ってきておりません。
次回、それを準備してお持ちしましょう。
更に、レザーノフ事件に関する謝罪ですが、これはサハリン(樺太)南部に住んでいた一部の日本人に迷惑をかけたこと謝罪したのであって、日本のサハリン(樺太)領有を認めるものではないはずです」
粘るプチャーチンを川路が追い詰める。
「貴殿は領土交渉に来たというのに、証拠となる資料をお持ちでないというのですか。
それでは、あなた方は何を根拠として、北蝦夷(樺太)をロシア領だと主張なさるのか」
そう言われてプチャーチンは本来領有を主張する為の根拠として、持ってきたことを説明する。
「我々は、4年前に海峡調査を行い、サハリン(樺太)が半島ではなく島であることを世界各国に向けて発表している。
これこそ世界中がサハリン(樺太)をロシア領であると認める理由です」
「つまり、土着の民の主張は関係なく、ロシアが我らよりも先に北蝦夷(樺太)を探検して発表したから、ロシア領であると主張されるという理解でよろしいか」
川路はプチャーチンの隙を見逃さず、その確認を行う。
「そうだ。サハリン(樺太)北部に日本人は住んでいない。
我々は誰も住まない無主地を探検、発見したことによってサハリン(樺太)領有を主張するのだ」
「ならば、やはり、北蝦夷(樺太)は日本領である。
我らは49年前から北蝦夷(樺太)全島の人口調査及び登録という北蝦夷(樺太)全島の実行支配を行っている。
その記録も今、提出することが出来ますぞ。
更に、45年前には我が国の間宮林蔵が北蝦夷(樺太)全土を探検し、北蝦夷(樺太)が島であることを確認した上で「大日本国国境」の国境標を建設してきている。
ロシアよりも42年も前に北蝦夷(樺太)を探検し、地図まで作っているのだ。
この地図も必要なら、お見せしましょう。
なお、海峡を渡って大陸まで行った間宮林蔵は、ロシアが北蝦夷(樺太)どころか、その近辺も領有していないことも、現地の人間に確認をしている。
これ以上、明確な証拠はあるまい」
日本側の予想以上に明確な証拠と主張にプチャーチンは圧倒されかけるが、鎖国日本の弱点を突くことを思いつく。
「49年も前から日本がサハリン(樺太)を支配していると証明するものはいるのですか。
いくら書類が作られようと、誰にも知られず、発表されていないなら、残念ながら国際社会では証拠と認められないのですよ」
実際、清を始めアジアの国々は平気で約束を破る国が多い。
この日本ですら、レザーノフ事件の際には、交易をすると期待を持たせておいて、結局裏切っているのだ。
侍は名誉を重んじるとシーボルトに聞いているから資料の捏造を疑うような発言は控えたが、日本が国内だけで発表した資料であるなら、誰も信じないだろうと考えプチャーチンは応える。
「ございます。こちらをご覧ください」
そう言うと、川路は合図を出し、オランダ商館から借りてきたシーボルト著の「日本」という本を出す。
「シーボルトが日本を追放されたのが25年前。
シーボルトがこの本を出版したのが約20年前とあります。
そして、この本の中に、間宮海峡という文字が記されている。
ということは、少なくとも25年前以前に、地図を我らが作っていたという証明にはなるでしょう。
更に、我らはシーボルトの国外追放を解き、当時のことを証言して貰うことを検討している。
これは、十分、国際的に、認められる証拠であると思うが」
シーボルトが証明するという言葉を聞き、ロシア側は更なる衝撃を受ける。
そもそも、この遠征計画を立案したのが、シーボルトなのである。
そのシーボルトが日本の樺太領有を証明する?
何が何だかわからなくなり、プチャーチンは困惑する。
その上、シーボルトは日本の権威として世界中に知られた存在だ。
彼が証言すれば、樺太をロシア領と納得するものはいないだろう。
むしろ、イギリスなどは、ロシア封じ込めの為に、積極的に日本を支持するかもしれない。
ロシア軍が樺太に派兵している以上、東シベリア総督辺りは、最悪、戦争をしてでも樺太を渡さないつもりなのだろう。
だが、それでは、自分を待っているのはレザーノフと同じ運命。
自分は、ロシアが誰よりも日本の味方となると約束したばかりではないか。
それなのに、約束した直後に、攻撃を行うというのか。
そんな国を日本であろうと、どんな国でも信じるはずがないではないか。
交渉は決裂し、ロシア百年の悲願は実らず、自分は空しく、ロシアに帰るしかないのか。
自分のやったことは、日本とロシアの禍根を広げるだけに過ぎないのか。
プチャーチンが内心の絶望を隠し切れなくなった様子を見て、川路は助け船を出すことにする。
「さて、反論もないようですので、交易の話に入りましょうか。
我らは、ロシアが日本の北蝦夷(樺太)領有を認めるのであれば、その北蝦夷(樺太)において、ここ長崎で行うように交易を行うことを検討しております」
日本の樺太領有を条件とする川路の言い方にプチャーチンは反射的に反論しようとするが、その後に出された思いがけない提案に息をのむ。
もし、本当に日本の樺太領有を認めれば樺太で日本と交易出来るようになるならば、皇帝陛下も樺太譲渡に同意されるかもしれない。
だが、ロシアは何度も日本に煮え湯を飲まされている。
何度も交易を期待させられた後、手のひら返しを受けている。
樺太譲渡を同意した後に、交易を中止されてはたまらない。
そこで、プチャーチンは確認することとする。
「もし、本当に交易の許可を頂けるのであれば、本当にありがたいことです。
日本側が何と言おうと、我々ロシア人にとっては、サハリン(樺太)は我々の領土です。
ですが、日本との交易を実現出来るなら、皇帝陛下もサハリン(樺太)を日本に譲渡することを検討されるでしょう。
ただ、サハリン(樺太)譲渡をするには、確かな保証が必要です。
樺太譲渡の翌年に交易を廃止されては溜まりませんからな」
プチャーチンがそう言うと川路は頷く。
確かに、何の保証もない約束ではロシア側を説得することは不可能だろう。
だから、川路は用意していた条件を告げることとする。
「交易をするには、まず、北蝦夷(樺太)、択捉を含む我が国の領土と主権をロシアが認め、我が国の法令を遵守することを約束して頂きたい」
「それは、交易が保証されての話ですが、皇帝陛下にお伝えしましょう」
「特に法令遵守は徹底して頂きたい。
イギリスの様にアヘンの輸入を禁止したのに、アヘンを持ち込み、それを取り締まると、それに難癖をつけて戦争を仕掛けられては溜まりませんからな」
川路がそう言うとプチャーチンが苦笑して応える。
「我らはイギリスとは違います。国交さえ開いていただければ、この国の法を順守しましょう」
実際のところ、ロシアは領地拡大に関しては、かなり悪辣な手を平気で取る国だ。
平八の夢で、樺太は力づくで奪われ、対馬さえ狙われたということを川路は知っているが、法令順守という言質を取れたことを良しとして、話を続ける。
「長崎のオランダと同じ条件ですから、北蝦夷(樺太)で交易する場合も、我らの指定した場所から許可なく出ないこと。
武装も禁止します。
そして、今後は、勝手に長崎と北蝦夷(樺太)以外には来ないことを約束して頂きたい」
だから、こうしてロシアの行動に釘を刺す。
こうしておかないと、ロシアは樺太の領有を認めると言いながらも、樺太に基地を作り事実上の乗っ取りを企む恐れがあるからだ。
この地球では、油断した方が悪い。
海舟会の連中に何度も注意されたことである。
川路の言葉にプチャーチンは黙って頷く。
「これを暫定的にでも保証する為に、北蝦夷(樺太)からロシア人を撤収をして貰いたい。
北蝦夷(樺太)に残れば、我が国への不法入国として捕縛することとする。
その条件が満たされたならば、我が国の次期将軍候補の父にあたる高位の方、徳川斉昭公が貴国を訪れ、交易の詳しい条件の相談をさせて頂くこととする。
そこで、貴国が何を望み、何を我らと交易したいのか。
貴国がどのような国で、信用に値する国であるのか。
我が国のやんごとなきお方が、貴国を視察した上で、他国との条件を比較し、決定を下したいというのだ」
川路がそう言うと、プチャーチンは驚く。
次期将軍の父と言えば、プチャーチンに勅命を下したコンスタンチン大公に勝るとも劣らない高位の人間。
そんな人間がロシアを視察し、決定を下すならば、その決定が覆されることはないだろう。
だが、その交易条件はまだ不明なのだ。
簡単に約束することは出来ないだろう。
「その様な高位の方が来られるのであれば、皇帝陛下にお伝えして、検討するに値するでしょう。
だが、それだけでは、サハリン(樺太)譲渡の約束までは出来かねます。
従って、サハリン(樺太)の帰属は、交易交渉後に決定するとして、条約を締結して戴けませんか。
代わりに、暫定的にサハリン(樺太)からのロシア人の撤収はお約束しましょう」
確か平八の夢でも、来年にはクリミア戦争の影響でロシア人は樺太から一旦撤収したはずだから、やはり落としどころとしては正解なのだろう。
問題は、クリミア戦争が終わり、再び、ロシアがアジアに目を向けてからのこと。
最善は、ロシアが交易の実現だけで満足して樺太譲渡に同意してくれれば良いのだが、そうでなかった場合の為に、水戸のご老公には時間を稼いで頂かねば。
そう考えながら、川路は用意していた文書を出させる。
「結構です。それでは、文書を用意しておりますので、内容の確認に入りましょう。
ただ、斉昭公がロシアを派遣するならば、貴国でもそれなりの歓迎体制を整えて頂きたい。
お供の者も100人以上おります。
貴国はイギリス、フランスと戦争中とのことですが、無事にロシアまで行くことは出来るのでしょうか」
そう言われて、プチャーチンは再度青ざめる。
海路で行けば、快適な旅は保証できるが、イギリスに拿捕される危険がある。
陸路ならば、イギリス襲撃の恐れはないが、高位の方がするような快適な旅は保証出来ない。
一体どうするのか。
最終的には、皇帝陛下の裁可を仰ぐしかなさそうだが、かなりの難事業となりそうだ。
こうして、海舟会の目論見通り、日ロ交渉の引き延ばしが成功する。
その結果が歴史にどう影響するかを知る者は、まだ誰もいなかった。
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