第四章 運命にあらがう者たち

第一話 日ロ交渉開始

12月になり、平八の予言通り、ロシア艦隊が長崎に戻ってくる。

その知らせを聞き、長崎で待ち構えていた川路聖謨らは、腰を上げる。

ロシア艦隊が戻ってくるまで、彼らは無為に過ごしていた訳ではない。

オランダから積極的に情報収集を行い、ロシアがイギリス、フランス、トルコと戦争になっていることは確認出来ている。

これも、平八の夢の通りだ。


だが、これから始めるのは、平八の夢にはなかったこと。

既に、幕府内、ブニン島、樺太では一定の成果を収めているが、それがどのように影響し、どのような結果になるかは未知数。

川路聖謨一行の交渉に陪席することとなった吉田寅次郎と勝麟太郎も緊張を禁じ得ない。


交渉を引き延ばすのは、幕府のいつものやり方。

ロシア側が追い詰められていることを理解しながらも、焦らして、状況を有利に運ぼうとし、まずは歓迎の宴を開き、ロシア側の様子を見る。


とはいうものの、歓待に手を抜くわけではない。

むしろ、平八、オランダからの情報を基に最大限のもてなしを行うこととする。

プチャーチン個人の日本に対する感情を少しでも好意的にしておくために。


彦根藩の牛肉の味噌漬け「反本丸」へんぽんがんを用意し、伊万里の食器を用意しロシア側を歓待する。

これには、プチャーチンも本当に感激してくれたようで、非常に楽しそうに過ごす。

そして、そのお返しとして、今度は3日後にロシア側からの答礼の宴が行われ、交渉の本番は三度目の会談から始まる。


「まずは、貴国が我が国の法に従い、長崎でこうして待っていてくれたことを感謝する。

それに比べ、アメリカという国は、幕府の指示に従わず、江戸湾に居座る上、親書を受け取らねば、攻撃を始めると言い出す始末。

ロシアは、要求が通らないからと言って、我が国を攻撃することはないのでしょうな」


川路聖謨は、最初から会談の主導権をロシア側に渡すつもりはない。

会談を誘導し、有利な状況で合意を結ぶのだ。

そのため、川路は、まずロシアが50年前に通商を求めて日本に来て断られると樺太、択捉を攻撃してきた事実を絡めて、ロシア側に武力行使をしないこと確認をする。

もちろん、この様な口約束が守られる保証はどこにもない。

だが、平八の言う通りプチャーチンが侍のような心を持つ誇り高い人間であるならば、彼の言葉は彼自身を縛ることとなるだろう。

そして、プチャーチンとしても、その様に言われると、ロシア側の交渉を有利に進める為、アメリカを非難し、ロシアの善良性を主張せざるを得なくなっていた。


「アメリカは、何と無法な国家なのでしょうな。

我々、ロシアは平和を愛する国家です。

彼らと異なり、意見が通らないからと言って、武力に訴えるようなことは致しません」


言質を取れたことにほくそ笑みつつ、川路は更に釘を刺す。


「それはありがたい。

それに、ロシアは、今、イギリス、フランスとも戦争状態にあると聞きます。

食料等は足りていらっしゃいますか」


プチャーチンはクリミア戦争の情報までも、日本側に抑えられていることに内心焦りを感じながらも平然と答える。


「大丈夫です。我がロシア帝国はイギリスやフランスを敵に回しても恐れることはありません」


実際のところ、東洋はイギリス海軍が抑える地域だ。

イギリス海軍に見つかれば多勢に無勢で、プチャーチンの艦隊は沈められかねない。

長崎を一旦出たのも、イギリス艦隊の襲撃を恐れたからだ。

その上、長崎を出て中立港である上海に行った際も、食料は何とか買えたものの、石炭は買い占められて買うことが出来ず、ペリーの艦隊に石炭を分けて貰った程なのだ。

だから、プチャーチンがイギリスを恐れないと言ったのは虚勢に過ぎない。


「そうですか。余計なお世話でしたな。

それでは、万が一、我らがアメリカといくさになった際に与力を頼めますかな。

アメリカは、我が国の領土に勝手にアメリカ領土であるという板を設置する連中。

そんな野蛮なアメリカ相手では荒事になりかねませぬからな」


川路は、ロシアが樺太に出兵していることを知りながら、プチャーチンの反応を確かめる。


「それは、とんでもないことですな。

共に戦うかどうかは、これからの交渉次第ではありますが、

ロシアがどの国よりも日本の味方であることはお約束しましょう」


日本側が予想以上に情報に通じているのは、おそらくオランダと予想以上に密な協力関係を築き上げているのだろう。

そして、オランダ側は日本との交易を独占する為に、ロシアの妨害をしている。

だが、オランダには、もはや、ロシアやイギリスと戦うだけの力はない。

ならば、ロシアがオランダ以上に有益な協力者であることを示すべきであろう。

そう考えてプチャーチンは答えた。


「それは、誠に心強い。頼りにさせていただきますぞ」


平八の夢で、プチャーチンが日本開国の為にペリーに共闘を申し出ていることを知りながら、川路はヌケヌケと答える。


「ところで、プチャーチン殿は、今回の派遣では全権使節としていらっしゃったのでしょうか。

それとも、親書を届けに来ただけの先ぶれとしていらしたのでしょうか」


「全権使節としてです。

恐れ多くもロシア皇帝の次男で有らせられるコンスタンチン大公よりの命を受けてきております」


そう言うと、プチャーチンは大公よりの任命書を持ち出し、川路らもまた幕府より全権を受けていることを示す任命書を出して互いに確認する。


「結構です。それでは、ここで決めたことが互いの国の決定になるということでよろしいな」


「交渉の後、最終的には皇帝陛下の裁を仰がねばなりませんが、大筋はこちらで決定することが可能です」


プチャーチンがそう言うと、川路は頷き、話を始める。


「まずは、我らとしては、我が国とロシアの間の国境について確定させておきたい。

ここにいる者に、国家間の法について確認させておいたのだが、

貴国の法との間に違いがないか確認して頂きたい」


そう言うと、川路は同席していた勝に領土の所有に関する法の説明をさせる。


領土の獲得する方法の一つとして、誰も住んでいない土地(無主地)を、

最初に実効的な支配をする国の物のものとなることが確認される(先占)。

そして、人が住めないような土地の場合は、発見や探検、地図を作ることが条件となることも。

話を聞きながら、プチャーチンは、日本が法を確認していることに手強さを感じる。


「以上となります。我々の法の理解に間違いはないでしょうか」


「間違いありません。よく確認されたものです」


「そこで、申し上げる。

まず、千島列島は択捉までが我が国の領土であり、北蝦夷(樺太)も、また我が国の領土である。

従って、ロシアは、貴国の戦争に北蝦夷(樺太)を巻き込むようなことをせず、直ちにロシア兵を樺太より撤収して頂きたい」


川路がそう言うとロシア側に衝撃が走る。

プチャーチンは、交易交渉と同時に任された領土交渉では少しでも多くの土地をロシア側に確保するように言い渡されている。

だが、樺太に兵を派遣するなどとは聞いていない。

おそらく、クリミア戦争絡みで、イギリスに樺太を占領されない為にでも兵を送ったのだろう。

だが、そんな事情は日本側には関係がない。

これでは、先ほど批判したアメリカと同じになってしまうではないか。

せっかく、ここまで紳士的に対応したことが無駄になってしまう。

既に、樺太で日本はロシアと戦っているのか。

もし、戦っているのならば、紳士的な開国など、もはや不可能ではないか。

プチャーチンは、頭を掻きむしりたくなるような、苛立ちを抑えて答える。


「失礼。サハリン(樺太)にいるロシア兵とは何のことでしょうか。

申し訳ないが、こちらには、その情報がないので、教えて頂きたいのですが」


「ほう、ご存じありませんでしたか。

夏の終わり頃に、イギリスから守る為という名目でロシア兵が北蝦夷(樺太)に上陸しているようなのですよ。

だが、ロシア軍がいれば、なおさら、イギリスの攻撃を誘発しかねない。

そこで、ロシア国旗を降ろし、武装解除をして貰っているようなのですが、ロシア皇帝陛下の命令で撤退も出来ないようなのです。

そこで、全権使節である貴殿に撤退の命令を出して頂きたいのです」


戦争になっていなかったことにホっと一息つきながらもプチャーチンは撤退要求を拒む。


「とりあえず、日本と戦いになっていなかったことに安心致しました。

しかし、撤退命令を出すことは致しません。

何故なら、クリル諸島(千島列島)もサハリン(樺太)も我が国の領土だからです」


日本側から見れば常識外れの暴言であるが、平八から話を聞いていた川路は冷静に確認をする。


「それは、どのような法的根拠を持った話なのですか。

我々が択捉島までが我が国の領土であると主張したのは、約70年前に択捉島に我が国の出張所を設けて以来、ここを幕府の役人が巡回し、択捉に来たロシア人に退去を命じていたからなのです。

これは、先ほど確認した先占の法理に照らし合わせて、我が国の領土と確定させる事象。

それにも係わらず、千島列島全てがロシアのものであるとする根拠を聞かせて貰いたい」


国際法を確認した時点で千島列島全てを日本領であると主張することは難しいことは既に確認されており、川路の報告を受けた阿部正弘は水戸藩も含めた幕閣にも既に根回しを終わらせている。

そして、川路は、択捉までを日本領とすることで、日本は譲るところは譲り、根拠のないことを言わないことをプチャーチンらロシア側に示していた。


「確かに、そちらの主張は理解出来ます。

では、択捉までが日本領であることを認めましょう。

だが、それよりも、先に開国と国交樹立に関する交渉をしませんか」


プチャーチンの最大の目的はロシア100年の悲願。

日本との国交樹立と交易の開始だ。

饗応で出されたに牛肉に付けられていた味噌というソースは非常に美味であったし、出された磁器は色鮮やかで皇帝陛下のお眼鏡にも叶いそうな素晴らしいものであった。

交易開始に成功すれば、皇帝陛下にきっと喜んで頂けるだろう。

その為に、国境問題で日本と揉めるのは、彼の望むところではなかった。


「いえ、まずは国境問題を解決してからにしましょう。

現実に、北蝦夷(樺太)に滞在するロシア兵のこともあります。

そのことが解決しない限り、開国の話などするつもりはありません」


だが、川路としては、領土交渉を終わらせずに、開国交渉など始める気は更々なかった。

プチャーチンが全権代理の権限を持っていることも確認させて貰っている。

ならば、交易を質にすれば、プチャーチンに妥協させることも可能に違いない。


こうして、日ロ交渉が始まった。

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