第二十話 土方歳三、ロシア船に乗る
そのころ、土方歳三は、長崎を満喫していた。
平八とか言うおっさんと知り合ってから面白いことばっかりだ。
歳三は、多摩では
武道への憧れもあったが商家の生まれ。
奉公先で喧嘩して帰ってからは、実家の石田散薬を行商で売り歩く日々。
どう考えても、先が見えなかった。
だから、黒船が来たと聞いた時も行商をやめて、黒船見物をしに行ったのだ。
どうせ行商に行っても何も変わらないのだから。
そして衝撃を受けた。
煙を上げる巨大な船に、幕府の船は追い返され、上陸さえ許していた。
その黒船の想像以上の迫力に、興奮し、有り余る力を持て余し、幼馴染のかっちゃん(近藤勇)の道場に稽古に行ったところ、そこに人生の転機があった。
平八というおっさんとの出会いだ。
正直なところ、歳三は平八の見た夢というものが本当になるとは信じていない。
黒船にしてやられたとはいえ、幕府がそう簡単に揺らぐとは思えないし、自分が幕府の一軍を率いて戦うなんて、なったら面白いなとは思うが、本気でそんなことになるとは信じていない。
だが、海舟会を作った連中は違った。
その主な構成員は、歳三が侮っていた学者たちだったが、彼らは異国の恐ろしさを知っていた。
平八の見た夢が現実になる恐ろしさを理解していた。
だから、平八の見た夢を参考に、異国からこの国を守る為の策を建て、動き出した。
口先ばかりと侮っていた連中は、歳三が想像もつかない程に熱い魂を持っていたのだ。
そして、歳三は、その熱に巻き込まれ幕府の船に乗り、長崎にまで来ている。
全く、面白いことになったもんだ。
目の前に広がるのは、想像もしていなかった異国を思わせる長崎の地。
見るもの、聞くもの、初めての物ばかりだ。
食べ物も、女たちの格好も、江戸とは全然違う。
長崎は、歳三が、普通にあのまま行商をやっていれば、絶対に来ることはなかっただろう土地だ。
そんなところで、歳三は、幕府の役人と会ったり、出島でオランダ人にまで会ったりしている。
お調子者の勝麟太郎と生真面目な吉田寅次郎は、二人で組ませると交渉するには意外に良い組み合わせなのかもしれない。
佐久間象山の策通りに、二人は、オランダ相手に国と国の間の法を確認した上で、ペリーの暴虐と樺太の日ノ本領有をオランダから地球中に発信することを約束させ、最終的には幕府がオランダを視察することまで了承させている。
実に痛快だ。
歳三は思う。
黒船を前に力で押し切られて、浦賀へペリーとやらの上陸を許してしまった幕府の姿を見ているだけに
オランダ人を手玉に取っているような勝と吉田の二人に、喝采を上げたい気分になっていた。
そんな歳三達が今、何をしているかと言うと、
川路聖謨は老中阿部正弘に抜擢された一人で、今、長崎に停泊しているロシアの
彼とロシア全権のプチャーチン提督との交渉が、これからの日ロ関係を定めることになるだろう。
だからこそ、海舟会の面々は、川路聖謨を待つ。
やってくる川路聖謨に象山の策を与える為に。
それに加えて、樺太遠征の結果を確認するのも待たなければならない。
そんな訳で、海舟会の面々は多少、時間に余裕が生まれ、長崎の街を堪能することが出来ていた。
そして、今、歳三はロシア船に乗っている。
高圧的なペリーと異なり、ロシアはシーボルトの献策に従って紳士的に振る舞い、希望があれば幕府の人間の乗船、見学を許して友好関係を築こうとしていた。
そんな状況で、お調子者の勝麟太郎と好奇心の塊のような吉田寅次郎が黙っていられるはずがなかった。
交渉の為の情報収集の名目で、幕府の役人と共に乗船することを懇願し、歳三は勝、吉田、そして平八と共にまんまとロシア船に乗船したのである。
初めて見るロシア人は、身体も大きく骨太でゴッツイ感じのものが多かった。
なるほど、異人が鬼だと言われるのも納得だ。
戦うとなると、かなり苦戦しそうだ。
そんなことを考えている歳三をよそに、勝と吉田は落ち着きなく、あちらこちらを見て回っては、近くのロシア人に話を聞いては感心しているようだ。
「いやあ、不思議なものですな。
アッシの夢だと、吉田様は、ロシア船に乗ろうと長崎に向かったのですが、
ロシア船の出航に間に合わなかったのですよ。
その吉田様が今、ロシア船に乗り、ロシア人から話を聞いている。
夢と現実が変わってきていることを実感いたします」
「ロシア船は川路様が来るまで待っているんじゃねえのか」
「今、ロシアはイギリス、フランスと戦争をしておりますからな。
食料、石炭が乏しくなり、イギリスが長崎に襲撃してくることを恐れて、11月頃に一度長崎を離れるのですよ。
まあ、すぐに戻ってくるので、吉田様が長崎で待っていれば、ロシア船に乗ることも出来たのでしょうが。
吉田様は、すぐに江戸に戻られましてね」
「なるほどな。確かに、せっかちな、あの先生らしいや」
歳三は苦笑する。
平八の夢だと、吉田寅次郎は、幕府を倒す原動力の一人になる男だが、歳三はその真っすぐさをどうも嫌いになれないでいた。
「それで、あんたの夢によると、このロシア船に使節団の親玉が乗っているんだよな」
「夢の通りなら、あそこで勝様、吉田様と話している口髭の人物が、使節団団長プチャーチン提督でしょうな。
夢で見た絵姿によく似ております」
勝が大砲の前で興奮して色々聞いているのを口髭の人物が丁寧に説明している。
どうも、勝の話すオランダ語で会話が成立しているらしい。
ロシアは何度も国交樹立を目指して日本に来ているだけあって、オランダ語を話せる人間を交渉役に置いているのだろう。
力づくのアメリカとは大きな違いだ。
「ほう、随分と礼儀正しいじゃねぇか。
だけど、そんな顔をして、ロシアは日ノ本の領土を狙っているんだろ」
「ええ、凍らない港を手に入れることはロシアの悲願ですからな。
だからこそ、こちらが先に北蝦夷(樺太)を確保することが重要になってくる訳でして」
「北蝦夷(樺太)を防波堤にして、ロシアの南下をそこで食い止めるってんだろ。
だけど、それで
「ええ、アッシの夢では、樺太を取られるなら
その北蝦夷(樺太)が我らに既に占領されていると聞いた時、どう出るか」
「北蝦夷(樺太)を奪還に来るかもしれねぇって訳だよな。
じゃあ、いっそ、今の内に斬っちまうか。相手が油断している今なら、大将首だって取れるぜ」
歳三が冗談混じりで軽口を叩くのを、平八が苦笑しながら応える。
「そうですな。土方様なら斬れるかもしれません。
ですが、歓迎している相手を後ろからぶっすりというのは、武士としてはどうなのでしょうな」
「なーに、あんたが言う通りなら、ロシアは裏で北蝦夷(樺太)にも兵を出しているんだろ?
向こうが先に、手を出してきているなら、卑怯でも何でもねぇよ」
「だとしても、少なくとも、今はまだ、戦いを避けるべきなのですよ。
まともに戦って、ロシアが本気になっちまったら、まだまだ日ノ本に勝ち目はありませんから」
「時間を稼ぎ、その間に、富国強兵だったか。
それなのに、北蝦夷(樺太)を占拠し、ロシアと睨みあうってのは、なかなか強気な一手だよな」
「今、ロシアはクリミア戦争でイギリス、フランスとも戦っておるから打てる手ではありますな。
いかに、大国ロシアといえども、イギリス、フランスと戦いながら、更に日ノ本とも戦う余裕はないはずというのが象山先生の予想でしたな」
「本気で戦えば負けるから戦う訳にはいかないけど、相手が戦う気がないことを知っているから、いつでも戦えるという姿勢だけを見せて、有利に事を進めるって話だったよな」
「おまけに、プチャーチン提督は日ノ本との国交樹立を目指して来ておりますから、日ノ本を敵に回して、国交樹立に失敗したくないはずですしね」
「それが、あんたの夢を基に、佐久間先生が立てた策って訳か。
だが、あんたの夢が外れていたらどうする?
あんたの見た夢と違って、ロシアがイギリス、フランスと
「大変なことになるでしょうな。
もしかしたら、異国が日ノ本に侵略する口実を与えかねない。
だからこそ、確認しても問題が起きないところから順番に確認し、様子を見ているのですけどね。
とりあえず、オランダはアッシの夢の通りでした。
小笠原諸島では、アッシの夢以上にうまくやったと桂様から吉田様に報告が入っているようです。
後は、北蝦夷(樺太)への派兵がうまくいき、北蝦夷(樺太)は日ノ本の領地であるという日ノ本の主張がオランダから地球中に広がってくれればいいのですけれど」
「そうすれば、ロシアの親分は北蝦夷(樺太)を諦めてくれるってか。
そんなに、うまく行くものかねぇ」
歳三が挑発するように言うと、平八は懸念をあっさり肯定する。
「確かにそうですな。ロシアから見れば、北蝦夷(樺太)はちっぽけな島ですが、簡単に土地を譲る
だからこそ、交渉が重要になってくる訳で。
北蝦夷(樺太)を譲っておいた方が得だと、ロシア側に思わせる必要がありましてな」
「ロシアが日ノ本の北蝦夷(樺太)領有を認めれば、北蝦夷(樺太)でロシアと交易することを検討することを約束してやるってか。
そんなこと、攘夷の水戸藩が飲む訳がないだろうに」
「桂様の報告によると、水戸の藤田東湖様は、北蝦夷(樺太)防波堤案に一定のご理解を示されたようですがな」
「さて、どこまで、その報告とやらが正しいのやら。
だけど、ロシアは何だって、そんなに日ノ本との交易をしたがるのかねぇ」
「それが、ロシア帝国100年の悲願なのですよ。
東の果てにある神秘の国である日ノ本との交易を望み続けているとか。
そのために、友好的に振る舞い、土産も色々用意してきたようですよ」
そう言うと、平八は何か思い出したようでプチャーチンと話している勝に何かを話しかけた。
それを勝が訳すと、プチャーチンはにこやかに頷き、海舟会の面々を案内する。
「おい、何を言ったんだ?」
移動の最中に歳三が平八に聞く。
「ロシアが日ノ本の関心を引こうとして持ってきたものを思い出しましてな。
それを見せて貰おうと思いまして」
「そんな物見せて貰って、どうするんだ」
「こちらからも、お礼を持ってきましたからな。
今日のところは、その交換で日ノ本とロシアの友好関係樹立に微力ながら協力させて頂きます。
交渉が始まるのは、川路様が来てから。
それまでは、お互いに好意を持っていた方が、お互いの為の結果を探しやすくなるでしょうからな」
「異人であろうと、人は人。
憎からず思う相手には、悪いことはしねぇってことかい」
「まあ、そういうことですな。
任務は任務だとしても、好意を持つ相手には、良いことをしたくなるのが人間ですから」
歳三は平八の気の抜けた話に毒気を抜かれたような気がしていた。
戦えば絶対にロシア人に勝てない平八が、ロシア人を全く恐れることなく、只の人だと言っている。
実に喰えないおっさんだ。
そんな風に話している内に、歳三たちはプチャーチンの招きで、ある部屋に入り、ロシアからのお土産という機械の前に辿り着く。
チラリと見た限りでは、両目でギヤマン(ガラス)の穴を覗くようになっているようなのだが。
「何でも、こいつはヨーロッパにも、まだほとんどない、最新の機械だそうだぜ」
勝が楽しそうに話し、何の躊躇いもなく、穴を覗き込む。
覗き込んだ途端に、勝の歓声が部屋中に響き渡る。
「おう、こいつはスゲーな。いや、本当にここにいるみてぇじゃねぇかよ。
ほら、吉田君も覗いてみな」
そう言われて、おずおずと吉田先生も穴を覗き込むが、勝とは対照的に顔を真っ赤にして、慌てて覗き穴から目を離す。
「私は、弱い人間です。女色に溺れては、国事の為に奔走することなど出来ません。
勝さんには、そうお伝えしていたではありませんか。
それなのに、どうして、このような物を見せるのですか」
「これも勉強さ。吉田君は固すぎるぜ。清濁併せ吞んで、初めて出来ることだってある。
象山先生を見てみろよ。お順(勝の妹)の奴にゾッコンだが、ちゃんと国事の為に頑張っているだろ?
吉田君だって、女を知っておいて損はねぇぜ」
「象山先生は真の英雄であるから、そのようなことが出来るのであります。
私の様な未熟者は、脇目も振らずに全力で突っ走らなければ、象山先生の足元にも及ばないのです」
落ち込む吉田の反応を気にしながら、歳三は穴を覗くと吉田が落ち込んだ理由を理解する。
穴から見えるのは異人の女の裸のフォトガラ(写真)なのだ。
フォトガラだけなら、歳三も佐久間象山のところや、出島で見せて貰ったことがあるが、このフォトガラは何故か飛び出して見える。
こう、乳房が肉感的に生々しく飛び出し、今にも触れられるような錯覚に陥るような。
男にも女にもモテる歳三にとっては、女の裸なんぞ、珍しいものではない。
風呂屋に行けば混浴だから、女の裸なんぞ普通に見られるし、そんな中、若い女が他の男に見られることも気にせず歳の傍に寄ってくることもある。
まだ、18歳に過ぎないが、歳三は年の割には経験豊富な方であろうと自負している。
そんな歳三でも、普通では見られないはずの異人の女の裸を見て多少は驚いたのだ。
おまけに、このフォトガラは何故か立体的に柔らかそうな乳房まで浮き上がって見える。
五歳年上でも、女を知らない吉田が動揺するのも仕方ないことだろう。
そんな吉田の様子を見て、招待主であるプチャーチンが心配して声を掛けて来たので、勝が事情を説明していたようだ。
説明を聞き終わると、プチャーチンは吉田に対して好意を抱き、その禁欲さを称えているようだ。
「異人達の多くは耶蘇教徒(キリスト教徒)ですからな。
男と女のことには禁欲的な者が多いようなのですよ。
そんな人間が、どんな気持ちで、こんな物を持ってきたのかと思いましたが、日ノ本の人間は色を好むという情報を聞きつけて、それに合わせて、このような物を持ってきたということなのですな」
歳三に続いて覗き穴を覗いた平八は動揺することもなく、淡々と歳三に説明する。
「男と女のことなんざ、異人でも俺達でも変わらねぇんじゃないのか」
「いえいえ、耶蘇教だと好色は悪い事とされているのですよ。
そして、身体を売ることも悪い事。
アッシらから見れば、生活の為、家族の為の身売りなら、健気に思っても、悪人だと責めることもないんですがね。
連中の価値観だと、結婚もせずに、楽しみの為にまぐわう(SEXする)ことも悪いことになりますから。
アッシらには高嶺の花の花魁でさえも、唾棄すべき悪人ということになってしまいます。
それに対して、吉田様は彼らと理由は違いますが禁欲的ではありますから、自分たちと似た価値観を持つ人間として、好意を持たれたのでしょうな」
「け、坊主じゃあるめぇし。随分、かたっ苦しい生き方をしてんだな、異人て奴は。
その癖、清には売るなと言ったアヘンを売って、喧嘩を吹っ掛けたんだろ。
訳わからねぇよ」
「そんな風に価値観が違うのですよ。だからこそ、お互いを知る必要がある。
話し合う必要がある。
まあ、話し合ったからと言って、分かり合えるとは限らぬのですが。
少なくとも知ることが出来れば、問題を避けることは可能でしょう」
「その為に、付き合い、相手を知る必要があるってことか」
「はい。それで、こちらもお土産を持ってきた訳です。
異人たちは、アジアの茶や陶器等が好きで、それで国を傾けかけたなんて話もありますからね。
こちらのお土産を喜んで貰えるのか、確認しておいた方がいいと思いまして」
そう言うと平八は勝に声を掛ける。
「勝さん、新門の辰五郎親分に頼んで貰った浮世絵をお礼にプチャーチン提督に渡して貰えますか」
そう言われて勝が持ってきた荷物から浮世絵を取り出そうとするのを見ながら、歳三は少し焦る。
浮世絵なんて、どこにでもあるような安いものだ。
何人かの売れっ子浮世絵師もいるようだが、たいした稼ぎにならないのは有名なところ。
そんな詰まらないものを渡したら、この国の恥になるのではないだろうか。
だが、平八は勝が取り出した浮世絵を見て、堂々と話す。
「ご存知とは思いますが、異人相手に謙遜なんぞ理解されません。
江戸で一番、いや地球で一番の浮世絵師に、特別に刷って貰ったものだと言って渡して下さい。
きっと喜んで頂けるはずです」
出された浮世絵は、確か元火消しの絵描きの何とか広重とか言う奴が書いた風景画だったはずだ。
確かに、蒼い海と空の色がとても綺麗な絵だとは歳三も思う。
だが、こんなもの、異人に理解出来るものなのだろうか。
歳三がそんな風に心配していると、効果は
プチャーチンは浮世絵を見ると、手を震わせ、えらく感激したみたいで、しきりに感謝の言葉を述べている。
「幕府の使節団が到着するまでお待たせするお詫びに、差し上げると言ったら、エラク感動して、このような素晴らしい絵を個人でも貰うことなど出来ない。ロシア皇帝陛下に献上させて貰う」
ってお礼を言ってるぜと勝が自慢げに話す。
まあ、このおっさんも浮世絵師に無理して書かせたらしいからな。
異人とは言え、皇帝陛下に献上ってことになったら、浮世絵師にも面目が立つってことだろう。
たとえ異人だとしても、綺麗なものを綺麗だと思う気持ちは変わらないのだなと歳三は思った。
そして、その夜、歳三は一つの句を詠む。
秋の月 ロシア人でも 人は人
ロシアと日本の交渉の時が迫っていた。
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