第十九話 樺太を巡る攻防
ロシア兵が樺太の
樺太遠征が、そのままロシアとの
だが、松前崇広は偵察隊の報告を淡々と聞き、状況を確認する。
腰抜けと思っていた松前崇広の意外な姿に藤田は瞠目する。
偵察隊の持ってきた情報によると、
ロシア兵はおそらく100人足らず。
だが、ロシア兵は武力を振るうことなく船を止め、砦を作り始めたと言う。
言葉はわからないが、態度は友好的。
文句を言いに行ったところで、ノラリクラリと躱され、漁師たちには食料や酒を振舞っているとのこと。
倉庫の占拠もロシア人がいつの間にか入り込み、柵を作って入れなくしたとか。
全ての報告を聞き終わり、松前崇広が一同を見渡し、宣言する。
「これは松前藩も全力を持って出撃した方が良さそうですな。
すぐに、兵と銃、大筒、船の準備をさせよ」
松前崇広がそう言うと松前藩士らしき者が慌てて止める。
「殿、お待ち下さい。
幕府に対応を確認せずに出兵などすれば、どんなことになるか。
まして、それでロシアとの
「我らが出なくても、水戸藩の方々が、この知らせを聞かれれば、必ず出兵されるだろう」
言われた藤田が頷く。
元々、樺太を守る為の出兵なのだ。
攘夷の気質が強い水戸藩が、ロシア兵が樺太を占拠したとの報を聞いて黙っていられるはずはないだろう。
「それに、聞いていなかったのか。
報告を聞いた限り、今のロシア兵に我らと
藤田殿によれば、長崎には我が国との国交樹立を求めるロシアの船が来ており、地球の裏側でもロシアは他の国と大規模な
ならば、日ノ本と揉め事を起こしたくはないのも当然のことだろう」
「しかし、報告が間違っており、ロシア側に戦う意思があれば」
「その為に、我らも行くのだ。ロシア側は高々船一艘に100人足らずの兵。
こちらからも兵を出せば、船は六艘、兵は1000以上になるだろう。
その圧力を持って、ロシアには兵を引かせれば良い」
「ですが、それでも勝てねば、我らの責任に」
「もし、それで戦になって、勝てなければ、何をやっても勝てぬよ。
水戸藩の方々が、蝦夷にいる時に、ロシアが北蝦夷(樺太)上陸をした時点で、我らに傍観は許されぬ。
兵を出さねば、幕府より水戸藩を見殺しにした臆病者の烙印を押され改易されるだろう。
まあ、一応の策はあるし、長い
二度は通じない手ではあると思うが、今回だけなら、何とかなるだろうから、早く兵を集めるのだ」
そう言われ、暫く考えた後、家臣らしき男は頭を下げ、部屋を出ていく。
兵を集めよ!北蝦夷に出兵する!との声がふすま越しに聞こえる中で、松前崇広は藤田に確認する。
「藤田殿、長崎にロシアの船が来ていること、地球の裏側でロシアが
「うむ、確かだと聞いておる」
「戦いの相手は、どこですか?」
「確か、イギリスとフランスだ」
「なるほど、それなら、まあ、何とかなるでしょう。
ところで、今回の遠征には異国の言葉を話せる者はおりますのでしょうか」
「……いや、おらぬ。松前藩でアイヌの者を紹介してもらうつもりであった」
「承りました。それでは、
こう見えて、蘭学だけでなく、イギリスの言葉も多少ならわかりますので」
「なんと、オランダ言葉に加え、イギリス言葉も使えるのですか」
「
暇にあかして、興味のあることは何でもしておりました。
おかげで、藩主としての振る舞いというのは良くわからず、藩士からの忠誠もございませんが、その代わり出来ることはございまして」
藤田は松前崇広の藩主らしくない言動に納得し、尋ねることとする。
「なるほど、そういうことでしたか。
それで、先ほど仰っていたロシアへの策というのは」
この後、藤田は松前崇広と打ち合わせを行い、樺太に向かうこととなる。
**************************
ロシア海軍ネヴェリスコイ大佐は、日本船が近づいてきたという報を聞き、ついに来るべきものが来たかと考える。
今回の樺太出兵は、皇帝からの勅命であるとのことであるが、単なる武力占領を目指す単純なものではなかった。
東シベリア総督ムラヴィヨフからは、日本に不安を与えるな、友好的な態度を示し、外国人の侵略から守る為の上陸であると納得させよとの命令だったのだ。
本来の目的は、イギリスに樺太を占領され、補給基地として利用されることを防ぐこと。
それで、樺太を領有していると考えている日本が攻めてくることは十分に考えられたことだった。
だが、ネヴェリスコイ大佐は日本と戦う許可を得ていない。
戦えば勝てるだろうが、武力を使わずに、友好を装い、樺太滞在を続けなければならないのだ。
果たして、日本が攻撃を始めてしまった場合、どうすればいいのか。
ネヴェリスコイ大佐には、武力を使わない困難な戦いが予想されていた。
現れた船は全部で六艘。
噂には聞いていたが、日本には海軍というものがないようで、小振りな船ばかりだ。
だが、六艘は予想以上に多い。
建設中の砦に攻撃されれば、70人で防衛するのは難しいだろう。
一方で、あんな小さな船なら、万が一、攻撃されても、何とでもなるだろうと考え、
ネヴェリスコイ大佐は船で日本人と対応することを決める。
日本船は船を港に停泊させると、多数の侍が降り立ち、砦を取り囲む。
幸い、いきなり攻撃を始めるようなことはなさそうだが、砦の中の兵士にとってはかなりの恐怖だろう。
同時に、多数の小舟が下ろされ、ネヴェリスコイ大佐のいる船に向かってくる。
小舟にも、多くの侍と物資を載せているのだろう。
甲板に布を掛けた小舟が重そうに揺れながら近づき、ロシア船を取り囲む。
「私はオランダ語と英語を話せる。オランダ語か英語を話せる者はいないか」
との英語が下から聞こえてくる。
日本人はオランダ語を話せる者がいると聞いたことがあるが、英語も話せるものがいるとは知らなかった。
オランダ語はともかく英語ならネヴェリスコイ大佐も多少はわかる。
それならば、話し合って戦闘に入るのを防ぎ、滞在を認めさせた方が良いだろうと考え、返事をすることにする。
「英語なら多少はわかる。何の用だ」
「我々は、この地を支配する日本政府のものだ。
無断で我が国に侵入し、我が国の施設を占拠するあなた方に抗議しに来た。
この抗議が受け入れられなければ、攻撃を開始する」
この船をただ追い返せば樺太に上陸している砦建設部隊は攻撃を受けるのは間違いない。
そして、あの数では、砦に残ったものは無事には済まないだろう。
ネヴェリスコイ大佐は、縄梯子を下ろし、会談の為の乗船を許可することにした。
ただし、取り囲む小舟に乗る人員を全員乗船させれば、万が一戦闘になった場合、危険が大きいと判断し、乗船は最大10人までにしろと伝える。
小舟から続々と乗船し、甲板に用意した椅子に座っていくとネヴェリスコイ大佐は挨拶をする。
「我が船にようこそ。私はロシア海軍ネヴェリスコイ大佐です」
英語を話せるという男は、上役らしき男と話した後、挨拶に応える。
だが、英語はさほど、うまくないようで、言葉はたどたどしい。
「私たちは、日本政府の役人です。
北蝦夷(樺太)の赴任に来たところ、あなた方が無断で樺太に上陸してきたと聞いたので来ました。
あなた達は、何のために来ましたか」
これに対し、ネヴェリスコイ大佐は考えていた言い訳を話す。
「我々はイギリスの侵略を防ぐ為に、この島に来ました。
イギリスは今、清などを侵略している酷い国です。
しかし、あなた方は、海軍も持っていません。
このままでは、イギリスの餌食となるのは間違いありません。
だから、私たちは、この島をイギリスから守りに来たのです」
「アヘン戦争におけるイギリスの蛮行は私たちも知っている。
だが、同時に、今、ロシアがイギリスと戦争をしていることも知っている。
日本はイギリスと戦争をしていない。
それならば、ロシアが北蝦夷(樺太)にいた方がイギリスから攻められる危険が増えるのではないか」
ネヴェリスコイ大佐は、この地の果てにある日本が、クリミア半島でのイギリスとロシアの対立を知っていることに驚く。
と同時に、目の前の男が英語を話していることに改めて気づき恐怖を覚える。
イギリスは既に日本と接触し、日本を利用して、ロシアを樺太から追い出し、樺太を占拠しようとしているのではないか。
そんな疑惑がヴェリスコイ大佐の胸に宿る。
そう考えると、目の前の男が英語を話せることも、クリミア戦争のことを知っていることも納得がいくのだ。
ならば、絶対、樺太を離れる訳にはいかないだろう。
何とか、樺太滞在を認めさせなければ。
「ロシアがいるから、イギリスが攻撃してくるとは心外です。
あなた方はイギリスの獰猛さを知らない。
我々が出て行けば、サハリン(樺太)はすぐにでも占領されるでしょう」
ネヴェリスコイ大佐はイギリスの危険性を訴えるが、日本が既に裏でイギリスと手を組んでいるのなら、それで説得されることはないだろう。
実際、いくらイギリスの危険性を叫んでも日本人たちには響かないようだ。
「私たちの領土は私たちが自分で守る。
ロシアの助力は不要だ。
もし、ロシアがこれ以上北蝦夷(樺太)に居座ると言うのなら、私たちはあなた達を実力で排除する。
そうすれば、イギリスも排除出来るということを証明出来るだろう」
遅れた小さな島国に過ぎない日本がロシアに戦意を見せてきたことでネヴェリスコイ大佐は、日本がイギリスと裏を組んでいるという疑いを強くする。
日本だけでロシアに逆らったところで勝てる訳がないのだ。
強気に出るからには、それなりに理由があるということに違いない。
既に日本がイギリスと組んでいるのならば、戦闘になったとしても問題はないだろう。
そう考え、ネヴェリスコイ大佐は、友好的な態度を崩し、威圧的は発言をすることにする。
「それは、日本がロシアと戦争するということか。
我々ロシアは平和を愛するが、武力で威嚇をされて、黙っているつもりはない。
もし、あなた方がイギリスと組んで、我が国と対抗するというなら、敵国として扱うことになる」
ネヴェリスコイ大佐がそう言ったのを訳すと日本側は不審げに話をする。
「日本がイギリスと組んでいるとは何のことだ?
我が国は、イギリスの様な野蛮な国と協力などしない。
詰まらない言い掛かりなど止めて、早く北蝦夷(樺太)から出ていけ。
これはロシアと日本の戦争ではない。
侵略を企む無法者の部隊を追い返しているだけだ。
それとも、この侵略はロシア皇帝の意思なのか。
もし、そうであるならば、ロシアを侵略国家であると認識し、長崎にいるロシア船への対応にも影響を与えるだろう」
そう言われてネヴェリスコイ大佐は唇を噛む。
予想していたが、日本は素直にイギリスとの関係を認めたりはしない。
認めればロシアが日本を攻撃する正統性を与えてしまうのだから、当然だろう。
その上、長崎にいるプチャーチン提督のことまで持ち出されるとは。
日本との国交樹立はロシア帝国長年の悲願。
だからこそ、今回の樺太出兵は、日本との戦闘を避けるようにと釘を刺されている。
だが、日本が既にイギリスと組んでいるなら、全ては無駄だろう。
しかし、証拠もなく、日本がイギリスと組んでいると断定して、万が一間違っていれば、自分は間違いなく皇帝の不興を買うことになる。
ネヴェリスコイ大佐が考え込んでいると、日本の役人が宣言する。
「北蝦夷(樺太)を我が国の領土と認め、早く出て行け。
さもなくば、この船を沈め、上陸している部隊を皆殺しにすることとする」
思いもかけない威嚇を受け、ネヴェリスコイ大佐は鼻で笑う。
「日本が海軍を持っていないことは既に分かっている。
それなのに、どうやって、この船を沈めるというのだ。
下にある小舟から大昔の海賊のように乗り込んできて戦うというのか」
そう言うと通訳をしていた男が笑う。
「舟から乗り込む必要はない。
よく見てみろ。
我々をここまで乗せてきた舟に積んできた大砲が、既にこの船を狙っている。
合図一つで大砲が一斉に火を噴き、この船は沈むことになる」
男がそう言うとネヴェリスコイ大佐は青褪め、船べりから海面を覗くと、
ロシア船を取り囲む小舟が大砲を構えているのが見える。
小舟の甲板に掛かっていた布は、この大砲を隠す為のものだったのだろう。
日本の大砲は清のように古い青銅製ものばかりだろうとは聞いている。
だが、こんな至近距離で何発も海面近くを撃たれれば、
鉄で出来ていないこの船は簡単に沈んでしまうだろう。
「あなた達は正気なのか。
あなた達が乗っている時に船を攻撃すれば、あなた方も船と一緒に沈むこととなる。
それだけじゃない。大砲を撃った小舟も、大砲を撃った反動で沈むことになるのだぞ」
そう尋ねると、男たちは誇らしげに応える。
「日本の侍は死よりも不名誉を恐れる。
命を捨てて、この国を守ったならば、皆がそれを誇りに思うだろう」
そう答える日本人にネヴェリスコイ大佐は、はじめて恐怖を感じる。
言葉は通じるのに、全く理解が出来ない恐怖だ。
こんな小さい島の為に命を平然と捨てると述べる日本人という存在。
今のやり取りで、イギリスも日本と組んでいないことを確信する。
こんな連中と信頼関係を結べる者は、世界中、どこにもいないだろう。
だが、こんな戦術がイギリス相手にうまく行くとも思えない。
そして、イギリスにアムール河河口や樺太を占拠されれば、カムチャッカ半島の同朋がイギリスの攻撃に晒されるのだ。
皇帝の命令もなく、引くわけにはいかない。
「あなた達の覚悟はわかった。
イギリスと協力関係にないことも理解した。
だが、この島をイギリスに占領させる訳にはいかないのだ。
イギリスから、この島を守る為の協力する為に、この島への滞在を許して欲しい。
滞在の為の条件を出してくれ。条件次第では、それに従おう」
ネヴェリスコイ大佐がそう話すと、日本側は相談の上、条件を伝えてくる。
「第一の条件として武装解除。
滞在を許した途端に大砲を打ち込まれ、銃で撃たれたくない。
本当に異国が攻めて来た時や帰る時は、武器を返し、共に戦うことを許すので、船と武器を日本に預けよ。
第二の条件としてロシア国旗を降ろし、北蝦夷(樺太)を日本の領土と認めること。
北蝦夷(樺太)は日本の領土である。
そのことを認める文書に署名し、日本の法に従うことを誓え。
日本はロシアとイギリスの戦いに巻き込まれるつもりはない。
ロシア国旗など揚げていれば、イギリスの攻撃を誘発することになる。
だから、北蝦夷(樺太)に掲げているロシアの旗は全て下ろし、日本の旗に取り換えよ」
思っていた以上の過酷な条件にネヴェリスコイ大佐は顔を引きつらせる。
これならば、滞在を諦めて、一旦樺太を去った方が良いのかもしれない。
だが、皇帝陛下の命令は絶対だ。
勝手に戻れば、どんな罰を受けるかわからない。
一方で、断れば、この連中は躊躇わずに、大砲を打ち込み、自分もろともこの船を沈めるだろう。
そこで仕方なく条件の緩和を提案することとする。
「武装解除には応じよう。
だが、この島を日本の領土と認める署名は出来ない。
その権限がないからだ。
旗を降ろし、日本の法に従うことは誓うので、それで許して欲しい」
ネヴェリスコイ大佐がそう言うと、日本側は相談の上、了承する。
こうして、水戸藩は松前藩と共にロシア兵と樺太に滞在し交流することとなり、
歴史のうねりは従来とは違う方向に大きく動き出すこととなる。
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