第十八話 蝦夷
御用船は順調に進み、最初の目的地蝦夷地に向かう。
目的は樺太の情報収集、砦作成の為の大工の募集、補給体制の構築、樺太への案内人の募集等多岐にわたる。
それらは幕府の命令であるから、松前藩は全力で従わなければならないはずではあるが、間宮林蔵から聞いた限りでは、協力を得ることは難しいだろと藤田は考えていた。
蝦夷地の調査は
連中は幕府に蝦夷地を取られることを恐れているのだ。
だから、蝦夷地を化外の地、未開の地のままとしておきたいのだろう。
蝦夷は危険で、松前藩の人間以外では対処出来ない土地。
そう思わせておきたいからだろう。
連中は、幕府の調査団に毒を盛った疑いすらあると言う。
愚かなことだ。藤田は思う。
とても、国境を接するロシアから日ノ本を守ることを任せる訳にはいかない連中だ。
今回、藤田が樺太出兵の指揮を執ることになったのには、そういう事情もある。
幕府の命令を受けて動く徳川御三家、水戸藩の懐刀と知られる藤田に協力しないならば、それだけで松前藩はお取り潰しされても仕方のない謀反だ。
松前藩の連中には、樺太防衛の失敗は、そのまま松前藩の失態と見做されると伝え、最大限の協力を引き出すこととしよう。
そう考えて、藤田は松前藩との会談に臨む。
場所は、先日完成したばかりの松前城。
これを建てた大工連中を樺太まで連れて行き作業をさせる。
そう難しくはないはずだ。
これに対応するのが、第12代松前藩藩主、
中々にいかつい顔の男であるが、武術を嗜み、西洋通で知られ、藤田は知る由もないが、平八の知る世界線では、その西洋通を買われ、外様大名にも関わらず、幕府老中にまでなる男である。
既に先ぶれで、幕府の命令として、水戸藩の人間が大量に来ること、その越冬の為の物資を用意すること、樺太の現状を確認すること、砦を作る為の材料とそれを作る大工を用意しろ等の命令は伝えてある。
そこで、藤田はまず、樺太の状況を松前崇広に確認することとする。
「幕府よりの指示が届いていることと思いますが、まず確認させて頂きたい。
北蝦夷(樺太)の現状についてです。
北蝦夷(樺太)は現在、松前藩の管理地であると認識しておりますが、それでよろしいでしょうか?」
「はい。確かに、我ら松前藩の管轄とはなっております。
しかし、北蝦夷(樺太)は遠く、寒過ぎます。蝦夷の寒さに慣れた我ら松前藩のものでもそうなのです。
水戸藩の方々に耐えられるかどうか」
藤田は予想外の反応に少し驚く。
どうやら、目の前の男は、幕府の命令から、藤田の目的をほぼ正確に掴んでいるようなのだ。
松前藩を私利私欲に塗れた連中と侮っていた藤田にしてみれば驚きでしかない。
果たして、藩主であるこの男だけが例外なのか。
しばし考え、藤田は答える。
「その仰り様ですと、松前藩では北蝦夷(樺太)防衛に人を割いておられぬようですが」
「確かに、ロシアから守る為には、誰かが行くべきでしょう。
ですが、北蝦夷(樺太)に赴任を命じたりすれば、左遷、流刑かと思われるような所でございますよ」
藤田は、松前崇宏がロシアからの防衛までも視野に入れていることに再度驚くが、同時に憤慨もする。
「ロシアから守るべきと知りながら、何もなさらないのか!」
「不徳の致すところではありますが、
その上、松前藩には、蝦夷地全土を防衛するに十分な兵力がございません」
「何という腰抜け。日ノ本を異国から守るという気概もないのですか。
それだけで、蝦夷地没収に値しますぞ!」
「もし、幕府が戦って死ねと言うなら、ロシアと戦い死にましょう。
ですが、それは時間稼ぎにもならぬ完全な無駄死に。
むしろ、ロシアに日ノ本侵略の口実を与えかねない利敵行為。
それだけ、ロシアと松前藩の間には力の差がございます。
気概でどうにかなる程度の差ではないのですよ」
松前崇広は激高する藤田を物ともせず淡々と述べる。
「ロシアは、今の地球で最も大きな国家です。
松前藩どころか、日ノ本の兵を全て集めたとしても、ロシア兵の数には全く比較にならない程の差があります。
その上、彼らの持つ武器は我らのものより、ずっと高性能です。
藤田殿、北蝦夷(樺太)に行けば、そのロシアと
水戸藩は、それをご承知の上で、勝算があって北蝦夷(樺太)に行かれるのか」
目の前の男は何の
今回連れて来た水戸藩の若い連中なら激高し、斬りかかってもおかしくない暴言だろう。
だが、万次郎からアメリカの恐ろしさを聞かされている藤田としては、簡単に否定出来る話でもない。
「不利だと言って、黙って侵略を許すべきではないでしょう。
こちらが動かなければ、異人たちはどんどん押し寄せてくる。
だからこそ、北蝦夷(樺太)に行って、秋津洲を異人から守る為の砦とせねばならぬのです」
藤田がそう言うと松前崇広は確認するように尋ねる。
「今回の北蝦夷(樺太)出兵は、ロシアを倒す為ではなく、ロシアとの戦いを有利に進める為ということですか」
「その為に、北蝦夷(樺太)の情勢の確認をお願いしております」
「北蝦夷(樺太)には、幕府の命を受けてすぐに、北蝦夷(樺太)に行ったことのあるアイヌ人をみつけ、それに道案内をさせ、船で向かわせておりますが、まだ帰っておりません」
「出発して何日位になりますか」
「七日になりますが、まだ戻りません。
それだけ遠いのですよ。北蝦夷(樺太)は。
それで、北蝦夷(樺太)に異人たちがいた場合、どうなさるおつもりですか」
「無用の血を流すつもりはございません。
たとえ異人であろうとも、北蝦夷(樺太)を日ノ本であると認め、我が国での法に恭順するということを誓うのであれば、北蝦夷(樺太)への居住を認めるつもりです」
「では、北蝦夷(樺太)にロシア兵が既に常駐していた場合は?」
松前崇広は声を厳しくして尋ねる。
「多くの水戸藩士は北蝦夷(樺太)を異人から守る為にきております。
ロシア兵がいたというだけで、撤退することは難しいでしょうな」
「つまり、ロシア兵がいれば戦うということですか?
本格的な
「ロシアは我が国との交易を求めて長崎に船を寄越してきており、同時に、地球の裏でロシアは他の国と大規模な
つまり、今が、絶好の好機なのです。
今なら、たとえ北蝦夷(樺太)で小競り合いとなろうとも、本格的な
藤田がそう言うと松前崇広が暫く考え込んだ後、尋ねる。
「そのような情報を掴んでいたのですか。
とすると、幕府はロシアに、我が国の北蝦夷(樺太)領有を認めさせる代わりにロシアと北蝦夷(樺太)で交易をすることを考えておられるのか」
想像以上に鋭い松前崇広の指摘に藤田は驚きながらも答える。
「北蝦夷(樺太)を確保するのは、秋津洲を異人から守る為です。
異人との交渉条件を良くする為などと言えば、血の気の多い水戸藩士たちが黙ってはおらんでしょう」
藤田がそう言うと、松前崇広は藤田の言葉の裏を読んだようで薄く笑い、頷き答える。
「そうでしょうな。随分と藤田殿はご苦労されているようだ。
だが、それで
そういうお考えならば、藤田殿は引き際を間違われることはないでしょう。
いや、実際、心配していたのですよ。
水戸藩が無謀な攻撃を始めてロシアに負けたら、我ら松前藩の所為にされるのではないかと」
藤田はヌケヌケと幕府批判とも取れるような発言をする松前崇広に呆気に取られるが、少なくとも藤田は、ちゃんと松前藩が今回の命令に協力する限り、結果がどうなろうと、松前藩に押し付ける気はなかったので反論する。
「松前藩が今回の北蝦夷(樺太)出兵にきちんと協力するなら、結果がどうであろうと、松前藩に全ての失敗の責任を押し付け卑怯者になるつもりはない」
「ええ、藤田殿はそうでしょう。ですが、弊藩は外様に過ぎません。
誰かが責任を取らねばならぬ事態となれば、
それが、徳川の治世を守るということですからな」
松前崇広は当然のことのように呟く。
「となれば、
まだ、改易されたくも切腹もしたくもありませんからな。
全力で協力させて頂きます。
まずは、北蝦夷(樺太)偵察隊の報告次第ですな。
もし、北蝦夷(樺太)にロシア兵がいるなら、
兵の数を見て、ロシア側が勝てぬと思って、引いてくれれば儲けものですからな」
多くの兵を率いてロシア兵を威嚇するというのが、元々の阿部正弘と島津斉彬の戦略であり、その為に三艘の御用船で水戸藩を送ったのだが、松前崇広はそれに加えて、城を守る以外の全ての松前藩士を率いて樺太に行くことを提案する。
「そして、北蝦夷(樺太)にロシア兵がいない場合、この松前城を建てた大工達を、そのまま北蝦夷(樺太)に行かせましょう。
それで、可能な限り北まで進み砦を築く。
ただ、さすがに、これから建築を始めたのでは、どう考えても冬が来るまでに砦を完成させることは困難です。
越冬を考えておられるなら、まずは寒さを防ぐ為の建物を建てることが第一でしょうな。
その上で、ロシアの攻撃に備えた砦を築いていく。
まあ、砦の方は今年中の完成は難しいでしょう。
だから、冬が来て、雪が降り、海が凍るまでに、なるべく多くの薪と食料の運び込みも進めさせて頂きましょう。
ですが、樺太は、それでも凍死の危険のある危険な土地です。
それだけのお覚悟はおありでしょうか」
「話には聞いていましたが、北蝦夷(樺太)は本当に海が凍るのですか」
「そうです。だから、海が凍れば、補給もままならなくなります。
そこに住むアイヌ人たちは、昆布や魚を食べるので病むことも、飢えることもなく過ごせるとも言います。
そこで、昆布と魚の美味い料理法も色々ありますのでな。
それが出来る者も同行させましょう」
松前崇広がそう話しているところに、樺太偵察隊が戻ってきたのと急報が入る。
ロシア兵が樺太に上陸し、
日露の激突が迫る。
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