第十七話 樺太出兵

水戸藩江戸屋敷は活気に沸いていた。


老中阿部正弘より、樺太防衛の為の要請が正式に出されたのだ。

元々、蝦夷地開拓は間宮林蔵の献策を受けて以来の水戸藩の宿願であった。

蝦夷を開拓すれば、水戸藩だけでなく、日ノ本も潤うはず。

それなのに、ロクな管理も出来ない松前藩などに任せているなど何事だという想いがあった。

それに対し、今回の樺太出兵は暗に水戸藩に蝦夷地北部の開拓を任せるというものでもあったのだ。

おまけに、今度の出兵はロシアに対抗する為のもの。

老中阿部正弘によると、ロシアが間宮林蔵の探検した樺太を日ノ本から奪おうとしていると言うのだ。

そんな話を聞いて、攘夷の総本山である水戸藩士が盛り上がらないはずはなかった。


夷狄いてきに北蝦夷(樺太)を渡すな!」


夷狄いてきを追い出せ!」


多くの水戸藩士が声を上げ集まってくる。


「江戸に来る黒船に対しては、慶喜が黒船と戦う為の総大将となり、旗本8万旗、彦根藩、薩摩藩などをまとめて統一軍として組織することが決まっておる。

だから、ワシらは心配せずに北蝦夷(樺太)防衛に兵を回すことが出来る」


斉昭がそう言うと、水戸藩士は沸き立つ。

徳川斉昭の息子である一橋慶喜が黒船と戦う総大将となるのだ。

それは、次の将軍就任を確定させるようなものではないか。


「北蝦夷(樺太)派兵した場合、もしロシア軍が既に北蝦夷(樺太)を占領しているならば、ロシアとすぐ戦になる恐れがある上、極寒とも聞くが、日ノ本を守る為、頑張って来て欲しい」


この斉昭の言葉で、攘夷を叫ぶ水戸藩士は樺太派遣を断れなくなる。

むしろ、自分から樺太派遣を望まない者は、戦を恐れた臆病者か、極寒の地を避けた卑怯者と見做されるようになるのだ。

その上、樺太への上陸、砦作成の総指揮は、斉昭の懐刀である藤田東湖が取るというのだ。

樺太制圧が無事に成功すれば、越冬には付き合わず、水戸に帰ると聞かされてはいるが、藤田東湖が来ると言うだけで、斉昭の本気具合が水戸藩士全員に伝わる。


その結果として、血気盛んな攘夷派水戸藩士のほとんどが樺太派兵に参加することとなる。


樺太派兵には、蝦夷地御用船が三艘用意され、その中に多くの兵と武器、食料、薪、砦を作る為の建材を積み込み、出発する。


小笠原諸島から帰ってきた藤田東湖は乗船前、兵を集めて訓示を行う。


******************


小笠原諸島視察は、藤田にとっても驚くべき経験だった。


小笠原諸島に御用船が到着すると、大勢の異人たちが集まってきた。

到着までに見た異国の船から想像していたが、かなりの数の異人がこの島で暮らしているようだ。

水戸藩士も慣れてしまったのか、もはや激高することもない。


江川英龍は、万次郎に指示を出し島の指導者らしき者を探させる一方で、八丈島で募集した小笠原諸島に移民する予定の人々を船から降ろすことにした。


「ここにいる異人が、日ノ本を穢す夷狄いてきか、この国の法に従う臣民か確認せねばなりませんからな」


江川英龍がそう言うと、水戸藩士たちは渋々頷く。

船で藤田らが検討した結果、異人であろうと、慈悲深い天子様は秋津洲に上陸しなければ、秋津洲に近づく程度のことは許して下さるだろうということになったのだ。

藤田の判断に反対出来る水戸藩士はいなかった。

だから、この異人たちが、敵対して来ない限り、無用な血を流すことはない。


万次郎が、島の長とされる男を連れてくると、江川英龍が声を掛ける。

水戸藩士は初めて見る奇妙な肌と髪と目の色を持つ異人に驚いているようだが、江川は慣れたものである。


「そちが、この島の長か。今日は、この島に移民を連れてきた。

その為の懇親の宴を開くので、この島にいる者を全員集めるように」


江川英龍がそう言うと、万次郎が持ってきた酒を掲げて島の長に話す。

島の開拓民なぞ、豊かな生活など送れる訳もない。

だから、宴の誘いというのは、ありがたいもので、島の長は喜んで島民を呼びに行く。


宴は、異人に対する敵愾心一杯だった水戸藩士たちも楽しめるものだった。

中心に大きなたき火を燃やし、酒と魚を振る舞う。

万次郎は異国の不思議な蛇腹のような楽器(アコーディオン)を弾き、異国の歌(オースザンナ)などを陽気に歌い、場を盛り上げる。

異人たちも、思いがけなく聞いた故郷の陽気な歌に手拍子で歌い出す。

その雰囲気に乗って龍馬が楽し気に踊ると島民たちもつられて踊り出す。

更に、その雰囲気に乗って、異人たちも八丈島からの移民たちも楽し気に踊り親睦を深めることとなる。


もともと、この国の庶民は好奇心旺盛で、野次馬根性一杯である。

まして、異人がいるかもしれない島に移民しないかと誘われて移民するような連中。

あっという間に、言葉も通じないのに異人たちと親し気に飲み交わすようになっていく。


そうやって、仲良くなり一晩を過ごしてから、英龍は再び島の長のところに行って確認する。


「この島は日ノ本の領土だ。それを認め、この国の法に従うと言うのなら、居住を許すがどうだ」


万次郎が訳すと島の長は首を捻って尋ねる。


「実は、この間、アメリカの軍艦が来て、ここはアメリカ領だと言って、そう書いたプレートちゅうか板を貼っていったと言うちょります」


それを聞くと水戸藩士の顔色が変わる。

やはり、黒船の連中が日ノ本への侵略を企んでいたことが明らかになったのだ。

しかし、平八の夢の話を聞いていた江川英龍は、さしたる動揺も見せずに島の長に尋ねる。


「そのような板を貼っていったのか。それは違法行為なので剥がして行く。

何処にあるのか案内してくれと言ってくれ」


万次郎が島の長に話しかけると、島の長は気軽に頷き、異国の文字が書かれた板のところまで案内する。


「島の異人たちに斬りかかったりしないで良かったですな、藤田様。

もし、ここで、この島の異人たちを敵に回していれば、アメリカの置いた板の存在も気づかず、アメリカが我が国に侵略する口実を与えるところでしたよ」


「全くだな。正直、宴を始めた時は、何事かと思ったが、あの宴のおかげで、島の異人たちは、すっかり日ノ本びいきに変わっているようだ」


藤田は感心したように応える。


「それだけではありません。やはり、言葉が通じるのが大きい。

中浜は言葉を通訳をするだけでなく、予め、異人の風習も教えてくれましたからなあ。

奴の献策がなければ、宴から始めようとは、私も思いませんでしたよ」


そう言うと、藤田は頷くが、島の長と話しながら前を進む万次郎を見ながら小声で英龍に尋ねる。


「だが、中浜は本当に大丈夫なのか。アメリカの間諜である恐れはないのか」


「確かに、用心に越したことはありませんな。

ですから、最終的に異国とやり取りする文書については、中浜が訳したものを佐久間に確認させております」


「佐久間と言うと、松代藩のあの佐久間象山か」


「はい。あ奴もアメリカの言葉がわかるようですので。

中浜に伝えず、問題はないか文書の確認をさせております。

もし、間諜なら、そこで尻尾を出すでしょうし、文書での合意をしっかりとっておけば、たとえ万次郎が間諜であろうとも、結果を変えることは出来ません」


「なるほど、それだけ警戒していれば問題はないか」


「それに、ワシもオランダの言葉ならわかりますので、中浜が妙なことをアメリカ語で話せば察すること位は出来ます。

ならば、言葉が通じる利益を捨てることはないと思いましてな」


「うむ、確かにそうだな」


そんな風に話している内に、アメリカが設置したという板のところに辿り着く。


「はあ、確かに書いちょりますな。アメリカ領じゃと。

これは、剥がして持って帰ればええんですかいの?」


万次郎が聞くと、英龍が頷き、万次郎が板を剥がし始める。


「何故、持って帰るのだ?こんな汚らわしいもの」


藤田が眉を顰めると英龍が答える。


「次に、ペリーの黒船が来た時に、ペリーが侵略を企んだ動かぬ証拠になりますからな。

この島の長にも証言させ、署名をさせましょう。

ワシらの言うことは否定出来ても、同じ国の人間の証言は否定出来ないでしょうからな」


英龍が不敵に笑うと、藤田が感心して頷く。


「なるほど、もはや、黒船など恐るるに足らずと言ったところか」


「まあ、今回の黒船に限る話ではありますが。

中浜から聞いた限り、アメリカをはじめとする、ロシア、イギリスなどの列強国は、あの巨大な清国すら倒す力がございます。

今の状況で、本気で攻めて来られては、とても、この国を守ることなど出来ますまい」


近くに他の水戸藩士がいないことを確認して、英龍は本音を藤田に伝える。

藤田は重い表情で頷く。

今までの異国に関する知識、万次郎から聞いた異国の様子。

それらを考えて、英龍の言葉を頭ごなしに反対するほど、藤田は愚かではなかった。


「どうしても、時を稼ぎ産業を振興させ、異国の連中に負けないだけの力を手に入れる必要がございます。

その為には、水戸のご老公がおっしゃる通り、奴らの国に飛び込んで情報収集、時間を稼ぎながら、

押し出し交易をするしかないやもしれませんな」


「ぶらかしに押し出し交易か。江川殿は、それが出来るとお思いか」


「……それだけでは、難しいでしょうな。異人たちにも、もっと利益があると思わせぬと。

ワシは、まず、この小笠原諸島に住む異人たちに、この島を日ノ本の領土と認め、日ノ本の法に従うとの誓約書に署名をさせます。

その上で、将来、この小笠原諸島で、異人の希望する鯨漁船の補給だの、交易だのを最終的には許可してやるしかないかもしれぬと考えております。

秋津洲に異人を上陸させない為、この小笠原諸島を防波堤にするのですな」


「だが、しかし、それは交易を禁ずる幕府の法に背くのではないのか」


「残念ながら、認めずとも、これだけの異国の漁船を追い払う手段がワシらには、まだありません。

だが、どうせ、連中はいるのです。

それならば、ワシらの有利な状況で異人と付き合い、技術と利益を得た方が良いではありませんか。

全ては日ノ本を異国の侵略から守る為でございます」


英龍がそう言うと、藤田は考え込む。

確かに、今、異人達の船をこの近海から、全て追い出すのは不可能だ。

そんな船はないし、もし追い出そうとすれば、侵略の良い口実を与えてしまうかもしれない。

それならば、小笠原諸島で異人を食い止め、奴らを追い払うだけの技術を手に入れた方が。


「そして、それは、この小笠原諸島だけのことではございません。

北蝦夷(樺太)でも、同じことが出来るのではございませんか」


言われて藤田は驚く。

樺太出兵は、元々、ロシアの魔の手から日ノ本を守る為の派兵だ。

参加するものも、血の気が多く、攘夷気質の強い者が多いだろう。

そんな所で交易なぞ、出来るのか?

だが、交易は莫大な利を生むとも言う。

水戸藩の懐事情を知る藤田としては、喉から手が出る程、欲しい話だ。

藤田は再び考え込んだ。


******************


そして、藤田は訓示を述べる。


「良くぞ、集まってくれた。これから、我らは北蝦夷(樺太)をロシアの魔の手から守る為に向かう」


水戸藩士たちが息を飲んで藤田の言葉を聞く。


「これはいくさだ。個人の功を競いたいものは、この船を下りよ。

戦において大事なのは、個人の武勇ではない。一糸乱れぬ協力だ。

誰かが功にはやり、勝手な攻撃を始めれば、そこから逆撃を受け戦線が崩壊することもありうる。

だから、決して勝手な行動をするな。

武器も持たぬ異人を後ろから斬ったところで、何の功になる。

戦う気もなく、恭順を示すなら、天子様の慈悲を示してやれ。

戦いと砲撃を望むなら、海に叩き込んでやれ。

我らは秋津洲を異人の手から守る為の尊い防波堤となるのだ。

奴らに、水戸藩の規律と秩序を叩き込み、北蝦夷(樺太)を鎮撫するのだ!」


藤田が檄を飛ばすと、水戸藩士たちがそれに応える。


樺太出兵が、ここに始まる。

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