第十六話 桂小五郎、困惑する
一体、何が起きているのだ。
小笠原諸島付近に船が到着して起こった船の内と外の様子に、桂小五郎は自分の目が信じられなくなりそうだった。
桂小五郎が、この船に乗ったのは尊敬する吉田先生から勧められたからだ。
吉田先生は、君は様々な価値観、考え方と出会い、視野を広げるべきだと言った。
だから、彼はここにいる。
ここには幕府の能吏である江川英龍、アメリカ帰りの中浜万次郎、水戸学の権威である藤田東湖ら、様々な人々がいて、もうすぐ到着する小笠原諸島には、異人までいるかもしれないと言う。
視野を広げるには、持って来いの環境だろう。
だが、視野を広げるにも限度がある。頭が全くついていかないと桂はそう思う。
そもそも、桂は平八の見た夢が将来、現実となる恐れがあるなどとは、ほとんど信じていない。
これは、桂だけの話ではない。
海舟会のほとんどの人間が、夢が実現するということを「信じていない」のだ。
何しろ、言い出した平八自身が、自分の見たことが現実になるとは信じていないのであるから、別に海舟会の人間が疑り深いとかそういう話ではないのだ。
警戒すべき要素として考え、それを避ける方法を試行錯誤していると言ったところか。
まあ、素直に信じているのは、真面目過ぎる程真面目な吉田先生と、後は今回同じ船に乗っている坂本龍馬という男位だろう。
坂本龍馬は、奇妙な男だ。桂小五郎はそう思う。
まず、剣の腕は立つ。
身体を動かしたいというので、稽古につきあってやったが、江戸三大道場の一つと言われる練兵館塾頭である桂を苦戦させるほどなのだ。
にも拘わらず、武士の意地とか、その内面に武士らしさというものが全く見られない。
佐久間先生も、大きな天才児という風であるが、坂本は、それとは少し種類が違って、何色にも染まっていないままの子どものようなのだ。
学問もないし、決して賢いとは思わない。
だが、坂本には、人見知りしないという水準ではなく、誰でも関係なく懐に入ってしまう気安さがある。
そんな男が船の空気を支配していた。
船にいるのは、小笠原諸島視察を命じられた幕府の役人と同行することとなった桂と坂本の海舟会の二人、それに水戸藩の攘夷派だ。
幕府の役人の中には、アメリカ帰りの中浜万次郎もいて、攘夷を謳う水戸藩から間諜と疑われ、敵視され、船の上には殺気がヒシヒシと感じられたものだ。
それが、龍馬、万次郎、藤田を中心に座組となって座り、楽し気に語り合うようになっている。
何故、そんなことになるのか。
それは、桂の想像を超えていた。
一つには、中浜万次郎という男の頭の良さもあるだろう。
この男は、攘夷派である水戸藩の人間の言うことを決して否定せず、アメリカなどの異国を賞賛することも一切しない。
日ノ本の素晴らしさを語り、どんなに帰ってきたかったを語る。
水戸学の話を聞けば、自分は知らなかったが、そんな尊いお方がいるから、自分はこの国に帰ってきたいと思ったのですね、とヌケヌケと言いってみせる。
水戸藩の単純な攘夷志士は、それだけで万次郎への敵意を萎えさせる。
その上で、万次郎の話を聞いている内に、わかってきてしまうのだ。
アメリカという国の強大さと精神力だけでは決して覆せないその力を。
武士のいない、農民と職人ばかりの下賤な国であると万次郎は言う。
だが、いざ戦となると、その全員が兵となり、日ノ本の何処にもないような武器を豊富に使って攻めてくる。
職人が称賛を浴び、新たな発明をすれば巨万の富を得られるから、皆が自発的に必死で、武器の開発を行っていく。
国の生産力が上がっていく。
決して、この国の身分制度を批判している訳ではない。
だが、身分に縛られたこの国では追いつけない差をいやが上にも実感させられるのだ。
この話を聞いて、異国は穢れているだの、身分だのを言うとしたら、余程の阿呆か、話を聞く気がないものだろうな、と桂は思う。
だが、それだけで、万次郎に対する敵意や間諜の疑いが消える訳ではないはずなのだ。
そもそも、万次郎が間諜であると決めつければ、万次郎の言っていることは全てこの国を惑わす為の嘘であると切り捨てることさえ出来るはずなのだから。
だが、その疑念や疑惑を龍馬は消してしまう。
別に理を解く訳ではない。説得する訳でもない。
ただ、誰よりも万次郎の言葉に頷き、涙し、笑って見せる。
それだけで、万次郎を疑う者が武士らしくない、肝の小さい男であるという空気になってしまう。
いつまでも、疑いや敵意を持ち続けるのが難しい状態を作り上げてしまう。
桂には、それが、何故なのか、わからない。
そんな状態の船が、小笠原諸島付近に到着すると、異国の船の多さに度肝を抜かれる。
1艘や2艘ではないのだ。
船を進めれば、1刻もすれば何隻かの異人の船を見かけるありさまだ。
最初は異国の船を見て、日ノ本の海が穢されると激していた水戸藩士もすっかり慣れてきている。
「中浜、奴らは何故、こんなに沢山、日ノ本まで来るのか、わかるか」
藤田が聞くと、万次郎が答える。
「一つには、鯨を捕る為でしょう。この辺りは、鯨のいい漁場ですから」
「奴らは、そんなことの為に遠くからやって来るのか。そんな遠くでは、鯨も腐ってしまうだろうに」
「いやいや、アメリカ人は鯨を食べる訳ではないのです。
鯨の頭にある油を取る為だけに鯨をとっちょるんで、肉は食わんで捨てちょります」
「何と野蛮な。食う為に殺生するのは仕方ないとしても、せっかく捕った物を食わずに捨てるとは」
藤田が憤慨すると龍馬が宥める。
「まあ、奴ら、鯨の美味さを知らんのでしょ。そのくせ、牛なんぞ食いよりますからな」
「いや、牛は美味いぞ。
彦根藩の牛肉の味噌漬け、
「ほう、そいつは、知りませなんだ。食ってみたいものですなあ」
龍馬が涎を垂らしそうな顔で、まだ見ぬ牛肉を想像すると、藤田が話を戻す。
「まあ、斉昭様でも滅多に食べられぬものだからな。そう期待するな。
ところで、中浜よ、先ほど、一つにはと申したな。他に、異人がこんなに来る理由があると言うのか」
「はあ、それは、ワシが日ノ本に帰りたいと思ったのと同じ理由でございます」
「同じ理由とな」
「はい。ワシは無学で知りませなんだが、この国には地球で一番尊い方がいらっしゃると言います。
それが、ワシがこの国に帰りたいと思った理由の一つであるなら、異人達も、ワシのように無意識に尊いお方に惹かれて、集まっているやもしれません」
万次郎がそう言うと、すかさず龍馬が賛同する。
「そうじゃな。
たとえ、下賤の身で生まれようとも、尊いお方の為に何かしたい。
お傍に行きたいと思うのは当然のことじゃな」
「確かに、天子様のお傍に行きたいと言うのは、自然な気持ちであるが、異人は穢れた存在であるが故」
藤田が渋ると龍馬が笑う。
「大丈夫じゃ、藤田センセ。
心根が良ければオランダ人ですら、日ノ本を穢さんと言うちょりましたでしょうが。
天子様を慕って来る人間であるなら、日ノ本を穢すことなんかしませんて。
むしろ、健気だとは思いませんか?
遠く地球の裏から、少しでも天子様のお傍に来たいとやって来るんじゃからのう」
龍馬がそう言うと、万次郎が反対のことを言う。
「それとも、異人ちゅうは、天子様を敬っていようが、どこに住んでいようが、害悪なんかのう。
もし、異人を全て斬らにゃならんのでしたら、是非、道案内させてつかーさい。
ワシは鯨取りの漁師じゃったんで、刀はうまく使えませんが、操船なら、必ずやお役に立てますんで」
万次郎が威勢の良いことを言うが、これまで、アメリカの力の恐ろしさを聞いていた藤田からすれば、
わざわざ、異国まで行って異人を根切りにするなど、正気で出来ることとはとても思えない。
「いや、それには及ばぬ。天子様は慈悲深いお方じゃ。無益な殺生は好まれぬ。
穢れた者どもが穢れた国で暮らすことを憐れむことはあっても、罰せられるお方ではない。
まあ、この国の法に従い、天子様を尊重するというなら、秋津洲に来ることは嫌われるやもしれぬが、この辺に来ること程度はお目こぼし下さるだろうて」
「はあ、何と慈悲深い」
「すごいお方じゃのう」
と感心する龍馬と万次郎に、感心する二人を見て、誇らしげに藤田を見る水戸藩士。
それを見て、目を丸くする桂と苦笑する江川。
「はあ、僕にはとても出来んことです」
桂は他に聞こえないよう江川に小声で呟く。
実際、桂が話そうとすれば、もっと理詰めの話し合いになるだろう。
戦っても、まだ異国には勝てないのだから、迂闊な攻撃は避けるべきだと説得しようとするか。
あるいは、水戸学の粗をついて攻撃するか。
仮に理を持って説き伏せたとしても、反感を買うことは間違いがない。
理では感情を動かせないのだ。
場合によっては、議論が拗れ、斬りあいになってしまうかもしれない。
それなのに、この平和な風景は何なのだろう。
その辺、万次郎が話を合わせ誘導したのは判る。
だが、龍馬がどうやって、藤田らの心を動かしているのか、よく分からないのだ。
「まあ、人それぞれに役割がある。坂本というのは、ああ言う男なんだろう。
だからこそ、憎しみあう薩摩と長州を和解させることも出来るのやもしれんな」
「江川先生も、平八の話を聞かれたのですか」
「ああ、中々に興味深いものだったよ。そして、本当にロシアまで来た」
「信じておられるのですか」
「いや、信じて何ぞおらん。だが、平八の話す危機に備える必要はあるだろう。
何しろ、ワシは後1年半の寿命だそうだからな」
江川が苦笑すると、桂も苦笑する。
「身体を大事にして下さい。平八は、江川先生が働き過ぎで倒れると言っておりますので」
「だから、台場建設は止めて、ここに来ておる。
寿命が一年半なら、無駄なことをやる暇なんぞ、全くないからな」
「ここへは、中浜殿を水戸藩に認めさせる為に?」
「そうだ。だが、坂本が水戸藩と中浜を取り持ってくれたからな。大分楽になりそうだよ」
そう言うと、江川は嬉しそうに笑う。
その後、異人が住む小笠原諸島を江川英龍と中浜万次郎が驚くべき方法で制圧することになるのだが、
桂は、そんなことが起きるとは、まだ知る由もなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます