第八話 幕府を守ってきた者たち

第八話 幕府を守ってきた者たち


島津斉彬、徳川斉昭との会談を終えた後、阿部正弘は彦根藩藩主井伊直弼ひこねはんはんしゅいいなおすけと会うことにした。


これまでの会談で、平八の書は驚く程の的中率を示している。

徳川斉昭をうまく誘導出来たのは、あの書から徳川斉昭の言動が予測出来たからだ。

あるいは、平八の書そのものが徳川斉昭の仕込みの可能性もあるという疑念もあるが、誘導の方向が間違っているとは思えない。


そう言う訳で、本来の歴史ではペリーの国書の内容を諸大名に公開していた7月になっても、阿部正弘は諸大名にその内容を公開せず、根回しを続けていた。


平八の書によると幕府崩壊の経緯は、阿部正弘の情報公開により諸大名から庶民までが国政に声を上げるようになり、阿部の後継者、堀田正睦ほったまさよしが朝廷の許可がなければ条約を結べないと発言したことから、幕府が朝廷の許可なく行動出来なくなっていくことで進んでいく。


そして、これから会う井伊直弼が大老になり、彼が幕府の敵と思い込んだ人々を弾圧したことにより、多くの有能な人物が排除され、幕府を支える力が失われていく。

更に、その弾圧の復讐により、井伊直弼自身が暗殺されたことにより、幕府の最高責任者ですら、剣で排除出来ると認識されてしまい、理屈よりも剣で、この国の行方が決められるようになってしまう。


平八の書によると、井伊直弼は幕府を守ろうと願いながら、結果として幕府を衰退させてしまうとされているのだ。


これらが実現する可能性が高まっていると思えば、幕府崩壊の引き金を自ら引くのを避けるのは当然のこと。


その為、阿部正弘は情報公開を控えているのであるが、必要と思うところには内密で情報提供は行っている。

更に、堀田正睦には朝廷及び水戸藩との関係で重ね重ね注意をすれば何とかなるやもしれない。


だが、阿部正弘の雄藩連合構想を否定し、自身の信じる正義の為に権力を振るうとされる井伊直弼の扱いは厳重注意が必要であった。

まして、平八の書によれば、阿部正弘の余命は4年だ。


平八の書が正しかろうがどうだろうが、建白書を参考にして、その4年で日ノ本の改革を戻れないところまで進めようと島津斉彬と相談した阿部正弘であったが、恐らく、その最大の障害となると思われる井伊直弼への根回しは不可欠だったのだ。


今の井伊殿は長い部屋住み生活の果てに、運良く3年前に家督を継いだばかり。

まだ幕府に慣れていないようではあるが。

腹を割って話をし、こちらの意図を理解して貰うしかないのだろう。

そう考えて、阿部正弘は井伊直弼を内密に茶室に招くこととする。


まず、茶室に入った井伊直弼に、お茶を一服振るまったところで、阿部正弘は話を始める。


「さて、本日、ご多忙な中、お越しいただいたのは、腹蔵なき井伊殿のお考えを伺いたくてのこと。

井伊殿が彦根藩主となり3年。

日々の積み重ねで、私が見えぬようになってしまったことなどにも、逆に気付かれることもあると思われます。

この茶室での話は、外に漏れることはございません。忌憚なきご意見を頂けないでしょうか」

そう言われると井伊直弼はキョトンとした顔で、手を振って応える。


「いやいや、私の意見なぞ、まだ経験の浅い、浅薄な思い付きに過ぎませぬ。

とても、阿部殿のお役に立てるとは思えません」


やはり、呼ばれて素直に不満を漏らすほど、もう迂闊ではないか。

ならば、こちらから腹を割って、不満や考えを引きずりだすしかあるまい。

そう考えて、阿部正弘は自分の考えの一端を示すことにする。


「ご謙遜を。井伊殿は名門井伊家の当主。

いざとなれば、大老となり、この国を支えねばならぬ定めのお方です。

私としては、黒船の件でも、井伊殿のご協力をお願いしたいと思っていたところ」


そう言うと、ここだけの話であると釘を刺した上で、阿部正弘は徳川斉昭にも話した黒船に関する情報を井伊直弼に伝える。


井伊直弼は、特に極秘情報としていた白旗の存在には、非常に驚いたようで、そのようなことが、額に浮かんだと脂汗を懐から出した懐紙でふいている。


「率直に申し上げて、今は、国家危急存亡の時。

幕閣には、ペリーが再び来るとは限らないと何もしないで済まそうと思うものさえおりますが、井伊殿ならば、何もしないということはございますまい。

……井伊殿なら、来年、ペリーが来るまでに何をし、どう答えるべきだとお思いか」


そう言われると井伊直弼は深刻な表情を浮かべ、阿部正弘に確認する。


「黒船を打ち払うことは不可能なのでしょうか?」


「あの黒船だけなら、あるいは可能性があるやもしれません。

ですが、黒船は18日でアメリカから来ることが出来ると申しますから」


「何と、たった18日で?!」

驚く井伊直弼を阿部正弘は穏やかに抑える。


「その親書の内容を信じるならば、でございますが」


「確かに、虚偽の可能性はございますな。ですが、それが真実であるならば」


「一月後には、清国のように侵略されていることになりかねませぬ」

阿部正弘がそう言うと、井伊直弼は再び噴き出た脂汗を懐紙でふく。


「それでは、時間を稼ぎ、その間に、日ノ本の防備を充実させるしかないではありませんか」


「ですが、断れば、そのまま、黒船は攻撃を始めかねない様子。

時間を稼ぐにも、黒船側を納得させるものを与えてやらねばなりますまい」


「つまり、交易を許可されると?」


「そうは申しませぬが。

交易を行い、国を富ませ、その富で、異国の進んだ軍備を買い、国を守る。

これが出来れば、一番なのでしょうな」

平八の書によると、これが井伊直弼の提出するはずの建白書の内容であったはずだ。

そして、その計画自身は、阿部正弘のものとも変わらない。

阿部正弘は自分の意見とは断言せずに、開国計画を告げ、井伊直弼の反応を伺う。


「確かに、それが出来れば、一番なのかもしれませんなぁ」

井伊直弼は腕を組み、頷くが自分も同意だと強調することはしない。


「ただ、交易を始めると言えば、秋津島に異人を入れるなという方が、大勢いらっしゃいそうですからな。

国を守る為に、国を分裂させる訳にはいかぬのが難しきところ」

阿部正弘がそう言うと、井伊直弼が尋ねる。


「幕府が決めることならば、誰が反対出来るというのでしょうか?」


井伊直弼の素直過ぎる発言に阿部正弘は危うさを感じる。

それは、平八の書を読んだ偏見なのかもしれないが、井伊直弼の中に権力に対する妄信に近いものを感じたのだ。

力があれば、従わせられるというのは、決して間違いではない。

確かに、200年前なら、幕府の力は絶対で、反対するものは誰でも滅ぼせただろう。

だが、幕府より強い異国という要素が加わってきた時点で、幕府の絶対性は揺らいでいる。

この国には、今、内部で争う余裕などないのだ。

そう考えた阿部正弘は、井伊直弼に劇薬を示すことを決意する。


「確かに、幕府が強権を持って決めれば、表立っての反対は誰にも出来ないでしょう。

ですが、不満は残ります。

不満が残れば、異国と組んで幕府を転覆させようとするやからが現れても不思議ではございません」


「!異国と!まさか、そんな!」


「さすがに、攘夷を主張する水戸藩が異国と組むことはないでしょう。

ですが、薩摩などの外様大名はどうでしょうな。

幕府が取り潰そうとした時、素直に従うか。

それとも、異国と協力して、幕府に逆らうか」


「そ、そんなこと、させる訳には参りません。外様大名から反抗出来るだけの力を奪わねば」


「どうやってですか?

異国は海からやってきます。

それを取り締まる力は今の我々にはございません。

外様大名に圧力を掛けたところで、異国と抜け荷(密貿易)をやられては力を削ぐことなど出来ず、力を蓄えさせることになる」


阿部正弘がそう言うと、顔を真っ青にした井伊直弼が汗まみれになって震える。

幕府の力の絶対性を信じていた井伊直弼には受け入れがたい事実だろう。

だが、平八の書を信じるまでもなく、異国が日ノ本のいくさに介入する危険は常に検討すべきだ。


「そもそも、九州の外様大名の多くは、蘭癖大名が多くございます。

これらを敵にするだけでも、幕府は多大な負担を被ることになるでしょう」


「そのようなことがあろうとも、徳川宗家を守るのが、我ら譜代の役目」


「それで、勝てるのですか?

九州が一体となり、異国と協力して、攻めてきたとして、井伊殿は勝算がおありで戦うとおっしゃっているのか。

それとも、徳川宗家を譜代の意地の為に、勝算なきいくさに巻き込もうとおしゃっているのか」

阿部正弘は冷たく井伊直弼に問い質す。


「……しかし、戦わねば徳川宗家が滅びるとあれば」

井伊直弼が声を振り絞るように呟くと阿部正弘は穏やかに答える。


「勝てるか判らぬのなら、敵にせず、いくさにしないようにすれば良いのです」


「は?しかし、外様大名が異国と協力するかもしれない、とおっしゃったのは阿部殿ではございませんか」


「幕府が強権を持って全てを決めようとすれば、不満を持ったものが異国と組んで反抗するかもしれないと申したのです。

そもそも、不満を持たせず、幕府に取り込んでしまえば、異国と組んで幕府に反抗しようなどと考えもしないでしょう」


「つまり、私は最初の一手を誤っていたということですか」

井伊直弼がガックリとして呟く。


「異国から守る為に、交易で儲けて、最新の武器を買うこと。

それは、それで良いのです。

ですが、幕府の決定は、親藩も、譜代も、外様も納得のいくものでなければなりません。

誰もが利益を享受し、納得出来る落としどころを作らねばならないのです。

さもなくば、国を割り、幕府を窮地に追い込むことになりかねないと私は思うのですよ」


「しかし、そのような方法があるのでしょうか?

黒船を満足させ、攘夷を訴える水戸藩を納得させ、譜代にも、外様にも、納得のいく落としどころなど」


「まず、黒船を満足させる為には日ノ本が開国に進んでいると見せかけることが必要でしょうな」


「確かに、下手に断ればいくさになりかねぬでしょう」


「逆に、水戸藩を納得させる為には、攘夷に見せかけることが必要です。

ですから、開国の約束など、することも、日ノ本に異人を再上陸させることもできませぬ」


「そうすれば、水戸藩は納得するでしょうが、それでは異国は満足しないのではありませんか」


「そこで、異国には、開国を検討する為に、異国を視察させて欲しいというのです。

開国を検討していると言えば、異国も我が国を尊重せざるを得ないはずです」


「なるほど、開国を検討する為と言えば、黒船も乱暴なことは出来なくなるでしょうな」


「その上で、攘夷を主張する方々には、異国を秋津島に上げない為に、日ノ本に来るなと断る為に異国に行くと言えば良いのです。

城下の盟を避ける為にも、相手を水際で叩くのではなく、相手の懐に飛び込むのだと言えば、攘夷派も納得されるでしょう」


「……攘夷派には攘夷の為だというのですか。

ですが、最終的にはどうするのですか?

異国には開国、攘夷派には攘夷と別のことを言っていたのでは、最後に詰め寄られることになりませぬか」


「異国を訪問し、交渉をしている間に時間を稼ぎ、異国で武器を買い、軍備を整えるのです。

その上で、攘夷派がどうしても日ノ本に異人を上げたくないと言うのならば、日ノ本での交易は断っても良い。

代わりに、どうしても、異国が日ノ本と交易したいというなら、異国での交易を続けるならば、攘夷派も反対しないでしょう。

まあ、異国を実力で排除出来るだけの力を蓄えることが出来ればの話ではございますが」


「時間を稼いでいる間に、異国が侵略出来なくなるだけの力を蓄えるということですか。

それならば、異国を怒らせたところで大丈夫にはなるのでしょうが」

そう言うと井伊直弼は暫く考えた後に尋ねる。


「……ですが、異国に行くなど、誰が引き受けるのでしょうか。

異国に行くなど命がけ。その上で、攘夷派には異国かぶれと批判される恐れもありませんか」


「そこで、外様大名を利用するのです。蘭癖大名のほとんどが外様大名。

蘭癖大名なら異国に行けるとなれば、喜んで行くでしょう。

その上で、異国に行った外様大名に万が一のことがあっても、幕府に痛手はありませんからな」


阿部正弘がそういうと、井伊直弼は感心したように頷いていたが、ハっと気が付いたように尋ねる。


「お待ちください。阿部殿。

それでは外様大名が異国と結び、幕府より軍備を強化する機会を与えることになるのではありませんか」


「確かにその危険はありますが、今は日ノ本全体を異国から守ることが第一。

外様大名にも幕府に加わらせてやれば、軽々に異国に国を売ろう等とはしないでしょう。

その上で、日ノ本で軍を一つにする案もございますれば」


「いえいえ、それは本末転倒でございます。徳川宗家を守ることが第一。

日ノ本が異国から守られても、外様大名に裏切られて、天下を奪われては元も子もございません」


「ですが、異国に行くなど、他に誰が」


「それならば、私が参ります。私が行って、幕府の為に、異国の技術を吸収し、軍備を整えて参ります」

期待通りの井伊直弼の言葉に阿部正弘は顔に出さず、内心でほくそ笑んだ。

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