第七話 領土対策
次に問題となるのは、異国との
阿部正弘が島津斉彬と相談したところでも、幕府は国境にまで兵を派遣し、この国を守ろうとはしないだろうと結論している。
だが、幕府の失策で領土を奪われるのは、幕閣の権威のみならず、幕府の権威失墜にも繋がるので避ける必要がある。
その為、根回しを行い水戸藩の出兵の約束を得た上で、幕閣に提案するべきとの結論に達したのだ。
それで、幕閣が予想通り反対してくれば、水戸藩の樺太出陣に許可を出せば良い。
その結果、ロシアが現れなくても危険な攘夷派の一定数は樺太に事実上追放出来るし、本当にロシアと激突することとなれば、現実から目を背ける攘夷派に現実を叩きつけることになるだろうと考えたのだ。
その点、水戸藩は以前より蝦夷地開拓に熱心で、幕府に働きかけも行っているので話は進めやすそうだ。
そこで、阿部正弘は率直に徳川斉昭の意向を尋ねることとした。
「さて、これで黒船対策は一段落と言いたいところなのですが、もう一つございましてな」
「何じゃ、何でも言うてみよ」
「一言で申せば
何でも奴らの法によるとですな。
土地は実際に支配しているものの所有ということになっているそうなのですが。
蝦夷や北蝦夷(当時の樺太の呼び方)を守るのは、松前藩のみ。
その松前藩と言えども、蝦夷に住むアイヌと取引し支配しているだけで、蝦夷地を実際に支配しているとは、とても申せぬ状況」
「うむ、だから、わしは以前より、松前藩より蝦夷地を租借し、武士の次男坊、三男坊らの部屋住みを
開拓の為に蝦夷地に投入せよと言うておるではないか」
「なるほど、国防を兼ねたご提案であったのですな」
「そうじゃ、今頃気付きおったか。
ただ、
そう言いながら、徳川斉昭は得意気に顎髭を撫でる。
確かに、時間があるなら、それも可能だったろう。
実際、田沼意次の時代に蝦夷地開拓を始めていれば、この国はもっと豊かになっていたはずなのだ。
だが、今となっては数十年遅れの提案に過ぎないのだろう。
「確かに、部屋住みや浪人などの行き場にない連中なら、喜んで行くやもしれません。
……ですが、間に合いますでしょうか?」
「間に合うとは?」
「今回の黒船のようにロシアがやってきた場合、あるいは蝦夷や北蝦夷(樺太)にロシアの船が錨を下した場合、部屋住みや浪人を集めただけで打ち払うことなど出来るのでしょうか?」
「うーむ、確かにそうじゃな。訓練もせずに国境に送り込んだところで、それは、まだ烏合の衆。
もし異国が攻めてきたら簡単に蹴散らされよう。
国境に送り込んで訓練の時間があれば良いが、その時間を異国が与えてくれるとは限らぬのは道理か」
「まして、訓練したところで、異国の連中に勝る兵器がなければ
ですが、松前藩にも、幕府にも、国境に常駐させるだけの兵力はございません。
秋津島さえ守れれば、良しとすべきなのでしょうか」
阿部正弘が、そう言うと徳川斉昭が慌てる。
「待たれよ!老中首座阿部殿ともあろう方が、そのような弱気でどうするのだ。
秋津島を守るのは当然だが、異人たちに蝦夷も北蝦夷(樺太)も渡して良いはずがないではないか。
わしは、間宮林蔵から、どれだけ苦労して蝦夷や北蝦夷(樺太)の調査をしてきたか聞いておる。
その苦労を無に帰すなどあって良いはずがなかろうが」
「そうでございましたか。ですが、今は黒船対策で手一杯。
幕府には、蝦夷や北蝦夷(樺太)に出す兵力も、予算もございません」
阿部正弘がそう言うと、徳川斉昭は歯ぎしりをする。
「ぬぬぬぬぬ、ならば、ならば、水戸藩から人も金も出そうではないか。
我が藩ならば、部屋住みと言えども訓練はさせておる。
異人から国を守る為、わしが集めてみせようぞ!」
「いえいえ、そんな来るか、来ないか、判らないものの為に、そんなことまでして頂くわけには参りません。
そもそも、水戸様には異国へ行っての交渉・調査までお願いしている状況。
その上で、国境警備までお願いする訳には」
「だが、わしが動かねば、蝦夷と北蝦夷(樺太)を諦めると言うのであろう。
そのようなこと、させる訳にはいかぬ!」
「ですが、それでは、水戸藩は水戸様のお伴と、国境警備隊派遣の二つで人がいなくなってしまいませんか?」
「なあに、日ノ本が平和であるなら、水戸藩に攻めてくるものなどおるまいて」
「しかし、それでは、あまりにも水戸様に申し訳なく」
そう言うと阿部正弘は考える振りをしてから、既に考えていたことを今思いついたように提案する。
「それでは、次回の閣議に水戸様も参加して頂けないでしょうか。
そこで、私の方から、国境警備、特に北蝦夷(樺太)に派兵すべきだと提案致します」
「北蝦夷(樺太)か」
「はい。北蝦夷(樺太)を抑えてしまえば、その後ろの蝦夷地も日ノ本であると主張がし易いですからな」
「うむ、道理じゃ」
「それで、幕閣が派兵に賛成すれば、それで良し。反対する場合は」
「わしから、水戸藩が行くと発言すれば良いのじゃな」
「はい。派兵しない理由が予算や人員の問題であるなら、反対出来るものはいないかと。
そして、その代わりに、水戸藩の蝦夷地開拓を許可するよう、私から幕閣に申し入れることに致しましょう」
「おお、それはありがたい」
「ですが、派遣するものにはくれぐれも用心するようお伝えください。
まず、北蝦夷(樺太)は、冬になれば、海が凍り、船で移動が出来なくなると言います。
暖かい内に北蝦夷(樺太)に行き、砦を築くとしても、大量の
実際、幕府の調査団で北蝦夷(樺太)よりも南の蝦夷地で寒さから全滅したこともあるのですから」
「そうか。そうであったな。その様な悲劇はわしも間宮から聞いておる」
「それから、北蝦夷(樺太)に既にロシア兵がいる可能性もございますので、最初に行く時は最大兵力で、相手を威圧出来る形で送るべきかと」
「機先を制し、短期決戦で北蝦夷(樺太)を取るということか」
「はい。
今の日ノ本には、ロシアとまともに戦って勝つだけの国力はまだございません」
「だから、奇襲で一気に皆殺しにして、反撃の余地を与えないようにすべきと言うことじゃな」
「……皆殺しですか。いや、まあ、それが出来れば、そうかもしれませんが。
その場合、かえって大変なことになる恐れもあるかと」
「大変なこととはなんじゃ」
「異人たちは同じ国の人間が殺されると復讐に
「先に攻めれば戦の口実にされるやもしれぬということか」
「そうです。それは避けるべきかと」
「だが、奴らが攻めてきたらどうする?」
「だからこそ、攻める気が起きない程の大兵力で一気に行くべきと申しております」
「なるほど、戦わずして、威嚇で北蝦夷(樺太)を確保すべしということか」
「はい。異人どもを殺しても、戦の口実にされるだけ。追い払うだけで十分でしょう」
「だが、攘夷をする為に、北蝦夷(樺太)に行こうというものなら、異人を見れば、血気に逸り切りかかるやもしれぬぞ」
「それは、連れていく指揮官の方に、指示を徹底して頂くしかございませんでしょうな」
「うーむ、どう指示させろと言うのじゃ」
「はて、何を言って頂ければ良いのでしょうな。
浅学で申し訳ないが、水戸学では、異人を見たら、切りかかれと教えているのでしょうか」
阿部正弘がそう聞くと徳川斉昭は不満げな顔で答える。
「そんなはずあるまい。
尊王と攘夷は、水戸学の根本ではあるが、異人を見たらすぐに切りかかれなどという、そんな野蛮なものではないわ」
「では、異人は殺さず、追い払うだけで問題はないのですな」
「……確かに、そうじゃな」
「もちろん、奴らが攻めてくれば、切り捨ててやるべきとは、私も思います。
ですが、武器も持たず、戦う気のないものを、闇討ちするのは、武士として誇るべきことと言えるのでしょうか」
「いや、まあ、あまり褒められたものではないか」
「ならば、それを水戸様から北蝦夷(樺太)に向かう者たちにお伝え願えればよろしいかと」
「うむ、無用な争いや流血を避けよ。臥薪嘗胆である。
少し、東湖(藤田東湖のこと、徳川斉昭の助言者の一人)にでも相談するか」
平八の書によると、異人に対する暗殺がこの後、頻発し、暗殺事件が起きるたびに幕府は謝罪し、様々な条件を異国に飲まされていったという。
そのようなことが起きないようにする為の建白書の刀狩りの提案ではあるが、もう一つ、その根拠となった攘夷思想の総本山、水戸藩の行動に方向性を与えてみようと阿部正弘と島津斉彬は考えた結果の誘導である。
このまま、うまく行けば、攘夷騒ぎを起こす多くの水戸藩士たちは、一部は樺太に行き、もう一部は徳川斉昭と共に異国の本当の姿を知ることとなる。
その上で、もし、本当にロシアが来て、水戸藩と争うようなことになれば、水戸様には、その紛争の片づけの為にロシアに行って頂くようお願いすれば良いだろう。
黒船再来に対する根回しは、順調に進んでいるようであった。
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