第六話 攘夷の総本山

島津斉彬との会談の後、阿部正弘が会うことにしたのは、先代水戸藩藩主、徳川斉昭とくがわなりあきだった。


水戸藩は水戸学の総本山であり、攘夷の急先鋒でもあった。


その為、阿部正弘は水戸藩が暴走しないように、細心の注意を払っていたので、水戸藩は阿部正弘が存命中は、暴走することはなかった。

しかし、阿部正弘が死去すると、その後を継いだ老中堀田正睦ろうじゅうほったまさよしは無視、大老井伊直弼たいろういいなおすけは敵視して、水戸藩と激しく対立し、幕府を揺るがすことになるのである。


このように、水戸藩の暴走が幕府の衰退の要因となると分かっていた阿部正弘だが、平八により、自分が4年で死ぬかもしれないという事実を突きつけられ、今までの水戸藩を敵にせず、されど口出しさせずという方針を転換しようとしていた。


阿部正弘が水戸藩上屋敷を訪ねると、水戸斉昭は阿部正弘を歓迎し、客間に通す。

朱子学で序列が厳しいこの時代では、老中首座といえども、御三家の下という格付けで、徳川斉昭が上座に座り、阿部正弘が下座に座る。


この訪問は、黒船来航後、平八の書の入手前から、既に約束されていたものである。

元々の訪問の目的は、徳川斉昭を幕府の海防参与就任を依頼し、そこで不満を吐き出させることにより水戸藩を暴走させないことであった。

しかし、江川英龍、島津斉彬との会談により、水戸藩の危険性を再認識すると、阿部正弘は水戸藩をもう少し奥深くまで幕政に食い込ませ、幕府を批判出来ないようにしようと考えていた。


さて、あの夢が本当であるならば、誘導は楽で良いのだが、そう思いながら、阿部正弘は話を始める。


「この度は、お忙しい中、お時間を頂き、恐悦至極でございます」


「うむ、老中首座の阿部殿から、先日来た黒船に関する内密の報告と相談と言われれば、断ることも出来ん。それで、何があったか話して貰おうか」


この時代、たとえ徳川御三家であろうとも、幕政の情報は渡されないのが通常であった。

その慣例を破り、黒船来航を各藩に密かに漏らしたのが、阿部正弘である。

その目的は、黒船来航という事前情報がオランダから渡されていたにも関わらず動こうとしない幕閣を動かすことにあった。


結果として、そのことにより、外様大名による突き上げは起こったが、幕閣が動くことはなかった。

むしろ、頑なに黒船来航を否定し、実際に来航したことにより、幕府の権威を落とすだけであった。


それでは、黒船に関する情報公開は完全な失敗に終わったかというと、そうではなく、薩摩藩を始め、科学技術開発に目覚めた外様の藩とは共通の危機意識を持つことには成功したという収穫が少なくとも存在していた。


そのことは、この国を一つにする雄藩連合構想へと繋がっていくのであるが、同時に、黒船情報の漏洩は、攘夷の総本山、水戸藩の関心も引くこととなってしまい、その扱いに注意が必要となっていくのである。


阿部正弘は、坦々と黒船が来てから9日間のことを伝える。

来たのは昨年からオランダが親書で告げていた通り、アメリカという国のペリー提督が率いる蒸気船2隻と帆船2隻であったこと。

浦賀に来たペリーは、長崎に行けと言ったのに、言うことを聞かずに浦賀に居座り、親書を受けらないと戦争になると蒸気船で脅かしてきたこと。

戦争になった場合の降伏の方法として白旗を渡されたこと。

いくさを避ける為、久里浜上陸を許してしまったこと。

親書の返事を受け取る為、来年また来ると言って、黒船は浦賀を出たこと。


黒船が上陸したという話は既に聞いていたのであろうが、ペリーのあまりにも無礼な振る舞いに、水戸斉昭は爆発する。


「何という、態度だ。あの野蛮人どもめ!何故、神州日本に、そんな奴らの上陸を許した!

水戸藩の者を呼べば、一人残らず、叩き切ってやったものを!」


予想通り怒り狂う水戸斉昭を眺め、阿部正弘は恐縮した風を装いながら、どう誘導するかを考える。


「ご怒りはごもっともでございます。私も、何度、奴らを打ち払えと命じようかと思ったか」

阿部正弘が恐縮する風を装うと、水戸斉昭は、少しは憂さが晴れたのか、多少の冷静さを取り戻して尋ねる。


「では、何故、打ち払わなかった」


「理由は、二つございます。

一つは、我々にはあの黒船を沈められる大船も、大筒もないということ。

今回来たのは、いつもの漁船や商船ではございません。

戦う為の戦船いくさぶねでございいました。

いつものように、打ち払おうとすれば、こちらが攻撃を受ける恐れがございました」


「武士が攻撃されることを恐れてどうする」


「それで、勝てると仰せですか」


「戦っても勝てぬというのか。何という腰抜けじゃ」

苦虫を噛み潰すような顔をして、水戸斉昭が呟く。


「あるいは、水戸藩の方々にお手伝い頂き、船に乗り込めれば、犠牲がどれだけ出るかわかりませぬが、打ち払うことが出来たのやもしれません」

あえて阿部正弘が攻めた場合、攻め手に多数の犠牲が出ることを仄めかすと、水戸斉昭は阿部正弘を睨みながら叫ぶ。


「わしらは、死など恐れん。最後の一兵となろうとも、奴らを一人残らず血祭にあげて見せる!」


「素晴らしい。それで、どのような策で、倒されるのでしょうか?

奴らの持つ蒸気船は風に関係なく自在に動き、奴らの持つ大筒は鉄製で、我らの持つ青銅の大筒の倍近く遠くから弾を飛ばし、その弾は命中と同時に爆発する爆裂弾というものだと言うのに。

どのような策を使って、勝つと言うのでしょうか?」

阿部正弘は徳川斉昭の戦意を否定せずに、黒船の戦力を伝えることにする。


「何と、奴らの船は風に関係なく動き、鉄製の大筒でわしらの大筒よりも遠くから、相手を吹き飛ばすことが出来るのか」


「は、乗船した者の報告によると、大筒は青銅製ではなかったと聞いております」


「ならば、射程距離が違い過ぎるな。確かに、まともにやっては勝負にならぬ。

やるとしたら、夜襲で船に乗り込み切り捨てるか、あえて上陸させた上で奇襲して打ち取るか」


水戸斉昭は日ノ本至上主義者であるが、全く現実を見ない訳ではない。

彼は、西洋の武器がこの国より進歩していることを理解し始めており、島津斉彬程ではないが西洋技術の導入も始めている。


ただ、水戸学によれば、異国は穢れであり、この国に入れるべきではない異物であるというだけなのだ。


「確かに、そうすれば、今回の黒船は撃退出来たやもしれません。

私は、異国を排除する為、日ノ本の兵を一つにまとめる必要があると考えておりますが、その時の総指揮は、水戸様にお願いした方がよろしいかもしれませんな」

阿部正弘の言葉に、気分が良くなった徳川斉昭は口元を緩めて答える。


「何の、わしなんぞより、相応しい者がおろう。せがれ慶喜よしのぶじゃ。

あ奴が征夷大将軍となり、日ノ本を一つとして、異国の脅威から、この国を守る。

それが、天子様の御心に叶う最良の方法であろうて」


阿部正弘は建白書を読み、慶喜公には欧州視察に行って貰うよりも、統一日本軍の総帥になって貰った方が良いと思っていたので、徳川斉昭の言葉に頷く。


慶喜公が将軍になれば、徳川斉昭の影響が強くなり、異国に対して過激な行動を取ると考えるものがいるが、阿部正弘はそうは思わない。

水戸藩は何の責任もない立場にいるから、感情のままいくさをしろ、打ち払えと言えるのだ。

自分の言葉のまま、いくさをして敗れてしまったら。

あるいは、慶喜公が異国と戦おうとしないのを激しく非難出来るのか。

むしろ、責任を持たせることにより、理想でなく、現実を見ざるをえないようになると考えるのだ。


そこで、阿部正弘は黒船撃退によって生じるもう一つの危険を指摘することにする。


「ですが、私には、もう一つ懸念がございます」


「それが、打ち払わなかった、もう一つの理由か。何だ?」


「今回の黒船の無礼な振る舞い、全ては打ち払いを誘発する目的であったのではないかという疑念です」


「打ち払わせてどうする?」


「今、幕府はアヘン戦争以来、打ち払いを控え、異国の船が来た場合、緊急の必要性を認めれば、水、食料を渡して、追い返しております」


「何じゃと!夷狄を打ち払わずに、そんなことをしておるのか!神州が奴らに穢されるではないか!」


「ご存知の通り、アヘン戦争では、あの清国ですら大敗し、多くの領土を割譲する羽目になっております。

水戸様は、清国ですら倒した奴らといくさをして勝てると言い切れますか。

負ければ清国のように、神州日本が占領されるのですぞ!」


阿部正弘がそう言うと、徳川斉昭が唸る。

彼も、勝ち目のないいくさをしろと叫ぶ程、愚かではない。

黒船を追い返す位なら、奇襲や夜襲で何とかなるかもしれない。

だが、大量の黒船が攻めてきたら。清国すら倒した連中を確実に打ち払えると言える程、徳川斉昭は傲慢でも、宗教的でもなかった。


「臥薪嘗胆ということか」


「は、不本意ながら、今はまだいくさを避けるべき時かと」


「その為に、打ち払いを緩和していたところ、この無礼な態度か。確かに、怪しいな」


「もし、その挑発に乗り黒船を沈めれば、異人たちが喜々として、それを口実に日ノ本に攻めてくる恐れがあると考えたのです」


「奴らが清国で禁止されているアヘンを清国で売り、アヘンが清国に没収されるといくさを仕掛けたということはわしも聞き及んでおる。

そのような野蛮人が、味方の船を沈められ、黙っているはずはないか」


この時代のイギリス人は、アヘンの売買をアルコール売買よりも気楽に行っている。

イギリスの所為で、清がアヘン中毒まみれになったというが、イギリス人自身もアヘン中毒だらけで、著名なアヘン中毒者も多い。

これは、飲むと暴れるアルコールより、アヘンの方が安全で、アヘンに溺れる奴の意思が弱いのが悪いと見做されていたと言われている。

つまり、アヘンを売買することは、イギリス人にとっては不道徳でも何でもなかったのである。

酒を禁じられている国に酒を売って、それが没収されたから、戦争を仕掛けたのに感覚的に近いだろう。


それでも、他国の法を無視して、密売していた物を没収されたから、戦争を仕掛けるなど、無法行為には違いがないのではあるが。


「異人たちを追い払うには、軍備を整える必要がございます」


「うむ、その通りだ。水戸藩は幕府を全面的に支援するぞ。

大筒を作り、大船建造の禁を解いてくれるなら、大船も作って幕府に献上しよう」

徳川斉昭は、鼻息荒く、嬉しそうに答える。


「ありがとうございます。その様なご協力は誠にありがたい。

その様に、ご協力頂ける水戸様であるからこそ、ご相談したいことがあって、参った次第でございます」


「うむ、何でも言ってみよ。異国から神州を守る為だ。わしに出来ることなら、何でもするぞ」


徳川斉昭が前に乗り出すと、阿部正弘は密かにほくそ笑む。


「ご存知の通り、軍備を増強しようにも、今、我らが作れるのは青銅の大筒のみ。

鉄の大筒も、あのような蒸気船を作った経験もございません」


「確かに」

徳川斉昭が悔し気に呟く。


「かと申して、日ノ本の軍備の増強は焦眉の急を要する事態。

反射炉や大船が、異国に匹敵する水準で、日ノ本で作れるようになるまで待っていいのか、どうか」


「いや、待っている間に、いつ夷狄が攻めてくるか、どうかわからぬ。他に何か手はないのか」


「幕府の中には、最新型の蒸気船と大筒をオランダから買い取り、それを分解して、その技術を入手すればいいと言うものもおりますが。

果たして、オランダ人が本当に、その様な最新型の兵器を売ってくれるかどうか」


「そうか。そうじゃな。

確かに、オランダも250年の付き合いとはいえ、異人には変わりない。

奴ら異人同士、裏で手を組み、ロクなものを日ノ本に寄越さぬやもしれん」


「しかし、異国の進んだ兵器を手に入れるとしたら、相手はオランダしかいないのが現状。

果たして、どうしたら良いか」

阿部正弘は腕を組み、困った顔を見せる。


「そうじゃな。異人なぞ、信用出来ぬ。

だが、奴らを打ち払うには、奴らの武器が必要というのは、何とも歯がゆいのう」


「異人どもを神州に近づけず、奴らの嘘を見抜いて、最新の兵器を買う方法があれば良いのですが」

そう言うと、阿部正弘は考える振りをして、徳川斉昭の顔色を伺う。


「そう、奴らをこれ以上、神州に入れさせるなど、持っての他だ。

それでも、武器を手に入れるとなると」


そう言うと徳川斉昭も考え込む。


「我々には、オランダ人が、日ノ本で、嘘を吐いても見抜くすべがございません。

奴らが使っているよりも古く性能の悪いものを売られたところで、今、日ノ本にある武器よりも性能が良ければ、信じざるをえないのです」


「そうだな。その通りじゃ。ああ、何ということじゃ。

奴らが好き勝手やっても、わしらには嘘を暴く術がない」


「異人たちの嘘を暴くには、どうしたら良いのでしょうな。

日ノ本にいる限り、奴らが本国でやっていることを知る術はないというのに」

そう言うと、再び、阿部正弘は考える振りをして、徳川斉昭の顔色を伺う。


「……異人の嘘を暴くには、奴らを調べるしかないようじゃな。

誰かが穢されることを覚悟で異国に出向き、奴らの状況を調べるのじゃ。

どんな武器を使い、どうやって作っておるのかを」


「海外渡航の禁を解き、間諜を送るということでしょうか。

確かに、蘭学者なら、たとえ命がけの渡航であろうと、喜んで行くとは思いますが。

蘭学者たちが、異国の連中に取り込まれる恐れはございませぬか」


「なるほど。そうじゃな。異国のことを好き好んで学ぶ蘭学者ならば、異国に取り込まれ、この神州を裏切る恐れは確かにあるやもしれぬ」


「それに、身分低き者を調査に送ったところで、その結果がどれだけ信じられるものであるかどうか」


「確かに、そうじゃ。蘭学者だけで異国に出すべきではない。奴らは信用しきれぬ。

奴らと共に行き、蘭学者が裏切った場合は、それを見抜き、処断し、正しい情報を幕府に伝えられる信頼出来る者が必要じゃ」


そう言うと、徳川斉昭は暫く考え込み、阿部正弘は静かに徳川斉昭が答えに辿り着くのを待つ。


「……そういうことならば、わしが行くのが一番の様じゃな」


「何と!そのようなこと」

阿部正弘は、本当に思った通りの提案をしてきたので、驚かされることとなる。


「わしは隠居の身。家督は既に慶篤よしあつ(水戸藩藩主、斉昭の嫡男)に譲っておるから、後顧の憂いもない」


「ですが、異国に行けば、生きて帰れぬやもしれません」


「そのようなこと、覚悟の上だ。わしなら、異国に取り込まれる恐れもないしの。

奴らの懐に飛び込み、日ノ本に来るなと言ってやるわ。

おお、そうじゃ、どうしても日ノ本と交易をしたいというのなら、日ノ本でなく、奴らの国でやれば良い。

さすれば、騙されることなく、奴らの優れた技術も、兵器も手に入れることができようて」


「押し出し交易ということですか。それは、海外渡航の禁に反することとなりますが」


「そこは、幕閣を説得するしかあるまい。

秋津島を異人に穢されぬ為には、穢される覚悟で外に出ていき、そこで交渉し時を稼ぐのじゃ」


「そこまでのご覚悟とは、この阿部正弘、感服致しました。

それでは、幕閣を説得し、黒船が再来した時には、水戸様がアメリカ君主に会いに行くので用意しろと言ってやることにいたしましょうぞ」


そう言うと、阿部正弘は頭を下げながら、とりあえず徳川斉昭が異国に行くという言質が取れたことに安堵する。


建白書によると、徳川斉昭にはロシアに行って貰う方が良いと書いていたが、まだ、ロシアが来ていないのだから、仕方がない、異国に行くと言い出しているのだから行先変更もそう難しくないだろう、と妥協しつつ、次に相談する領土問題のことをどう誘導するか、考え始めた。

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