第六話 幕末史概観5 安政の大獄とその影響

「日ノ本を開国することを天子様は認めておりませんでした。

それなのに、攘夷を実行しない幕府に業を煮やして、

天子様は、水戸藩に直接、攘夷を実行せよという勅を水戸藩に出されます。

そのことが、弾圧激化の切掛けでした」


「朝廷が頼るのは徳川宗家ではなく、水戸家であると示され、

井伊大老は幕府を水戸家に奪われることを恐れたというところか」


「おそらく、そう考えられたのだと思います。

その結果、一橋派の人間と水戸家への勅に関わった人間はお侍さんだけに限らず、

お公家さんも、お坊さんも、その家来まで虱潰しに弾圧されていきます。

これを後の世では安政の大獄と呼びます。

そして、この中では、吉田様がその大獄の網にかかり斬首されることとなります」


「どうして先生がそんな弾圧を受けねばならないのですか?

一橋派などの幕府の権力闘争に先生が関係するとはとても思えません」

桂さんが吉田さんを庇う。

この人は、吉田さんを心の底から尊敬していて、

吉田さんの死後の神格化にも一役買っているのだったよな。


「おっしゃる通り、一橋派の権力闘争とは直接関係ありません。

ですが、吉田様は、朝廷の勅なしで、幕府が開国を決めたことが許せなかったのでしょうね。

その頃、吉田様は、黒船密航に失敗後、長州藩で蟄居中であったのですが、

そこで吉田松陰と名を変え、松下村塾を再開して多くの弟子を育てておりました」

そう言うと、吉田さんは驚いた顔をする。

あ、そうか、松陰という忌み名を名乗るのは、

今はまだ、彼の心の中だけの決め事だったんだな。

それで、少しでも信用して、自分の行動を考える契機にしてくれればいいのだけれど。


「しかし、吉田様は、朝廷を無視した勅無しの開国を幕府が決めたことを聞くと激怒し、

老中襲撃計画などを掲げ、倒幕を主張するようになるのです。

そして、他の人間の参考意見を聞くためにと呼び出された伝馬町の評定所で、

自ら進んでその計画を告白して、罪と定められ、斬首されることとなったとのことです」


アッシがそう言うと、吉田さんを知らない人たちは、そんなバカなことをする人間がいるはずないと

キョトンとしているが、吉田さんを知っている人たちは、

やりそうな行動だと苦々しいながらも納得してくれている。

吉田さんて、残された資料を見ると、誠実な善人であることは間違いないのだよな。

ただ、それが、うまく生かせていないのが、問題な訳で。


「それで、私が死んだ後、世はどうなるのでしょうか?」

吉田さんは自分の死を告げられたにも関わらず、冷静にアッシを見詰めて問い質す。

この人にとって、自分の死も私事わたくしごとに過ぎず、公のことの方が重要ってことか。

その辺はさすが象山先生の弟子ってところだな。


「吉田様が処刑された後、桂さんをはじめとする弟子によって、

吉田様は神格化され、その思想は引き継がれ、長州藩は倒幕へと邁進することとなります。

その結果、長州藩は幕府や異国に攻撃を行い、多くの吉田様の弟子は死ぬこととなります」

そう答えると吉田さんは黙り込む。

自分の信じる『正義』を守る為に多くの人間が犠牲になることを

彼は『仕方ない』ことで済ませるのだろうか。

それとも、避けるべき『間違い』と判断するのだろうか。

それによって、彼の行動は大きく変わるのだろう。


「少し先のことを話し過ぎたようですね。

話を大獄の直後まで戻します。

大獄では、吉田様の他に、越前福井藩の橋本左内様などが斬首され、多くの藩主が蟄居を言い渡され、水戸藩では勅を受け取った家老が斬首、薩摩藩の藩主島津斉彬様も急逝なさる等、多くの方が排除されますが、それでも、先ほど話したお公家さんの岩倉具視様などを取りこぼし、最後に手痛いしっぺ返しを食らって終わることになります」


「しっぺ返しって、何が起きるんだい?」


「井伊大老は江戸登城中、桜田門外で水戸と薩摩の浪士に襲われて、討ち取られます」

アッシがそう言うと、再び、象山書院は沈黙に包まれる。

徳川幕府が始まって以来、最高責任者が襲撃され、打ち取られるなんて、ありえない話だからな。


「このことによって、幕府の権威は決定的に傷つきます。

最高権力者である大老であろうとも、気にくわない政策を行えば襲撃されるという前例ができ、自分の思う『正義』に反する主張をするものを言葉ではなく、剣で排除する時代へとなってしまうのです」


「そんな。正義とは一つのはずです。

正しいことをきちんと伝えればわかってくれるはずなのです」

吉田さんは、その信念の下、幕府の人間を説得出来ると信じて、老中襲撃計画とか、自分から話しているのだよな。


「アッシには難しいことはわかりませんが、

井伊大老にとっては日ノ本を異国から守りながら幕府の権威を取り戻すことが正義、

吉田様にとっては天子様に従わず攘夷を実行しない幕府を排除することが正義だったのでしょうな」


「正義とは一つでなく、立場によって変わるということかい」


「さあ、アッシにわかるのは、夢で見た結果だけですから。

いずれにせよ、この大老暗殺以降、議論もなく天誅の名の下に、多くの方が暗殺されます。

その中には、象山先生も含まれます」


「僕は、いつ誰に、どうして、殺されるのだ?」


「象山先生は、今から11年後、京で、『西洋かぶれ』という印象だけで暗殺されてしまったそうです」


「そんな愚かな理由でか」


「人の命がそれだけ軽くなり、攘夷の名の下、

西洋かぶれと呼ばれる人間を斬れば名士とされるような時代になってしまうのですよ。

他には、今から9年後、坂本様は勝様を斬る為に面会したなどという話もございます。

もっとも、その会談で心服して弟子になられるのですが」

アッシがそう言うと、勝さんと龍馬さんは目を合わせて苦笑する。

まあ、襲撃予定だの、弟子になるだの言われても、対応には困るよな。


「そんな荒れた京の治安を守る為、これから10年後、浪士が集められ京に向かいます。

そこに参加されるのは、近藤様と土方様をはじめとする試衛館のみなさん。

後に、会津藩に召し抱えられ、新撰組と名乗り、京の治安維持に努めるようになります。

ただ、この京の治安悪化というのは、

先ほど、話した長州藩をはじめとする倒幕勢力の動向もありますので、

今度は、それを中心にお話しましょう」

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