第35話 暗雲の兆し2

「律さん、これちゃんと切れてないです……」

 

 皮の部分で僅かに繋がったきゅうりを持ち上げて見せる若菜。ちょうど丸々一本くらいが垂れ下がっていて、むしろ関心するくらい。


「え? ほ、ほんとね……」


 そんなやり取りを、俺は美月と共に食卓に着きながら眺めていた。お互いに遠慮があるんだろう、少しぎこちないながらも、それは見ず知らずの者たち同士の会話としては当然と言っていいくらいの範疇に収まっており、非常に微笑ましい。


「あははは! りっちゃん、それはもう芸術だね!」


「うるさいわね……」


 爆笑する美月を煩わしそうに睨みつける律。それから少しして、


「律さん。ほうれん草は茎の方だけ先に少し茹でてから、葉も入れてくださいよ?」


「大丈夫。それくらいは分かってるわ」


「……ならどうして葉を下に向けているんですか?」


「これは……たまたまよ」


 律は目を泳がせながらほうれん草を持ち替えた。また、しばらくしてからも、


「ちょっ牛乳入れすぎです! 目分量はやめてください!」


「うっ、ごめん……」


 なんて騒がしいやり取りがこちらに響いてくる。さっきからこんなことばかりだ。


「くふっ。ね、ねぇ三澄。もしかしてりっちゃんって料理下手?」


 隣のにやけ顔がこちらを覗く。


「いや、そこまでではなかったと思うけど……」


 去年一緒に作っていた時や、小中学校での調理実習の際にはあまり苦戦しているような様子はなかったと記憶している。それに、先々週くらいに律に食べさせられた彼女の弁当は、確か律自身が作ったものじゃなかったか。だが、今の律のわたわたとした様子はもはや、料理ベタの典型例を見ているかのようだった。


「まあでもあれだな。ポンコツな姉をしっかり者の妹が支えてる図って感じで、なんか面白い」


「あは、確かに。髪型とかも似てるし」


 二人とも、長い黒髪を後ろで一つにまとめている様は、仲のいい姉妹って感じだ。


「なんか嬉しそうだね、三澄」


「え、そうか?」


 そう惚けはしたが、実のところ自分でも気づいてはいた。


「うん、そうだよ。というか昨日、今日とすこぶる機嫌がいい気がする」


「そうかね」


 結構バレてるみたいでちょっと恥ずかしい。


「ははーん、さてはあれだな? 可愛い女の子たちに囲まれて、良からぬことでも企んでるんでしょ」


 相変わらずの腹立つニヤケ顔である。


「そんなわけないだろ。ってかなんだ良からぬことって」


「惚けなくてもいいのに。私も男だったらこんな環境、我慢できないよ」


「お前と一緒にすんな」


「ふふん、我慢しちゃって」


「やめんか」


 俺の脇腹を突っつく人差し指をどかす。すると突然、背筋に悪寒が走った。美月も感じたようで、二人して顔を上げる。


「「……」」


 キッチンから向けられる、冷めた二つの視線。俺たちは揃って、あははとぎこちない笑みを零した。それに応えるように律と若菜が同時にすうーっと腕を上げていく。


「ちょっ、包丁は下ろして!?」


「……くすっ、冗談ですよ」


 俺の叫びに、すぐに破顔して腕を下ろす若菜と、


「私は冗談じゃないけどね」


 未だ包丁を掲げたまま、こちらを睨みつけてくる律。


「あ、じゃあ律さん。先に三澄さんたちのところへ行っててもらえますか」


「……」


 律はそのまま、のそりのそりとこちらに歩いてくる。


「おおおおおい、包丁は置いてきて!? おい美月も黙って俺を盾にするな!」


 気付けば背後で俺の服を掴んでいる美月と共に後退る。


「はぁ。私のこと馬鹿にした仕返しよ」


 無表情が崩れ、むっとした顔になった律がキッチンへと戻っていく。俺たちがポンコツとか言ってたのバレてたのか。背後では、うひゃー地獄耳ぃ、なんて言いながら、美月が顔を覗かせた。


「お前……人を盾にしやがって」


 へらへらしている美月と共に、自分たちの座っていた席に戻る。少しして、今度は包丁を片付けた律が、四人分のサラダを持ってテーブルの方へと歩いてきた。ただ、むっとした表情はそのままである。


「……ポンコツりっちゃん」


「っ!」


 余計なことを呟いた美月を、律はキッと睨みつけた。俺は逃げるように、いい匂いと共にじゅうじゅうとした音をさせているキッチンへと向かう。美月は一度、律にシメてもらうといい。まあ正直、律が返り討ちにされている光景しか思い浮かばないが。


 そして一人、二つのフライパンを巧みに操る若菜の姿を見て、これは律が足を引っ張るのも仕方がないかと思ってしまう。少なくとも、俺には立ち入れない。


「あ、三澄さん。もう少しで出来上がりますからね」


「ああ。いつもありがとう」


「はい」


 にこりと微笑んで、調理の方へと注意を戻す若菜。この三日間、毎度のようにその細腕で四人分の夕食を作る彼女には感謝が絶えない。


 テストが終わってもバイトを増やさないようにしよう。俺はそう心に決めた。

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