第34話 暗雲の兆し1

「なぁ律。この問題なんだけどさ……」


 隣に座った律へと、身体と教材を寄せる。


「うん? ああ、これはね——」


 7月3日。昨日、一昨日と勉強会を続けてきた俺たちは、今日も目の前の教材に目を向けていた。


「あー、そういうこと。ありがとう律」


「うん。また分からないところがあったら言ってね」


「ああ、マジで助かる」


 この3日間、成績上位者である律の付きっ切りの指導のおかげで、特に壊滅的だった数学を中心に、これまででは考えられなかったようなペースで勉強が進んでいく。この分ならば、今回のテストは平均点くらいは期待してもいいかもしれない。


「あ、あの、美月さん。私のほっぺで遊ばないでください……」


 不意に対面から、若菜の控えめな声が聞こえてきた。


「ごめんねぇ若菜ちゃん。私、この感触癖になっちゃった」


 そう答える美月は、背後から抱き締めるようにしてむにむにと若菜の頬を弄っている。まあ若菜の方も照れているだけであまり嫌がっているわけではないみたいだし、俺としてもとても微笑ましいので止める気にはならない。


「はぁー、若菜ちゃんやっぱ可愛いわー。私にもこんな妹がいたらなー」


「美月さんは、兄弟とかはいないんですか?」


「ううん、私一人っ子なんだー。ねぇ、若菜ちゃんさえよかったら三澄んちなんかじゃなくて、私のうちに来ない?」


「ええ!? それは……」


 困り顔の若菜が、こちらに視線を送ってきた。


「若菜は誰にもやらんぞ」


 既に若菜は俺にとって必要不可欠な存在。誰に何と言われようとも、手放すつもりはない。


「お義父さん! そこを何とか!」


「お前にお義父さんなんて呼ばれる筋合いはない。そろそろ若菜を返してもらうぞ」


 立ち上がり、若菜と美月に近寄っていく。


「む! 絶対離すもんか!」


「ちょっと二人とも。悪ふざけしてないで——」


「お義母さんからもこの分からず屋に何か言ってやって!」


 若菜を抱き締める力を強めた美月が、俺と美月を窘めようとした律へ向かってそんなことを言い出した、


「お義母さん!? お、お義母さん……」


 勢いよく俺を見た律が、ぼそぼそと呟きながら俯く。流石美月。律の無力化方法を熟知している。ただ、出来るなら俺に被害が出なさそうなやり方でお願いしたい。


「ね、ねぇお父さん? 二人の仲、そろそろ認めてあげてもいいんじゃない?」


 照れ笑いを浮かべた律が、案の定そんなことを口にし始めた。なんとなく頬が熱くなるのを感じる。しかしまさか律が美月側に付くとは思わなかった。かくなる上は。


「若菜、お前はどうなんだ」


 そう、若菜に丸投げする。しかし言ってから後悔した。これで彼女が美月の方がいいとか言い出したらどうしよう。割とガチで泣いてしまうかもしれない。


「わ、私は……」


 思案顔になる若菜。俺はごくりと生唾を飲み込んだ。


「私は……この家がいいかなぁ、なんて。三澄さん、食生活とか色々心配ですし」


「くはぁー……」


 微笑む若菜の言葉に、俺は大きく息を吐き出して脱力し、床に仰向けに寝そべる。


「ぐあー、そうかー、三澄のダメ男さに母性くすぐられちゃったかー」


「ダメって、美月だけには言われたくないんだけど」


 若菜も、はははなんて軽く笑っている。否定してくれないの、結構心にくるなぁ。


 そんなこんなで俺、美月、若菜が談笑する中、一人その輪に入れていなかった律が突然、何を思ったかバンッ、と両手で机を叩いて立ち上がり、


「今日、私が晩御飯作る!」


 と、声を張り上げた。


「おお、突然どうした?」


「私だって、料理できるから」


 俺を睨み、そう言い残して部屋を出ていく律。


「あっ、ちょっおい!」


「あーらら、火ぃ付けちゃったみたいだねー」


「ちょっと俺行ってくるわ」


 律は料理が出来ないわけではないが、胸を張って出来ると言えるほどでもなかった。一人にさせておくのはマズい気がする。そう考え、俺は立ち上がって入口の扉へと歩き出した。


「あ、なら私も」


「あれ、若菜ちゃんも行くのね。じゃ、私も行こうかな」


 若菜が立ち上がるのに続いて、美月も腰を上げる。


「いや、美月は来なくてもいいぞ。キッチンを荒らされても困る」


「なぬ!? 私一人除け者にしてまさか三澄、りっちゃんと若菜ちゃんを美味しくいただく気じゃ!?」


「そんなわけねぇし、なんも上手くないからな?」


 はぁ、と息をついて部屋の戸を開けると、その後ろに若菜と美月が続いた。先程まで散々弄られたことへのささやかな仕返しは、どうやら失敗みたいだ。


「三澄さん。私、いつか美味しく頂かれちゃうんですか?」


 こそっと若菜の囁き声が聞こえる。背後へ視線を送ると、少し悪戯っぽい笑みを浮かべていた。


「若菜、お前……」


 まさか、もう既に美月の悪影響が出始めているのか……?


 美月が若菜と仲良くしてくれるのはとても嬉しいが、色々と付き合わせ方を考えないといけないらしい。せめて彼女だけはまともなままでいてもらわないと、きっと俺の身体がもたない。


 若菜の後ろで、おお、どうした、なんて顔をしている奴へ物申したい衝動を堪え、俺は扉をくぐった。

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