第16話 現状確認2

 精神的にも物理的にも追い詰められた昼休みが終わり、開放感いっぱいの気持ちで受けた午後の授業だったが、まるで恥ずかしさを思い出したかのように悶える律の様子をチラチラと盗み見るのに忙しく、全く集中できない。


 彼女の暴走と、その後我に返った時の様子を見るのはなかなかに久しぶりで、思わず顔が綻んでしまうのを、教師に咎められないよう抑えながら、ゆったりとした時間を過ごしていく。


 まるで、一年と数か月前の俺たちに戻ったかのような心地。つい考えるのを止めてしまいそうになる。


 しかし、もう賽は投げられてしまった。彼女の気持ちを知ってしまった。今日の暴走の原因にも、今はなんとなく気付けてしまう。まぁでも、これで律への配慮もしやすくなったと思えばいい機会だった、と言ってもいいのだろうか。よく分からない。


 そして午後の授業も全て終わり、放課後になる。


 分厚い雲に覆われた灰色の空と似たようなモノクロな色たちが満たす通学路。


 いくつもできた水溜まりの上や、コンクリートを跳ねるたくさんの水滴が足元を少しずつ濡らし、手に持った傘の端っこが、こつ、こつと、時折律の傘とぶつかる。


 クラスの連中が周囲にいない今、ようやく律と話ができる。


「なぁ律。この前律がさ、俺の家から飛び出してった時の話、していいか」


「……それ、別にこんなところでしなくてもいいんじゃない?」


 その言葉とは裏腹に、周囲を気にしている様子はなく、不安そうに、そして怯えるように俺をじっと見つめてくる律。


「いや、今から話す内容は人に聞かれてもあんま問題ないと思う」


「……ほんとに?」


「ああ。律ってさ、多分なんだけど、俺に彼女がいるって思ってる?」


「……え? 違うの?」


「ああ、誤解だ。俺は、今も昔も彼女がいたことなんかないぞ」


「……はぁぁぁああああ⁉」


 一瞬、動きが止まったかと思うと、いきなり大声を張り上げ、両手で胸倉に掴みかかってくる律。俺は反射的に彼女が濡れないよう傘を移動させた。


「それじゃあ何⁉ 私は勘違いで告白したってこと⁉」

律の背後では、傘がぼんぼんと道路の上を跳ね、大量の水滴が舞っている。


「っぐ、ちょ、待った、揺らすな……!」


 俺のちょっとした気遣いにも気付いた様子の無い律は、物凄い剣幕で怒鳴り散らしながら、俺の身体をぐわんぐわんと揺さぶってくる。俺の腕の揺れに呼応して動く傘から、ポトポトと水滴が落ちていた。


 ってかマズい。そんなに揺らされると筋肉痛がががが——


「り、律! 落ち着け! 周りをよく見てみろ!」


 俺は律の腕から解放されたい一心で、ついそう叫んでしまった。


「……え?」


 やらかした。


 律の動きがピタッと止まり、恐る恐るといった風に周囲を見回す。そうして段々と顔は赤く染まってゆき、


「っ!」


 とうとう耐え切れなくなったのか、地面に落ちた傘をそのままに、律は全力で走り出した。


「おおおい⁉ せめて傘は差してくれ!」


 傘を拾いつつ、俺も駆け出そうとして、開いたままの傘がどうしようもなく邪魔なことに気付く。すかさず二本とも閉じ、律の走っていった方向を見据えて走り出した。


 一歩踏み出す度に全身に走る、軋むように痛みに耐えながら、下校中の生徒たちを避けて進むこと数分。人通りも少なくなってきたあたりで、ようやく律に追いつくことに成功し、彼女の腕を掴んだ。


「律!」


「っ、三澄っ。私もう学校行けない!」


 振り返った律は、両手で俺のシャツの裾を握り締め、潤んだ瞳で見上げてくる。相変わらず顔は真っ赤で、完全に気が動転しているらしい。かなり大変なことが起きているのだが、おそらく彼女は気付いていない。


「お、落ち着け。大丈夫、雨音で聞こえてないから」


 律の肩に手を置きながら、彼女の大変になってしまった部分を見ないように、顔をじっと見つめる。


「そんなわけない! あんな見てたもん!」


「大丈夫。聞こえててもすぐ忘れるって」


「すん……そうかなぁ?」


 軽く鼻を啜りながら、縋りつくように視線を向けてくる律。


「そうだって。他人のこといつまでも気にする人なんていない。土日だってあるし、二日も空けば誰も覚えてないよ。だから、少し落ち着こう?」


「……うん」


 すんすんと鼻を鳴らす様子の律に、こんなことを口にしてもいいものかどうか迷う。だが、流石に知らせないわけにはいかないだろう。気付かないままなのが、おそらく一番マズい。


「あー、それでな? 律、お前のシャツが……その、透けててな?」


「へ?」


 すーっと律の視線が下へ、自身の身体へと移動していく。そして自分の状況——白い制服が肌にピッタリと張り付き、淡い水色の下着が透けている——を把握した彼女は、慌てて自身の胸元を両腕で覆い隠し、呟く。


「まさか、私このまま走って……?」


「い、いや大丈夫! 見え始めたのついさっきだから!」


 正直、いつから透け始めていたのかなんて知らない。というか、律から視線を外しながら、俺は一体何を口走っているんだろう。


「三澄は、見たんだ」


「……悪い」


 チラリと律の顔へ視線を送ると、顔は赤いままだが、随分と落ち着いたようにこちらを見据えている。でも、何でだろう。少しも安心できない自分がいる。


 とりあえず俺は傘を開き、黙ったままの律を中へ入れる。ぼそりと、ありがとう、とだけ返した律は、おもむろに背負っていた鞄を抱えるようにして、中からハンカチを取り出した。


 何をするか察しが付いた俺は、再び目を背ける。程なくして、ごそごそと布の擦れる音がし始めた。


 気まずい。いっそ怒鳴り散らされた方が、分かりやすくて良かったような気がする。だが、狼狽えてばかりでもいられない。まだ片付いていない問題が山積みなのだ。


「なあ、律。それで、弁当の件の続きを話していいか?」


「うん。あと、こっち向いても大丈夫だから」


 その言葉に、俺は恐る恐る視線を下ろすと、鞄を抱き締めるようにして前を隠した律の姿が目に入る。表情には僅かに恥じらいを感じるが、全体としていつもの落ち着いた雰囲気に戻っていた。


「それで、続きって?」


「……とりあえず、歩き始めようか」


 二人ともびしょ濡れの状態で立ち話をするのは流石に躊躇われた。そして、俺たちは一つの傘を二人で分け合うようにして歩みを再開する。


「……律に会って欲しい人がいる」


「あのお弁当を作った人?」


「そうだ」


「女の人?」


「まあ、そうだけど……」


「……ふーん」


「そ、それで、今、俺はその子と一緒に住んでるんだけど……」


「同棲⁉」


 愕然とした表情で、どさりと鞄を落とす律。


「いや同棲は流石に語弊が、ってか前! 鞄落とさないで!」


 俺は慌てて目を瞑る。直後、がさ、という物音がしてうっすらと目を開けると、鞄を持ち上げて、ぎゅ、と抱き締める律の様子が窺えた。安心して、俺は目を開ける。


「み、三澄、付き合ってないって言ったよね?」


 じとーっとした視線を受けながら、俺は身の潔白を訴える。


「ああ、付き合ってない。そもそも、別に恋愛感情があって一緒に住んでるとかで

はないんだ」


「ほんとに?」


「ほんと」


 あまり納得はいっていなさそうな律だったが、それ以上問い詰める気はないらしい。そこで俺は彼女に、若菜に会って欲しいこと、会う日取りは律の心の準備が整ってからでいいことを伝える。


 若菜が吸血鬼と人間のハーフであることは、こんな往来では言えなかったが、それはまたいずれ話せばいいだろう。俺はそう高を括っていた。だからまさか、


「じゃあ、今日会わせて」


 そう、はっきりと口にするなんて、思ってもみなかった。






「あの、どうして傘持ってるのに、そんなにビショビショなんですか?」


 ポタポタと服から水滴を垂らし、玄関に立つ俺を、若菜は怪訝そうな顔で見つめていた。


「いや、ちょっと色々あってな……」


「何だかよく分かりませんけど、ちょっと待っててください。今タオル持ってきますから」


「ありがとう」


 風呂場からバスタオルを持ってきてくれる若菜。俺はタオルを受け取ると、靴を脱いで玄関を上がる。そうして全身の水分をあらかた拭き取っていた後、若菜に告げるべき言葉を頭の中で整え、覚悟を定めた。


「若菜。律が、今日お前に会いに来る」


「……え?」


 みるみると不安そうな表情になる若菜に、一瞬で気持ちが揺らぎそうになる。


「悪い。でも今日は、その、会うだけだから。あんまり気負わないでくれ」


 俺の言葉を受けて、逡巡するように視線を泳がせる若菜。そして、再び目が合う。


「……どうしても、会わないといけないんですか?」


「っ」


 彼女の瞳が、このままで十分だと、これ以上は傷つきたくないと訴えかけてくる。


 だが、このままこの家という閉鎖空間に閉じ込もったまま、俺以外の人間との交流を避けていては、収容所がこの家にすげ変わっただけ。これじゃあ何のために彼女をここに住まわせているのか分からなくなる。


 彼女を立ち止まらせたくない。俺みたいになってほしくない。


 現状維持を求めた先にはあるのは、静かな滅びだけ。幸せを追う努力を怠れば、不幸は必ず追いついてくる。


 崩れかけた覚悟を、今一度固め直す。


「一緒に、頑張ってみないか?」


「……一緒に?」


「ああ、一緒に」


 なおも不安そうな若菜の両手を掴み、俺の両の掌で包み込む。小さくて細くて冷たい手。僅かに震えるその手に、自分の熱を伝えていく。


「若菜はもう、一人にはならないよ」


 その言葉に嘘はないことを示すため、俺は若菜と共にその場に留まり続けた。

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