第17話 出発地点1

 帰宅時には肌に張り付くくらい濡れていたシャツが、今はもう身軽さを取り戻しつつある。


 俺と若菜は玄関前の廊下の壁に並んで背を預けながら座り、手を繋いでいた。左手からは彼女の体温が感じられ、震えもなくなっている。


 ピンポーン……


 家中にチャイムが鳴り響いた。


 びくりと大きく肩を跳ねさせ、玄関の戸の、その向こうにいるだろう人間を凝視する若菜。その姿は、出会って間もない頃の彼女を彷彿とさせた。


「大丈夫。一回インターホン確認しに行こうか」


 強張った顔で頷く若菜と同時に立ち上がり、手を繋いだままリビングのインターホンまで歩く。インターホンの画面には、私服姿の律が映っていた。


「それじゃあ若菜はソファに座ってて」


「……はい」


 心細そうな顔が見上げてくる。手を離したくない。今の彼女を、ほんの一時でも一人にしたくない。そんな思いが込み上げながらも、俺は握った手を解く。若菜と手を繋いだまま律の前に出ることの意味を、今の俺は理解していた。


 ペタペタとソファへと歩いて腰を下ろし、こちらを振り向く若菜の姿を見届け、俺は彼女から視線を外す。


 ピンポーン……


 急かすように、再びチャイムが鳴り響いた。俺は足早に玄関へと向かい、戸を開ける。


「おう」


「三澄おそ、ってあれ。制服のまま?」


「ああ。ちょっと色々あってな」


「……ふーん」


 怪訝な顔をする律だったが、特に問い質すようなことはせず、戸をくぐって靴を脱ぎ始めた。また何か誤解を作ってしまったような気がするが、それも大体今日で解くことができるだろう。


 ドクドクと心臓の鼓動が早まるのを感じる。この後、二人が顔を合わせて、律が若菜の素性を知って、どんな結果になるのか。


「なぁ律。本当に今日会うのか?」


 玄関に上がってきた律に、思わず俺はそう尋ねてしまう。若菜にはあれだけ偉そうなことを言っておいて、この体たらくか。


「ええ。今日絶対に会う。……三澄、随分と私に会わせたくないみたいだし」


 断固として引かない姿勢を見せた後に、拗ねるように小さく呟く律。


「いや、それは……」


 彼女は未だ、何か誤解をしているんだろう。そして、若菜に会わなければ、おそらく誤解は誤解のままどんどんと膨らんでいく。


 結局俺は、律を引き連れてリビングへと足を踏み入れた。ソファの方を見やると、若菜が僅かに顔を覗かせて、恐怖の籠った視線を律へと向ける。


「律、ちょっとここで待ってて」


「え? うん……」


 俺は律をリビングの入口あたりで待たせて、ソファへと近寄った。


「若菜、出て来れるか」


 緩慢な動きで立ち上がった若菜は、律の方へとしきりに視線を送っている。


「行くぞ?」


「……はい」


 流石に今は、彼女の手を引いてあげることはできない。俺が歩き始めると、若菜は俺のシャツの裾をきゅ、と掴んで背中に張り付くようにしてついてきた。彼女のそんな姿が、俺を奮い立たせてくれるような気がする。


 そうして俺と若菜は、二人並んで律の正面に立った。


 話を始めよう。そう視線を上げるも、律は俺の後ろへじっと視線を釘づけにしていて、目が合わない。


「……律? どうし——」


「三澄。まさかとは思うけど、その子誘拐してきたんじゃないわよね?」


「は? いやいやそんなわけないだろ⁉ 待った! 頼むから通報はやめて!」


 スマホを取り出して操作しようとする律を全力で静止し、スマホを仕舞わせる。真剣な顔して、まさかそんなことを考えていたのか。律との信頼関係が揺らぎかけながらも、俺はチラリと背後へ視線を送った。


 若菜の張り詰めた雰囲気が、むしろ僅かに和らいでいるように見える。警察を連想させるような律の発言だったが、俺の気にしすぎだったのかもしれない。


「じゃあ、その子は一体何なの?」


 納得がいっていない様子の律が、改めて問い掛けてくる。


「ああ、うん。今から説明するよ」


 その俺の言葉に呼応するように、シャツを握る若菜の手に更に力が籠る。一瞬和らいだ緊張だったが、元に戻ってしまったらしい。


 俺は俺で、律に誤解なく伝えるための言葉を頭の中で再確認していく。これで果たして全部伝えられるのか。律の誤解は全て解けるのか。じんわりと、汗が滲んでくる。それでも俺は、偽りなく全てを伝えるよう努めるしかない。


 ふっ、と短く息を吐き出して、俺は口火を切った。


「彼女は陽ノ本若菜。人間と吸血鬼との間に生まれた子だ」


「……え? ……きゅう、けつ、き?」


 一瞬、時が止まってしまったかのように空白だった律の表情が、みるみるうちに変わっていく。驚愕から、疑問、恐怖、そうして怒り。


「それ、本当なの?」


「ああ」


「どうして? どうして三澄は、吸血鬼と一緒に暮らしているの……?」


 信じられないといった様子の、律の眼差し。予想通りの反応。俺はつい、若菜の肩に左手を置いた。


「吸血鬼とか人間とか、そんなのは関係ない。彼女は彼女だ」


「関係ないわけないでしょ⁉ 吸血鬼は、三澄のお父さんとお母さんを殺したのよ⁉」


 凄まじい剣幕でありながら、泣きそうな程に顔を歪めて、律は叫ぶ。それと同時に、隣の少女の顔が勢いよくこちらを向いたのが視界の端に映った。俺は、この二人の大切な人たちに俺の気持ちをはっきりと伝えるべく、言葉を紡ぐ。


「これは、その二人の意思でもあるんだ」


「……え?」


「父さんと母さんは、何度も何度も吸血鬼たちと戦ってきて、気付いたらしい。吸血鬼が、人間と何も変わらない存在だってことに」


 生前の父と母との会話が、今でも鮮明に思い出せる。


 多忙だった両親との、数少ない、穏やかで温かな記憶。


『三澄。俺たちがどうしてお前に三澄って名前を付けたか分かるか?』


『え? そんなの分かんないよ。それになんかちょっと女の子っぽい名前だし、あんまり好きじゃない』


『ぐ……。ま、まぁそれは、今は置いといてだ。それじゃあ澄って字の意味は分かるか?』


『んー、分かんない。学校で習ってないし』


『ふむ、そうか。澄ってのはな、一つの濁りもなく綺麗な様子を表す言葉なんだ。分かるか?』


『……なんかますます女の子っぽい』


『……やけにそこにこだわるなぁ。まさか三澄、お前もしかして学校で……』


『お父さん、話が逸れてるわよ』


『え? いやでも……』


『別に後でもう一度聞いたって変わらないわよ』


『……確かに。じゃあそれは後で聞くとしてだ。お前を三澄って名前にしたのはな。何者にも汚されず、惑わされず、全てを自分の目で見て、自分の行動の全てを自分の意思で決め、自分の行動に迷うことなく胸を張れる、そんな男になって欲しいと思ったからだ』


『……やっぱりよく分かんない。じゃあ三の方はどういう意味だったの?』


『いや、それは……』


『ふふ、この人ね。澄っていう字を何かの単位みたいに、一より二、二より三だ、とか言い出してね。そのうち百とか千とか言い出すもんだから、私が三に決めたのよ。三澄ってなんとなく音が綺麗じゃない?』


『お前も、結構適当じゃないか……?』


 当時は分からなかった名前の意味は、歳を重ねる毎にこの身体に浸透していった。


 そうして、俺は自分の目標にしたんだ。


「俺も、たった一週間くらいだけど若菜と暮らしてみて、分かったよ。父さんと母さんは正しかった。若菜は、もう俺の家族だ。今生きている、俺の唯一の家族なんだ」

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