第18話 出発地点2

 つい最近まで見失っていたこと。


 両親の願いと、俺の理想の原点。


「かぞく……?」


 すぐ傍で、そんな呟きが聞こえてきた。隣で見上げる若菜の目が、驚愕と共に、今の俺では理解できない色んなものが混じったようなその目が、じっと俺を見つめている。そんな彼女に、俺は微笑みを返した。


「ああ。俺は若菜のこと、家族だって思ってる」


「……怖く、ないんですか? 恨んで、ないんですか? 私、吸血鬼なんですよ?」


「関係ないって言ったろ? 若菜が人間でも吸血鬼でも、もう俺の家族だ」


「っ……」


 目に溜まっていた涙が、とうとう零れ落ちた。すうっと頬を伝い、そうして少しずつ若菜の顔が歪んでいく。


 ぎゅっと、彼女の拳に力が籠り、握っていたシャツの皺が深くなった。


 わんわんと、まるで赤ん坊のような声を上げながら縋りつく彼女の頭を、俺はゆっくりと、髪の毛を乱さないように、しばらくの間撫で続ける。


 内に秘めてきた色々なもの。抑えつけるしかなかった自分を解放していく若菜。きっと俺との生活を始めてからも、必死に我慢を続けていたはずだ。彼女が俺に日々見せてくれていた笑顔の裏にはきっと——


 小さな女の子の身体に、一体どれだけのものが背負わされてきたのか。その全てを、今の俺では理解することはできない。けれどもいずれは、その荷の一部を預けてもらえるように、彼女を守れるように、俺は強くなりたい。


 若菜の姿を見ながら、自身の行く末が定まっていくような気がした。


 ずずっと鼻を啜り、目を擦りながらも、次第に、若菜の様子が落ち着いたものになっていく。


「……律」


 俺は律の顔を向ける。彼女の表情からは、何かを堪えるような危うさを僅かに滲ませながらも、その感情の全てを推し量ることができない。


 当然だろう。突然こんなことを告げられて、平静でいられるはずがない。でも、俺の思いをはっきりと伝えないと、また誤解が生まれてしまう。お互いがお互いを苦しめ合ってしまう。


「律も若菜のこと、今は受け入れられなくても、目は逸らさないで欲しい。吸血鬼なんて一括りにしないで欲しい」


 じっと律を見つめる。俺の願いは、果たして彼女に届いているのか。


「……少し、考えさせて」


 目を伏せ、短くそう答えた律は、そのまま静かに踵を返し、ゆっくりと廊下を歩いて玄関から家を後にした。


「あの、追いかけなくて大丈夫なんですか?」


 心配そうな顔で見上げてくる若菜。


「今日一日は、待とうと思ってる」


 その言葉通り、待つのは今日だけ。一人で考える時間、俺の言葉を飲み下す時間は絶対に必要だ。だけど、今日話した言葉だけで全てが通じたとは限らない。時間をかけて何度も伝える。彼女をもう手放さないように。


「……そうですか」


 俺の言葉に納得したのか、若菜は微笑みを浮かべた。


「あー、それでな。俺もそろそろ風呂に入ろうかなと思うんだけど……」


 一瞬、ポカンとした表情を浮かべた若菜は、今の自分の状況に気付いたのかさっと身を引いて、にへらと少し気恥しそうに顔を綻ばせる。


 泣き腫らした顔ながらその笑みは、彼女に酷く似合っている気がした。






 きゅ、と蛇口を捻り、シャワーヘッドからお湯を出して身体へと浴びせかける。じんわりと身体に熱が伝わり、思わず大きく息が漏れた。そのままお湯を流しっ放しにして、俺は椅子に腰を下ろす。ざぁざぁと後頭部へお湯がかかり、滴り落ちていく。


 俺は、律に色んなものを求めすぎてはいないか。負担をかけすぎていないか。


 去り際の彼女の表情が、酷く痛ましいものに見えて、やっぱり忘れられない。今日一日、なんて若菜には言ったが、本当はすぐにでも追いかけたかった。追いかけて、どれだけ格好悪くても、必死に頼み込みたかった。


 俺の傍からいなくならないでくれ、と。


 でもそれは俺の身勝手な思い、律の気持ちを利用した、唾棄すべき行いだ。もし、彼女が若菜のことを受け入れられないというのであれば、そんな言葉だけは絶対に聞かせるべきじゃない。


 それに俺にはもう一つ、けじめをつけないといけないことがある。


 父さんと母さんを失った時、一番に寄り添ってくれた律を、俺は……。


 つい身体に力が入る。しかしそれは長くは続かせない。ふっと息を吐き出し、今は明日のことへと思考を向ける。


 過去は変えられない。変えてはいけない。なかったことにしてはいけない。そうしてようやく、律とちゃんと向き合うことができるはずだから。

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