第二章 過去は背負い続けるもの

第19話 休息1

 スマホのアラームが鳴っている。


 ぼやけた思考と視界ながら、腕を伸ばしアラームを止めようとするが、身体が異様に重く、怠い。


 寝起きだからだろうか。血圧の低い人間が、こういった症状に悩まされると聞く。俺も小さかった頃には稀にあったことだ。


 少し力みながらも、緩慢な動きでスマホに手を伸ばし、操作してアラームを止め、体勢を戻す。


 思わず大きな溜息が零れた。しばらく寝そべったまま動けない。


 今日は土曜日。


 律の様子を見に行きたかったが、生憎と10時からバイトがある。


 もう一度スマホに手を伸ばし、手に取ってまた一旦寝そべり少し休憩。スマホの電源を入れて時間を確認する。

 

 8時40分。そもそもアラームを8時30分にセットしておいたんだから、特に確認しなくても分かることだった。


 天井を見つめながら、再び大きな溜息が漏れた。


 これが日常である低血圧の人たちは大変だと、そんなことを考えていると、誰かが階段を上ってくる音が聞こえてきた。


 程なくして部屋の扉が控えめに叩かれる。


「三澄さん、起きてますか。ご飯、出来ていますよ。今日は朝からバイトでしたよね?」


 部屋の外からの声に反応しようと口を開けるも、声を出す行為が酷く億劫なものに思えて、何も発しないまま閉じた。


「三澄さん?」


 そんな声と共に部屋の扉が開き、若菜が姿を見せた。


「あれ?三澄さん、起きてるじゃないですか。返事してくださいよ」


 呆れたように笑う若菜とは対照的に、俺は笑顔を作ることができない。


「…どうしたんですか?三澄さん、聞こえてますよね?」


 若菜が小首を傾げながらベッド横に近寄り、しゃがみ込む。


「三澄さん?もしかして体調が良くないんですか?」


「…そうらしい」


 ぼそりと、この距離ですら聞こえるか分からない程度の声で呟く。


「食欲はありますか?」


「あるような気はする、けど、めんどくさい」


「なら、私が食べさせてあげますよ。ちょっと待っててください、今お粥を作ってきます」


 そう言い残し、若菜を部屋を出て階段を下りていく。


 遠まわしに食べたくないと言ったつもりだったが、それは許してくれないらしい。


 ぼうっと、部屋の床やら棚やらに視線を配る。


 手元のスマホを再び確認すると、デジタル時計の一番左の数字が9になりそうな時間だった。そろそろ起きなければ、バイトに遅刻する。


 上体と腕に力を籠め、身体を起き上がらせ、ベッドから降りる。たったこれだけのことで息が切れ、膝に手をついた。


 そうして少ししてから歩き出し、壁に身体を預けながら部屋の扉を出て階段へ。

 

 1歩、2歩とゆっくり階段を下りる。すると、慌てるような足音と共に若菜が現れた。


「ちょっ、三澄さん!?何で起き上がってるんですか!?」


 声を上げながら軽快に階段を上がってくる若菜。

 

「いや、バイト、あるから…」


「バイト!?こんな状態で働けるわけないじゃないですか!?ほら、部屋に戻りますよ」


「いや、でも」


「でもじゃないです!いいから掴まってください」


 そう言いながら若菜は、俺の脇の下に潜り込んで身体を支えようとする。


 しかし、やはり無理があるようで体重をかければ今にも倒れてしまいそうだった。


 血を吸えば俺くらい軽々と持ち上がるだろうが、それをすればもうここにはいられなくなる。


 そもそも彼女は人の血を吸うことを望んでいないだろう。


 俺は何も言わず、重たい足に気合いを込めて階段を上りベッドに戻る。


「ふぅ、ちゃんと寝ててくださいよ。もうすぐお粥、出来上がりますから」


 そう言い残し、階下へと戻っていく若菜の後ろ姿を眺めながら、一瞬湧いた、胃をきゅっと締め付けるような思考を振り払うように、バイト先へ連絡を、SNSを使って行う。


 本来なら直接電話で行うべきことだが、今の俺には少しきつい。


 謝罪文と共に、欠勤する旨をバイト先の店長へと送り、スマホをベッドの上に放り出して目を瞑った。





 遠くから響いてくる物音。


 目を開くと、扉をノックしてから部屋に入ってくる若菜の姿が見えた。


 ベッドの傍まで近寄り、座り込みながら平たい皿を載せた盆を横に置くと、かつかつと、匙が皿を叩く音がし始めた。


 程なくして、ふぅふぅと持ち上げた匙に息を吹きかけ、手皿を添えながらこちらに差し出してくる。


「はい、お口開けてください」


 一瞬迷ったものの、素直に従うことにして口を開けた。


 すぅっと口元に寄せられる匙と共に、ご飯の甘い香りと少し鼻を刺すような匂いが漂ってきたと思うと、口の中に匙が差し込まれ、そして引き抜かれる。


 咀嚼する度に、柔らかい白米の甘味と、梅干しの塩味と酸味が口の中に広がった。


 少し気恥しさはあるものの、この分ならば、用意してもらった分くらいは全て食べきれるかもしれない。


 そうして何度か同じことが静かに繰り返された時、ふと目に映った彼女の顔が、なんとなく微かに笑っているような気がして、


「楽しそうだな」


 と、つい呟いてしまった。


「…ごめんなさい、三澄さんが苦しんでるのに。こうしてパクパクと食べてくれる三澄さんが、なんだかすごく可愛くて」


 ハッとして少し申し訳なさそうな顔に変わる若菜だったが、次第に微笑みに戻っていく。


 なんだろう。金魚とか鯉とか、そういったものにでも見えているのだろうか。


 その後も、ひたすら楽しそうに俺にご飯を食べさせ続ける若菜の心境が、俺にはピンとこなかったものの、彼女が喜んでくれるのなら、こうして体調不良になるのも悪くないと思っている自分がいた。

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