第15話 現状確認1

「それで、キス、したんですね?」


「……ああ」


 バイトから帰宅し、お互いに食事を済ませた後、俺は若菜とそれぞれいつもの席に着いたまま、向かい合って、律との一連の出来事を報告させられていた。


 全部を話す気はなかった。ただ、上手くいかなかった、と報告するだけに留めておくつもりだった


「……そうですか」


 俯き、無言になる若菜。表情は前髪で隠れて良く見えないが、何やら異様な威圧感を放っているような気がする。


 いや、ただ俺が彼女に恐れを抱いているだけなのか。ならばどうして恐れを抱いているのか。


 この件に関して、若菜へ負い目を感じることと言えば、色々と支えてもらった身ながら、それらを少しも活かせなかったということのみ。申し訳ないとは思うが、こんなにビビる必要はないように思う。


 だが、現に俺は彼女に気圧され、気付けば話さなくてもいいことまで話してしまっていた。そして、今も下を向いたままの菜から目が離せないでいる。


「……三澄さん」


「……」


 顔を上げた若菜。そのあまりに平坦な声と表情の無さに、先程とのギャップも相まって、声が出せない。


「律さんとは、お付き合いされるんですか?」


「……え?」


 予想外の問いかけ。


「告白されて、キスまでされて。三澄さんも満更でもなさそうですし、一度お付き合いされてみるのもいいんじゃないかと」


「い、いや、付き合うのは……」


 そもそも、満更でもないなんて、俺のどんな様子から読み取ったというのか。


「嫌なんですか?」


「嫌ではないけど、良くもないというか……」


 付き合う付き合わないの選択ができる段階に、自分の気持ちが未だ至れていないというのが、今の俺の実情だった。


 今まで友人だと思っていた人間に好意を寄せられることは、嬉しくもあり、同時に少し寂しく、恐ろしいものでもあって。今までのようにはいられない。そんな予感が、決断を鈍らせる。


 でも律は、今までのままでは嫌だと、一歩踏み出してしまった。


「答え、出そうですか?」


 まるで俺の葛藤を見抜いたかのような問い。

 

 答えを出さないといけないことは分かっている。だが、俺は若菜の問いに対し、”出そう”だとも、”出なさそう”だとも、返すことはできなかった。






 授業中、教師の声と黒板を叩くチョークの音、生徒たちがノートをとる音だけが教室内に木霊していた。


 静寂と雑音が程よく混ざり合い、誰もが前を向いているこの空間は、生徒たちの集中力を高める。勉学のために用意されたものとしてこれ以上ないってくらいの良環境だ。


 しかしながら、俺は全くと言っていいほど集中できていなかった。


 時折隣の席の一人の女子生徒の横顔に視線を送りながら、無心で板書を書き写すだけの作業に時間を費やす。


 あれから、どれだけ頭を捻ったところで答えは出なかった。そうして今は考えても仕方のないことだとよくよく理解したのだが、それでも考えることを止められない。


 唯一、気が紛れるのは、板書を映している瞬間のみ。しかし教師も延々と板書をしているわけではないから、結局思考の渦に埋没していく。


 一度深呼吸をして、自分のとったノートに視線を落とす。


 板書のコピー同然だが、いつもと違い穴がない。まあ身に付いてはいないのだから、あまり意味はないんだけど。


 教師がしてくれる説明の大半が、耳を通ってそのまま抜けていく。


 六月も終盤に差し掛かり始めた現在、そろそろとある季節がやってくる。まさに前途多難だった。


 そんな午前の授業が全て終了し、昼休み。授業中の静寂は一体どこへ行ってしまったのかと思うほど、教室内は一気に喧噪に包まれていく。


 律が特に前置きもなく自身の椅子をこちらに向けて、自分の弁当箱の包みを開け出した。


 ああ、今日もか。俺も昼食の準備をして、椅子の背もたれではなく左隣の壁に背を預ける。


 俺の机の上の弁当の中身に、律がチラリと視線を送り、ピクリと一瞬眉を動かした。


「ねぇ三澄。これ肉じゃが、食べてみて?」


 ザザと椅子をこちらに近づけ、自分の弁当箱を差し出してくる。


「……ありがとう」


 ただ一緒に自分の弁当を食べるだけだった昨日とは違った展開に少し戸惑う。律の弁当を少しもらうだけ。たったそれだけのことが、今は気恥しく感じてしまう。だが、食べないわけにもいかない。俺は箸で小さなじゃがいもを一つ摘まんで口に運んだ。


 中までほっくりと柔らかく、しっかりと味も染み込んでいて、ほんのりとした甘さと塩味が口の中に広がった。


「どう?」


「美味しい」


「ふふ、よかった。ほら、これも食べてみて」


 にこにこと、今度は卵焼きを指定してくる。


「いや、俺があんまり食いすぎると律の分がないだろ?」


「ううん、私はいいから。ほら、じゃあこっちは?」


 そう言ってひたすら俺に勧めてくる律。俺はたじろぎ、つい視線を散らせた。


 そうして、律の前後の席の女子二人が、こちらを見てニヤニヤと笑みを浮かべていることに気付く。


 見ればその二人以外にも、こちらに視線を向けている者がちらほらといた。顔の温度が、少しずつ上昇していくのが分かる。


「おい、律。ちょっと落ち着いて、周りを見てみろ」


「え?」


 律は周囲を見回し、今自身の置かれている状況を理解して急激に顔を赤らめていく。


「こ、これくらい、どうだって言うのよ。ほ、ほら、いっそアーンでもしてみる?」


 律は顔を真っ赤にさせたまま、自分の箸で卵焼きを掴む。


「はぁ⁉ いや、落ち着け! お前今自分の顔がどんだけ赤いか分かってるか?」


「う、うるさい。いいから口開けなさいよ」


 一切れの卵焼きが、少しずつ口元に近づいてくる。思わず身を引くも、背後は壁、左右は机と、俺に最初から逃げ場などなかった。


「ちょっ、おいそこの二人! 友達の暴走を止めようとは思わんのか⁉」


 律の前後の席で、未だニヤニヤと笑い続けている女子二人に文句、もとい助けを求める。


「いやいや、私らのことなんか気にしないでいいから!」


「ほんとほんと! もう好きにやっちゃえ!」


 始めから八方塞がりであることくらい分かっていた。それでも彼女ら以外に律を止めてくれそうな人間も見当たらないのも事実で。


「いや、頼むからこいつどうにかんぐっ!」


 助けを求めるべく口を開けたその隙を狙われ、ついに卵焼きが口に突っ込まれた。


「どう?」


 今の光景を見ていた人たちがわっと盛り上がる。


 呑気にも味を尋ねてくる律に対してツッコミを入れたくなる気持ちをぐっとこらえ、俺は律に見つめられながら、もぐもぐと口を動かした。


「……いや、美味しいって」


 つい少し投げやりな口調になってしまう。正直、味を気にしているだけの余裕がなかった。


「へへ……」


 口をにんまりと横に広げる律。そうしてこれ以後も、彼女とのどうしようもなく甘ったるい時間は続いた。


 本当に、もう勘弁してください。

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