第30話 テスト勉強1
7月1日。
今日予定されていた全ての授業が終わり、帰り際の事務連絡を済ませたクラス担任の教師が、教室を後にしようと教卓を離れた。
それと同時に、しーん、と静まり返っていた教室内の雰囲気が一気に霧散する。
「おーい、三澄ー。今日三澄んちねー」
遠くの席から、美月が手を振りながら声を上げた。
「おー……おお!?待ってくれ美月、俺んちで勉強会やんのか!?」
「うん、そうだけどー、何?なんかまずかった?」
「いや……」
家には若菜がいる。だがそれを美月にはまだ教えていない。
それに美月を若菜に会わせるにしても、まずその前に、特に若菜に精神的な準備をさせる必要があるのだが、それも済ませていなかった。
今日は会わせられない。
「なあ美月、今日はファミレスとかにしないか?」
俺の席に近寄って来てくれた美月にそう尋ねる。
「ええー、私金欠なんだけどー。それに三澄もあんまお金使いたくないんじゃないの?」
「いや、俺は特に問題はないかな」
「ええー、じゃあなんで三澄バイトばっかしてたの?」
「あー、暇つぶし?」
嘘は言っていなかった。そもそも俺はほとんどお金には困っていない。
両親の個別で加入していた生命保険から降りたお金や遺族年金等と、殉職警官の遺族に対する補償が合わさり、4年制大学を卒業するまでであれば、特に支障なく生活できるだけの貯蓄が俺にはあるのだ。
だが俺は、両親の遺してくれたお金をできる限り使いたくなかった。金額をただの数値で目にした時、それがまるで両親の身を切り売りして得たもののような気がして酷く吐き気がしたのを思い出す。
「いやだったらバイトよりもまず勉強でしょ」
「おおん、美月に正論言われるとなんか違和感あるな」
「なんだとぅ?さては三澄、随分と私のことをナメているな?」
不敵な笑みを浮かべた美月が、腰を落として少し顔を寄せてきた。
「あー、すまん」
「ふふん、じゃあ今日は、私がどれだけ勉強ができるか思い知らせてあげようじゃないか」
と、自信たっぷりな表情で胸を張る美月。彼女の学力が高いことくらい既に十分理解している。
「あーそう?でも別に……」
「遠慮しなくてもいいんだよ?学年30位以内常連のこの私が、分かりやすーい解説をしてあげるからさ」
「……」
正直、不安しかない。彼女との勉強会でちゃんと勉強できた試しがないのだ。
しかし、これからは頑張ると彼女に証明するためには、せめて約束した3日間くらいは共に勉強会をしなければならない。
「美月、三澄」
「ん?」「あれ、りっちゃん。どうしたの?」
横からの律の声に、2人して顔を向ける。
「私もその勉強会参加させてくれない?」
「うえ、りっちゃんも来るの?」
「2人だけだと絶対ちゃんと勉強しないでしょ?」
嫌そうな表情を隠しもしない美月を特に気にする様子もなく、淡々とそう言い放つ律。
「えー、そんなことは……ないよ?」
こいつ、やっぱり完全に遊ぶつもりだったろ……。そう呆れ返る俺の隣で、律は冷静に
「はい、じゃあ決定ね。場所は三澄の家で」
と、聞き捨てならないことを言い出した。
「ちょ、ちょっと待って律」
俺は律の耳元に顔を寄せてから、囁くように尋ねる。
「律、家に若菜がいることは分かってるよな?」
「……ええ。承知の上よ」
「美月はどうすんだ」
「美月なら、きっと大丈夫よ」
「美月は大丈夫でも若菜は——」
「なんの話してんのっ」
俺と律だけが聞こえるような音量で会話をしていることに耐えられなくなったのか、美月が勢いよく割って入って来た。
「2人で内緒話なんて……。まさか今日私が帰った後、2人で何かする気なの?」
「な、何かってなによ」
「ええー、こんな場所で言っちゃってもいいのかなぁ?」
「……やっぱりいい」
「ふふん、2人とも最近怪しいよねぇ。復縁でもした?」
「ふ、復縁って。そもそも付き合ってすらいないし……」
「いやいや、家族ぐるみの付き合いだってことは、もう分かってるんだよ?なんなら婚約とかもしちゃってるんじゃないの?」
「こっ!?」
気が動転しているのか、顔を真っ赤にしてうわ言のように、こんやく、こんやく、と呟くことしかできなくなってしまった律を見ていると、俺も少しむず痒いような心地がしてくる。
「あんま律をいじめんなよ」
「いやー、だってりっちゃん面白いんだもん」
「……まぁ分からんくもない」
「でしょー。ってことで——」
と、ニヤニヤと笑みを浮かべた美月が律の耳元へ顔を寄せていく。
「あ、おい、何する気だ」
そんな俺の言葉を無視して、律へ何かを囁く美月。すると突然、ピクリと肩を跳ねさせた律がゆっくりと俺の方へ顔を向け、俺を視界に入れたかと思うと、にへらと破顔した。
何か嫌な予感がしてつい俺は後退るも、それ以上に距離を詰めてきた律に右腕を掴まれ、しなだれかかるように肩を寄せられる。
「ねぇ、あなた」
「っ!」
「今日の晩御飯、どうしよっか」
全身に鳥肌が立った。律の目は確かに俺に向けられている。だが、どこかあらぬものを見ているかのようで。
「うおい美月!お前律に何をした!?」
「ナイショ」
なんてやり取りをしている間にも律はどんどんと身体を寄せ、俺の右腕を抱くようにして肩に頭を載せてくる。
「ちょ、律!?正気に……!ぐっ、おい美月!なんとかしてくれ!」
律の身体を揺するも特に変化はなく、ごつごつしてるね、なんて笑いながら頬を擦り付けてき始めた。
彼女の甘ったるい匂いと言葉に、段々と頭がくらくらしてくる。
「美月、ほんと頼む!もうギブ、ギブアップだから!」
「ええーもう?あとちょっとできっと面白いものが見れるのに」
「何でも!何でもお前の言うこと聞くから!だからっ!」
「おお!?それ、嘘じゃないよね?約束だからね?」
「ああ約束!ちゃんと守るからっ!」
「ふふん、りょーかい!」
美月はそう満足そうに頷いて律の背後に回ると、律の脇腹に両手を差し込んで激しくくすぐり始めた。
「っ!あはっ、あははははは‼やめっ、あはははは‼」
身をよじり、美月の手から逃れようとする律。しかし、
「ほれりっちゃん!まだまだっ」
「やめっ、やめなさいっ。これ以上はっ」
「やめんかい」
見かねた俺は、美月の脳天目掛けて手刀を振り下ろした。
「あだっ。……んもう、今いいとこだったのに」
「あんなになるまでやれとは言ってないだろ」
美月の傍で肩で息をしている律を見やる。顔を真っ赤にしていて非常に苦しそうだ。
「律、大丈夫か?」
「はぁ、だい、じょうぶ、はぁ。……はぁー、ふぅー」
必死に息を整えて体勢を立て直す律に、先程のような異様な雰囲気は感じ取れない。ひとまず安心して良さそうだ。
ふと周りの様子を確認してみると、予想通り俺たちは教室中の注目を集めていた。
「なぁ2人とも、とりあえず外に出よう」
「っ、そ、そうね」
俺と律は他者の視線などどこ吹く風という様子の美月を引っ張って、それぞれの荷物を持ってクラスメイトの視線から逃れるように、そそくさと教室を後にする。
廊下、昇降口、校門と抜け、まだまだ高くから照り付ける日差しの中、帰路へと就いている生徒たちがまばらになってきたあたりで、俺は先程の話の続きを切り出した。
「それで、マジで俺の家で勉強会やんの?」
「んー、三澄、なんかやけに乗り気じゃなくない?あー!さては三澄、何か隠し事してるな?これは意地でも三澄んちに行かないとねぇ」
不敵な笑みを向けてくる美月。
これだけ渋っていれば、流石に気付かれるか。とはいえ……。
「なぁ律、お前も1回考え直して……あれ?律?」
隣に並んでついて来てくれていると思っていた律の姿が見えない。振り向いてみると、俺たちの後方10メートルくらいの位置に、俯きながら歩く彼女の姿があった。
不意に、律が少し顔を上げ、窺うようにこちらに視線を向ける。
「っ!」
ビクッと肩を跳ね上げ、俯いて踵を返そうとする律。
「え?ちょ、おい律!」
そのまま走って行こうとする律の後を俺は追いかけ、思いのほか早く追いつく。
「おい律、なんで逃げるんだよ?」
「ご、ごめん、あな……三澄。少し1人にしておいてくれない?」
何かを言いかけて、ぶんぶんと頭を振った律。俯いたままで表情は読み取れないものの、俺にはなんとなく心当たりがあって、
「あ、ああ、分かった。また後でな」
とだけ告げて、彼女をこの場に残し美月の待つところまで向かった。
「りっちゃんどんな感じだった?」
相変わらず悪戯っぽい表情を浮かべたままの美月は、俺が追い付くとすぐにそんなことを尋ねてくる。
「お前のせいで大変そうだったよ」
げんなりとした声音でそう返しながら、足を止めずにそのまま歩き続ける俺に、美月は並んで歩き出した。
「あははは、やっぱり?相変わらずだなぁりっちゃんも」
「はぁ、せめてもう少し手加減してやれよ……」
チラと後方へ視線を送ると、相変わらず下を向いたままの律も、つかず離れずの距離を保ちながら動き始めている。
「いやいやそれじゃあつまんないよー。それにりっちゃんも喜んでくれてると思うし」
「喜んでる?そんなわけあるか」
「ふっふー、三澄も分かってないなぁ。あれだけ弄って弄ってーって近づいてくる子なんてなかなかいないよ?」
「……美月、お前何か幻覚でも見てるんじゃないか?」
「幻覚なんかじゃないって!私、りっちゃんのことずっと弄り倒して来たけど、あの時1回喧嘩したくらいで、仲は良いままだよ?きっと弄られるの好きなんだよ」
1回の喧嘩っていうと去年の口論のことだろう。少し苦虫を潰したような心地になる。
「流石に暴論だろ」
「三澄も1回弄り倒してみれば分かるよ。というか三澄ならもっと面白いことになるかもね」
「いやあれ以上って……」
「きっと人には見せらんないことになるよ」
何を根拠に。そう言おうとしたが、最近の律の暴走具合は既に俺の想像の埒外だ。どんなことになってもおかしくないかもしれない。
これからは律を弄るのは程々にしとこう。俺はそう固く誓った。
「……なぁ美月、ちょっと電話していいか?」
「電話?うん、別にいいけど……」
「悪いな」
俺はポケットからスマホを取り出し、自宅の固定電話の番号に電話をかける。
しばらくコール音が続いた後、聞き慣れた少女の声が聞こえた。
『はい、三澄さん?』
「ああ、若菜。実は——」
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