第26話 経験しないと分からない3
「お先に失礼します。お疲れさまでした」
6月最後の土曜日の昼過ぎ。客足が減ったあたりで、店長から早めに上がって良いとの指示が出たため、俺は切りのいいところで作業を止め、従業員たちに挨拶をしてパントリーを後にした。
バイト終わりのいつものルーティンを済ませ、ファミリーレストランの裏口の戸を開けると、むわりと湿り気を帯びた熱気が全身を襲う。
瞬く間に汗ばみ、踏み出すための気力が一気に奪われていく。
しかし立ち止まっていては延々と疲労が溜まるのみで埒が明かないと自身を奮い立たせ、じりじりとした日差しに背を焼かれながら、俺は帰路に就いた。
「本当によかったんですか?テスト勉強しなくて」
そう尋ねてくる若菜だったが、その顔に浮かんでいるのはとびっきりの笑顔。
俺たちは今、2人並んで夕暮れの住宅街を繁華街へと向かって歩いていた。
久しぶりに見た若菜の白いワンピースが、夕焼けに照らされながらひらひらと揺れている。
「あー、まぁ多分大丈夫」
「えー?ふふ、赤点だけは取らないようにしてくださいね?」
「うっ、あー、まぁそれはそれとして、若菜さ、日差しきつくないか?」
赤く染まる、普段ならば白いはずの彼女の肩や腕がどうしても気になってしまい、そう尋ねた。決して分が悪くなったから話を変えたのではない。
「はい、このくらいなら大丈夫です」
本来、吸血鬼ならばこの夕暮れの日差しであろうと、身体に相当な負荷がかかり、ほとんど身動きかできなくなるはず。彼女が今こうして元気に笑っていられるのは、人の血が混ざっているからだ。
それでも半分は吸血鬼。彼女の肌の日本人離れした白さは、今まで日光を避け続けてきた証なのだろう。
若菜の身体は、普通の人間よりは確実に日の光に弱い。
「あんま無理はすんなよ?」
「はい」
相変わらず上機嫌な若菜を眺めながら、日傘や日除け防止用の衣服などを売っていそうな店を、頭の中でいくつか思い浮かべていくのだった。
そして繁華街内のとあるデパートに到着した俺たち。
そわそわと、しきりに首を振って辺りを見回す若菜の表情は、まるで初めて遊園地に来た幼い子どものように輝いている。
「じゃあまず服屋からだな」
「え?本屋に行くんじゃ……?」
「あー本屋は最後だな。絶対何かしらは買うだろうから、ずっと持って歩くのは少し邪魔くさい」
「服屋、ですか?」
先程までの機嫌の良さが一転、しゅんと気落ちしたように表情が暗くなる若菜。
そんな態度を取られると、今すぐにでも書店に向かいたくなってしまう。だが、書店で時間を使いすぎれば、必然的に服を選ぶ時間はなくなっていく。
「8時までには本屋に行くから、そんな顔しないでくれよ。それにそのワンピース以外にも服があれば、洗濯とか気にせず本を買いに行けるぞ?」
「……え?それって……」
「若菜だってほんとは、他人に迷惑をかけない限り何をしたっていいんだ。本屋に行きたければ行けばいいし、服だって好きなのを買えばいい。俺の同伴が必要なことは我慢してもらうしかないけど、それでも自由を追求する権利くらいはあるはずだ」
むしろそうでなくては、俺が若菜を家に住まわせている意味がない。彼女の自由をできる限り保証することこそが俺の役割なのだ。
吸血鬼であるということは、人間中心のこの社会においては縛りでしかない。だが彼女が人であろうとする限り、彼女は他のどんな人間たちよりも人間らしいだろう。
そんな彼女の自由は、絶対に侵害されてはならない。
「服も本も、欲しいものがあったら何でも言ってくれ。財布と相談する必要はあるけど、大体のものは買ってやれると思う」
じっと見上げてくる若菜を、俺もじっと見つめ返す。
「……どうして。三澄さんはどうして、そこまで私に優しくしてくれるんですか?」
「若菜のこと家族だと思ってるって言ったろ?家族なら、これくらい普通なんじゃないのか」
そう何気なく口にしてしまったことをすぐに後悔する。しかし、言ってしまったことを今更撤回したところで意味がない。
「……そう、かもしれないですね」
「え?」
まさか同意してもらえるとは思っておらず、ついそんな声が出た。見れば俯いた若菜の顔には、柔らかい、しかしどことなく憂いを帯びたような笑顔が浮かべている。
「三澄さん。私も三澄さんのこと、家族だと思ってます。だから、我慢なんてとんでもないです。私、三澄さんと一緒だからこんなにも楽しいんですから」
しかし次第にそれはとびきりの笑顔、それも先程までの子どものような無邪気な笑顔に変化していく。
おそらくこれが彼女の本来の姿なんだろう。いつも見せている礼儀正しさや慎ましさは、周囲から身を守るために後天的に獲得した殻みたいなもの。
これからも、彼女が今の姿をいつでも見せられるように、自前の殻を用意せずともいいように頑張ろう。そう今一度決意を固めるだけの眩しさが、今の若菜からは感じられた。
ふと、なんとなく違和感を覚えて周囲を見回すと、俺たちの方をチラチラと、または見守るように眺める人たちの姿がぽつぽつと目に映る。
そういえば今俺たちが立っているここは、たくさんの人たちが使う通路のど真ん中だった。
「?三澄さん、どうかし……あ」
若菜も今自分が置かれている状況を理解したのか、次第に赤面していく。
「とりあえず移動するか」
「はい……」
そうして俺たちは、そそくさとその場を立ち去るのだった。
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