第6話 再会1
大きな欠伸を漏らしながら、リビングのソファに座ってだらだらとスマホをいじる。
しかし眠気などなく、心臓の拍動はいつもよりも気持ち速め。先程からスマホの画面上部に表示されている時計についつい視線が引き寄せられ、羅列されている電子書籍の文字たちの意味が上手く頭に届かない。
スマホを持った左手をだらりと垂らし、天井を仰いで大きく息をつく。
彼女と会うのは約十日ぶり。共同生活を営む上で良好な関係を築くことは必要不可欠だが、向こうも色々と訳ありだろう。
作戦をいくつか練ってはいるが、果たしてそれらがどこまで上手くいくか。
ピンポーン……
突然響いてきたチャイムの音にピクリと肩を震わせ、ゆっくりと立ち上がると、インターホンの画面を確認してから玄関へと急ぐ。
扉を開くと、そこには体格の良い男性、真島が相変わらずの威圧感を纏って立っており、その背後からは見覚えのある色白の少女が顔を覗かせていた。
「おはようございます、真島さん。上がっていかれますか?」
「いやいい。これから仕事だ」
今日は土曜だというのに、相変わらず多忙な職業のようだ。
「そうでしたか。お疲れ様です」
「ああ。では俺はこれで失礼する」
そう言って踵を返して歩いていく真島。その後ろ姿が黒塗りの車の中へと消え、車が走り去るまで見送った後、
「それじゃあ入って」
と、バッグを背負った少女に呼び掛けた。
純白のワンピースが彼女の背後に広がる曇天下の住宅街とあまりにも不釣り合いながら、その真っ白な肌を日中に晒すのであれば、むしろこんな天候の方が都合がいいのかもしれない。
そんなことを考えながら扉を大きく開いて中へと促す。
「は、はい」
そんな声色と同様に、慌てて玄関へと駆け込む少女の表情も明らかに緊張の色に染まっており、それが反って俺の心を軽くしてくれるような心地がした。
「部屋に案内するよ。ついて来て」
玄関に上がってすぐの階段を、少女を引き連れて上っていき、俺の部屋へ向かう方向とは逆へ廊下を進んでいった突き当りにある部屋の戸を開ける。
「今日からここが君の部屋だから。家具とかも全部自由に使って」
一年前までは母が使っていた部屋だった。
母の私物のほぼ全てが撤去され、限りなく生活感の薄まったその部屋の中をこうして改めて眺めてみると、ぽっかりと身体のどこかが欠けてしまったかのような、絶望感にも似た感覚に襲われる。
しかしそれももう慣れたものだ。
「このタンスとか中身は全部空にしてあるから、遠慮しないで使ってくれ」
タンスの引き出しをいくつか開けて見せ、念を押すように彼女に使用を促す。
俺が生まれるより前に購入したと思われるタンスやベッドなどの家具たちにあまり年季の入った様子はなく、少なくともあと数年は十分に使い続けることができるだろう。
「それじゃあその背負った荷物を一旦片付けてから、また下に来てもらっていいか? あまり急がなくていいから」
俺はそれだけ告げ、少女を一人部屋に残して階下へと戻り、ソファへと身体を沈めてぼうっと天井を仰ぐ。
慣れたなんて嘘だ。欠けた部分を補える何かが見つかりでもしない限り、この穴は永遠に存在を示し続ける。
つい漏れ出そうになる感情を、何度も何度も深呼吸することでなんとか抑えようとするも、段々と震えたような吐息が混じり始めた。
その時、廊下の方から階段を下りてくる一人の足音が響いてくる。
瞬時に震えが止まり、心を占拠していた負の感情が霧散した。
「もう片付け終わったのか?」
ソファから顔だけを覗かせて、リビングの入口の戸から姿を見せた少女へそう尋ねる。
「はい。そんなに量はありませんでしたから」
「そっか。ああそうだ、朝ごはんはもう食べた?」
「はい」
「なら一度出掛けようか。色々と入用だろうし」
俺は特に何事もなかったかのようにソファから立ち上がると、ポケットに財布とスマホが入っていることを確認して玄関へと向かう。
「……何から何まで、本当にありがとうございます」
「いやいいよ。俺が好きでやってることだから」
恭しい声を共に頭を下げる背後の少女に、チラリと視線を送って微笑みかける。
本当にこんなこと、単なる気晴らしに過ぎない。
じめじめとした梅雨特有の、肌に張り付くような感覚に不快感を覚えながら、静かな住宅街を抜けて繁華街へと出た俺たちは、まずはリーズナブルな商品が特徴の洋服屋へと向かった。
年頃の女の子ならば、自分の着る服には人一倍時間をかけたいだろうという配慮のもと、最初に彼女を案内したわけだったのだが、
「これでお願いします」
一切迷う素振りなく、簡素な上下灰色のスウェット三セットを手渡してくる若菜。三セットそれぞれの色を変える工夫すらしないとは流石に予想外だった。
因みに値段は一セット二千円程度である。
「いや、もう少し見て回ってから決めてもいいんじゃないか?」
「いえ大丈夫です。私はほとんど外出できませんし、今の季節はこのワンピースだけあれば十分だと思います」
「いやいやそんなわけないだろ? ここ最近は梅雨だからまだいいけど、もう少ししたら夏になるんだぞ? このワンピースで外に出るのはきつくないのか?」
「外に出なければいいんですよ。日々の買い物は全部お任せしてしまう形となってしまいますが、必ず同伴してもらわないといけないわけですから、結局は同じことですよね」
「いやまあそうなんだけどさ……」
彼女は確かに自由に外に出られない立場にある。
つまり今は貴重な外出の機会というわけだが、この少女は買い物という行為自体を楽しむことすら放棄するというのだろうか。
俺に対する遠慮なのか、それとも買い物自体あまり好きではないのか。今の彼女の頑なな様子からは判断ができない。
「はぁ……。まあ分かったよ。買ってくるからちょっと待っててくれ」
俺は若菜を一人残し、レジへと並ぶ他の買い物たちの列に加わる。
ポケットから財布を取り出し中身を確認すると、はっきりとその存在感を示す数枚の一万円札があまりにも空しく映った。
その後、洋服店を後にした俺たちは、その足で日用品を買いにひとまず薬局へと向かう。人でごった返す通りを、ぶつからないように歩くのは大変だが、俺は脳の半分を、思索を巡らせることに使っていた。
何か会話のネタになるものはないものか。チラチラと隣の少女の様子を窺いながらも、周囲の状況に視線を走らせる。しかしながら、自分の殻に閉じこもったかのような女の子を簡単に懐柔できるような手腕は残念ながら俺にはないようで、パッと思いついた案の悉くを脳内で却下していく。
そもそも、彼女の様子があの別れ際の時とかなり違うというか、今日家に到着してすぐの緊張感に満ちた弱々しさが今は見受けられない。
たった数時間で一体どんな心境の変化があったのか。それを察するには彼女との付き合いがあまりにも薄すぎる。
それでも諦めてはいけない。彼女と共に過ごすと決めた以上、不格好だとしても少しずつ距離を詰めていくことが、今の俺のやるべきことだろうから。
目的の店に到着した俺たちは、まず目についたシャンプー、ボディソープ等の陳列された棚へと足を向けた。
「どれがいい?」
女性用の商品が並ぶ箇所を眺めながら、俺は隣の少女へと尋ねる。
「……普段はどんなものを使われているんですか?」
「え? 俺? 俺はあの青いのだけど……」
「じゃあこれで」
若菜がそう言ってすぐ手に取ったのは、俺が先程指差したシャンプーの詰め替え用として売られている柔らかい入れ物。
「は? いやいや、ちゃんとお前がいつも使ってたやつを選んでくれよ」
俺が普段使いしているものは男物の、それもはっきり言って安物。自分の髪のことなんか微塵も考えずに使っているものだ。年頃の女性に対する配慮など、このシャンプーには込められていないだろう。
「いえ、構いません。汚れさえ落とせればいいんです」
「そんなわけあるか。女子にとって、いやお前にとっても髪は大切なものなんじゃないのか」
彼女の頭部から流れる黒い髪の毛。今時、維持するのを面倒がって切ってしまう人だっていると聞く。しかし彼女がそれをしていないということは、日々努力してきた証のはずなんだ。
「いえ、特には。いっそ今日切ってしまいましょうか」
「……はぁ、却下だ。綺麗な髪を、それ以上傷めつけんな」
カラリと言ってのける少女に、俺は怒りを通り越して呆れていた。
「綺麗……?」
少女は怪訝そうに自身の髪を手で梳くような仕草を見せるも、途中でその手が何かに引っかかったように止まる。
「少なくとも、会ってすぐの頃は綺麗だった」
正直、今の彼女の髪を綺麗だとはお世辞にも言えない。真島に連れていかれてからの生活では、流石に髪の手入れをすることは出来なかったのだろう。
「そう、ですか……」
物憂げな少女の横顔に、俺は少し圧力を込めた声音で問い掛ける。
「お前が普段使ってたやつはどれだ」
「あ、えっと、それ、です」
とある女性用シャンプーを指差した若菜。途切れ途切れのその言葉に、しゅっと苛立ちがしぼみかけるも、
「お前が自分の髪の手入れをしないって言うなら、俺がやるからな」
もう退く気はないという意思を込めてそう告げる。
「え? そ、それって、一緒にお風呂に……?」
「そ、そんなわけないだろ⁉ 風呂から出た後の手入れだよ!」
ぽっと赤みが差した顔を向けてくる若菜を見て、一瞬、あの出会った日のことを思い出して、すぐに振り払う。
「そ、そうですよね……」
「そうだよ」
念を押すように肯定をする。これから同居する異性に対して何か邪な気持ちがあるなんて誤解されては敵わない。
それから、若菜の意見やインターネット上にある情報を取り入れつつ必要なものをぽんぽんとカゴの中へ入れていく。その間、若菜は特に異議を唱えることはせず俺に追従していた。
それにしても、彼女の今日の言動は俺に対する遠慮が起因しているというよりは、少し病的な何かが根底にあるように感じられる。果たして、俺にどうにかできるようなことなのだろうか。流石に不安を覚えずにはいられなかった。
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