第12話 突然の来訪者2

「おせぇ……」


 俺が帰宅してから、かれこれ二時間が経過しようとしていた。しかし未だ律は現れず、俺たちは既に思いつく限りの隠蔽工作を済ませて、テーブルを挟んで椅子に腰を下ろしていた。


 大量の呆れと疑問の中に、僅かな緊張感と安心感を混ぜ込んだような、何とも言えない感覚に襲われ、どちらかが何か言葉を発しても一向に会話に発展しない。


 彼女はどうしてまだ姿を見せないのか。


 そもそもどうして家に来るなんて急に言い出したのか。


 答えなんてこの後すぐにでも分かりそうなことを、ただ沈黙を耐えるためだけに、あれかこれかと考え続ける。


 ピンポーン……


 考え事を断ち切るように、家のチャイムが鳴り響いた。


 やっとかという気持ちと共に、緊張感が増していく。


 しかし確実に律であるとは限らないため、ひとまず椅子から立ち上がってインターホンの画面を確認する。


 そこには、私服を着た律の姿があった。


「隠れて」


「はい」


 短いやり取りの後に、若菜はリビングに隣接する部屋の来客用の布団などをしまってある押し入れの中へ身を滑り込ませる。


 そのことを確認した俺は、満を持して玄関の扉を開け、律と対面した。


「おう」


「うん」


 ぎこちないやり取り。気まずさに耐えられず、俺はつい視線を下げた。


「ん……それ、何?」


 俺が指し示す先には、律の手から提げられた二つのビニール袋。そしてその中には何やら食材が詰まっている。


「あ、これ? カレー作ろうかと思って。……ほら、前もこうして二人で作ったじゃない?」


「……ああ、そうだな。……それ持つよ」


 俺は一瞬、当時のことを思い出しそうになるもすぐに打ち切り、彼女の持った二つのビニール袋を受け取るべく近寄る。


 ほんのりと漂ってくる甘い匂い。これはシャンプーだろうか。まさか、買い物に行っただけでなく風呂にまで入って来たのか。


 こんな時間から、しかも一からカレーを作るとなると、俺たちが食べ始められる頃にはもう八時を過ぎていそうだ。ほんと、せめて連絡くらいはして欲しかった。


「あ、ありがとう……」


 相変わらずの不可解な行動の多さに少々呆れながらも、彼女のビニール袋を受け取る。


「いや、いいよ。ほら上がって」


「あ、うん。お邪魔します……」


 靴を脱ごうと框のあたりにちょこんと腰を下ろす律を横目に、俺は一足早くリビングへと戻るとキッチンの床にビニール袋を置き、中を覗く。


 ジャガイモや人参など、一般的なカレーの具材に、固形ルー、生クリームの乗った二種類のプリンといった少し懐かしいラインナップ。


 俺はひとまずプリンを冷やそうと冷蔵庫を開き、そして硬直した。忘れていた緊張が沸々と湧き上がってくる。完全に失念していた。


 冷蔵庫の中に収納された、昨日大量に買い込んだ食材や調味料たち。若菜が来る以前と今とでは完全に様変わりした冷蔵庫内の光景は、まさにこの家に俺以外の住人が存在する証拠の保管庫といったところだった。


「三澄? どうしたの?」


「っ」


 リビングへと足を踏み入れた律が近寄ってくる。


 いや落ち着け。例えこの光景が見られたところで、誤魔化しようはいくらでもある。


「いや。プリン買ってきてくれたんだな」


「あぁ、うん。後で一緒に食べよ?」


「ああ」


 俺は冷蔵庫を閉じ、律に向き直ると、彼女は既に床に置かれたビニール袋から食材を取り出し、流しに置き始めていた。


 俺はその取り出された食材たちを水洗いしていく。


 全ての食材をビニール袋から出し終えた律は、俺の隣に立って食洗器から取り出したまな板と包丁を使って、食材の下処理を始めようとしていた。


 懐かしい感覚。特に言葉を交わさずとも、着々と準備が進んでいく。


 そんな折、律の手がふと止まる。


「三澄、そういえばまだ制服なんだね。着替える時間くらい——」


 苦笑い気味にこちらを見る律。しかしその表情が、みるみるうちに深刻なものへと変わっていく。


「……女のにおいがする」


「っ!」


 彼女はそのまま俺の方へ顔を近づけ、すんすんと鼻をしきりに鳴らす。


 おい、嘘だろ?


 汗だくで帰ってきてそのままの俺の体臭から若菜のにおいを嗅ぎつけたとでも言うのか。彼女の嗅覚の鋭さに戦慄する。


「やっぱり……。私が来る前、女と会ってたでしょ」


 そう言ってじっと見上げてくる律に、


「……女って、俺に律と美月以外特に仲いい女子がいないことくらい知ってるだろ? っていうか汗臭くないのかよ」


 俺はそう返しながら、一歩二歩と彼女から離れるように後退する。しかし、それに合わせるように踏み出してくる律のせいで、気付けば背後に壁が迫っていた。


 それにしても、律は女の部分をやけに気にしているようだ。もしかしたら反撃の糸口になるのかもしれない。しかし、今は考え事をしているだけの余裕がなかった。


「ううん、あとあのお弁当を作ってくれた誰かさんがいる。あと別に三澄は臭くない」


「いや、そんなわけないだろ。あんま近づいてくるなって」


 律と壁の間からするりと抜け出そうとする俺の腕を、律ががしりと掴んだ。


「誤魔化さないで。あのお弁当、私が来る前まで会ってた女が作ったんでしょ」


 あえて反応しなかった部分を、律は的確に突いてくる。やはり話を逸らすのは難しいか。


「いやいや、あの弁当はほんとに自分で……」


 返答に窮し、一昨日使った嘘を咄嗟にもう一度発してしまう。しかしながら、弁当の件に関してはこれ以外に答えようがなかった。


 あれからいくらか考えたのだが、弁当の事を片付けるには最初から最後まで嘘だらけの作り話をでっちあげないとならず、しかしそうしたところで律に一瞬で看破されるか、後々バレてより痛い目に遭うかのどちらかだろうという結論に至った。


 マジで手強いにもほどがある。


「嘘。三澄、バイト漬けでお弁当なんて作ってる時間ないでしょ?」


 予想通り、この程度の嘘なんて一瞬でバレた。こうなったらもう腹を括るしかない。それによくよく考えてみれば、今日は若菜の話だけをして律には帰ってもらえばいいんだ。わざわざ今日会わなくても、お互いに心の準備を済ませてから実際に顔を合わせてもらえばいい。


 どうしてこんな簡単なことも思いつかなかったんだろう。そう自省をしつつ、まだ取り返しのつく段階であることに安堵する。


 しかし、それでも気は抜けない。この家に吸血鬼と人間のハーフである若菜がいるということを話せば、律からどんな反応が返ってくるか。それに、少なくとも彼女にはいくらかの負担をかけてしまうことになるだろう。


 俺はできる限り慎重に言葉を選び、話した後の精神的なケアもしなくてはならない。


「三澄? どう——」


「なぁ律。一つ、大切な話があるんだ。聞いてくれるか?」


 俺は掴まれた腕をそのままに律に向き直ると、真剣な眼差しを向けた。

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