第10話 新たな日常の始まり3
今日の全ての授業が終了し、友人との談笑を楽しむ者たちや、活力に満ち満ちた表情で部活動へと向かっていく者たちを背に、俺は一人教室を後にする。
下駄箱で靴を履き替え、玄関口に差し掛かったところで、後方から走ってきた女子生徒数人が俺の横を追い抜いていく。
和気藹々とした雰囲気を醸し出す運動着姿の背中を、校舎に隠れて見えなくなるまでぼうっと眺めながら、校門へと向かう道を歩いていると、遠く校庭の方から、運動部のものと思われる声が響いてきた。
そうして校門を抜けた俺は、自宅へと向かう道から外れ、駅近くの繁華街へと歩みを進めていく。
だんだんと人通りが増え、買い物に来た主婦たちや、学校帰りの学生たちで溢れかえる街中。その一角にあるファミリーレストランの裏口の戸を開けて中へと入る。
「おはようございます」
「あ、おはよう佐竹君。今日もよろしくね」
「はい」
何やら作業をしている四十歳前後の男性、店長の今井さんに挨拶と軽い会釈をし、通路を抜けて従業員用の休憩室に足を踏み入れると、既に制服に着替えを済ませた少女が、椅子に座ってスマホを触っていた。
「おはようございます」
ひとまずこちらから挨拶をしておくと、
「ん、おはよう」
と、持っているスマホに視線を落としたまま素っ気ない返事が返ってきた。
いつものことだと、俺は気にすることなく更衣室の戸を開けて、棚の上に置いてある男子使用中の札をドアノブにかけて戸を閉める。
荷物を置き、バイト用の制服に手早く着替えてスマホや財布など貴重品を鍵付きロッカーへと入れて鍵をかけ、ポケットにその鍵をしまう。
更衣室から出た俺は、使用中の札を片付け、相変わらずスマホを触っている1つ上の少女を尻目に事務室へと向かい、そこにあるパソコンにて出勤を済ませると、そのままパントリーへ。
そこでキッチン担当の従業員の人たちに挨拶を済ませ、今日のバイトが始まった。
「お疲れ様でした」
十時ちょうど。俺は自身の作業を切り上げて従業員たちに頭をさげてパントリーを去り、事務室のパソコンにて退勤を忘れず済ませ、素早く帰る支度を整えて裏口から真っ直ぐ自宅へと向かった。
いつもなら目についた本屋などに気まぐれに立ち寄っては、冷やかして帰ろうなんてこともよくあるのだが、今日は全くそんな気にならない。
いつもの帰り道を、足早に抜けていく。
そして、最も親しみのある一軒家の扉の前に立ち、財布に入れておいた鍵を取り出して開錠。戸を開けると、中からトタトタと玄関まで早足で駆けてくる一人の少女の姿があった。
「おかえりなさい」
俺の姿を視界に入れるなり笑顔で告げられたその言葉に、じんわりと身体に染み入るものを感じながら、
「ただいま」
と、つい綻ぶ唇をそのままに、俺は言葉を返した。
「お味の方、どうですか?」
「ん?ああ、美味しいよ」
目の前のハンバーグを箸で切り分けて口へ運ぶ。文句の付け所のない味だった。彼女の作る料理さえあれば、もう気まぐれに外食に行くこともなくなるだろう。余計な出費が抑えられるのはいいことだ。
「ああ、そうだ。今日俺が学校に行ってる間何してた?」
「えっと、掃除、洗濯に私の日用品も含めたお買い物……くらいですかね」
彼女のその発言に、気付けば俺は箸を置いていた。
「……退屈じゃないか? 俺の部屋にある本やら漫画やら読んでくれてもいいし、それに欲しいものがあれば、一応限度は考えて欲しいけど言ってくれれば買ってくるぞ?」
「いえ、そんな。こうして居候させてもらって、日々の生活費も負担してもらっているんですから。それに家事も結構楽しいですよ?」
「ほんとか? ほんとは他にやりたいことがあるとか、ないか?」
こうして言葉にしてみて、俺は何を当然のことを訊いているのかと自分で自分の口を縫い付けてしまいたい衝動に襲われる。
でも多分、彼女は聞かなければ何も言ってくれない。そんな予感から口を動かさずにはいられなかった。
「……じゃあ、一つだけ。私、勉強がしたい、です」
控えめに発されたその言葉に、深く胸を抉られるような心地がした。
「勉強、か。あー、俺の部屋に俺が一年生だった頃に使ってた教科書とかあるから、好きに持って行ってくれ。ただ……」
「ただ?」
「正直、俺に質問とかされてもまずほとんど教えられないんだ。悪いな」
「いえいえそんな! 三澄さんお忙しそうですし、教材を貸して頂けるだけで大丈夫ですよ!」
忙しさが教えられない理由なわけではないんだが、今は本当のことを言わなくてもいいだろう。というか、あまり言いたくない。
「それで、どうして勉強がしたいんだ?」
勉強なんて大多数の学生が忌避するものと言ってもいいものだろう。うちの学校では勉強好きな人間も散見されるが、必要性に駆られなければ他を優先したいと思う人の方が多いように思われる。
そして正直、彼女にその必要性はもうないんじゃなかろうか。この家に縛られて生きる彼女には、勉強したことを活用できるだけの自由がない。それは彼女だって理解していると思っていた。
「……なんていうか、少し怖くて。はは、あまり上手く言えなくてすみません」
少し気恥ずかしそうに渇いた笑い声を上げる若菜。彼女の持つその恐怖には、俺も少し覚えがあるような気がした。
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