第8話 新たな日常の始まり1
けたたましく鳴り響くスマホのアラーム。
もぞりと布団の中から片腕を引き抜いて、騒音の元へと手を伸ばす。
なかなかな抵抗を見せる瞼をそのままに、腕を伸ばしたまま片手でスマホの画面をひたすらいじり続けていると、ようやくアラームが鳴り止んだ。
スマホから手を離し、だらりとベッドの上から腕を垂らす。
そのまま起き上がる決心をするまでに数分の時間を要した後、ベッドからゆっくりと起き上がった。
大きく欠伸をしながら伸びをして固まった筋肉をほぐしてからベッドを降り、のそりのそりと重たい瞼のまま部屋から出て階下へ。
リビングへの扉。そのガラス張りになっている一部分から光が漏れ出していた。
どうやら就寝前に消し忘れていたらしい。今まで気を付けていたのだが、偶には仕方ないか。
そんなことをボーっと考えながら扉を開けた瞬間、ほんのりと漂ってくる香ばしい香りと共に、
「おはようございます」
と鈴の音のような声が耳に届いた。驚き、すぐさま声のした方へ顔を向ける。
「あぁ?」
目に映った光景が一瞬理解できず、間抜けな声が漏れた。
「ふふ、眠そうですね。朝ごはん、できていますよ」
柔らかな笑顔を湛えた、綺麗な長い黒髪を首の後ろ側で一つにまとめた少女の声が再び届く。
昨日購入した何の飾り気もない灰色のスウェットに不思議と温かみを感じて、俺はようやく状況を理解、もとい思い出した。
寝惚けていたとはいえ、昨日行動を共にした相手のことも忘れているなんて流石に失礼だろう。しかしながら、朝こうして誰かが迎えてくれるというのも随分と久しい。
両親と過ごした日々の中でもあまり覚えのないこの光景に、俺ははっきり言って感動していた。
そうしてぼうっと立っている俺の前を、若菜はほわほわと湯気の立つご飯を盛った茶碗を両手でそれぞれ一つずつ持って、
「ほら、冷めてしまいますよ?」
なんてにこやかに言いながら通り過ぎていく。
彼女に続くようにテーブルへ向かうと、テーブルの上には彼女がついさっき置いた白米に加え、味噌汁に焼き魚などいつもと比べて明らかに豪勢な料理が並んでいた。
しかしながら俺の脳裏に浮かんだのは、材料費は一体いくらかかったんだろう、という金銭面に対する不安だった。
「あ、あの……何かまずいことでもありましたか?」
表情に出ていたらしい。不安そうな顔を向けてくる若菜。
「……いや。こんな豪華な朝はなかなかなかったからびっくりしただけ」
「そうですか? ……これで豪華……?」
「いつも朝はそこのシリアルとかで適当に済ませてるからな」
「……あの、今まで普段はどんなものを食べていらしたんですか?」
「あー、出来合いのソースかけただけのパスタとか、レトルトカレーとか、そこらへん。……いただきます」
俺は席に着き、怪訝な表情を浮かべる若菜もそのままに、手を合わせて食事に手を付け始めた。
じわり、と肉汁が染み出てくる魚の切り身を一欠片摘まんで口の中へ運び、咀嚼すると、ほんのりとした塩気と、魚の旨味に舌の上が占拠される。そこですかさず白米を口の中へ追加し、甘味によって全体のバランスが整えられた。いやマジで美味い。
「あ……お味どうですか?」
「ん? 美味しいよ」
口の中に物を入れたまま俺はそう答えた。
「そうですか……。よかったです」
心底安心したように息を吐く若菜。
それからしばらく、皿と箸のぶつかる音や味噌汁を啜る音などだけが静かに響く。
チラリと部屋の掛け時計に視線を送ると、もう既にいつも家を出ている時間を過ぎていた。しかし俺は気にせず食事を続ける。わざわざ用意までしてもらったものを残したくはない。
俺のそんな仕草が見えていたのか、若菜も続くように時計へと視線を送った。
「あの……時間、大丈夫ですか? 今日、学校ありますよね?」
「ああ、大丈夫。二限には間に合うよ」
若菜はコクリと首を傾げて一瞬考える素振りをしたかと思うと、
「ええ⁉ それって遅刻ってことじゃないですか⁉」
と驚いた風に声を上げる。
「そうね」
「そうね、じゃないですよ! 急いでください! ……ほら立って!」
椅子から立ち上がった若菜は、俺の横まで来て腕を引っ張ってくる。
「おお、待った待った、まだ食べてるじゃんか」
「そんなことより、早く学校の準備をしてきてください!」
若菜により強制的に食事を打ち切られ、渋々自室に戻って着替え始める。
どうせもう一時間目の授業には間に合わない。授業の途中から出席するくらいなら、休み時間中の喧噪に紛れながらにしたいのだが、彼女はそれを許してくれそうになかった。
着替えを終えて学校用のリュックを背負い、階下へと降りて隙を付いて食事を再開できないか、リビングの扉から中をこっそり覗いてみる。
「……何してるんですか?」
目の前に立ち塞がる若菜が、呆れたような眼差しで俺を見ていた。
「……」
ゆっくりと元の体勢へと戻る。
なんとなく目を合わせられず、あらぬ方向へ顔を向けながら苦笑いを浮かべて身体を反転させる。
「あっ、ちょっと待ってください!」
そのまま玄関へと向かおうとしていた俺の腕が、後ろから引っ張られた。
「これ、お弁当です。よかったら食べてください」
そうして両手で差し出される、青い布に包まれた長方形の物体。こんなものが家にあったのかと驚きながらも、
「……ありがとう」
と、俺はそれを受け取ると、再び身体を反転させて玄関へと向かう。
靴を履き、玄関扉に手をかけてからチラリと後ろを振り向くと、こちらを見ている若菜の姿が目に入った。
「いってらっしゃい」
彼女の柔らかな微笑みに、何か言いようの知れないものが込み上げてくる。
「……行ってきます」
絞り出すように若菜へ応え、ガチャリとドアを開けて、俺は外へと足を踏み出した。
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