第19話 面影
――恋をしていたのだ。
その気高さに、
高潔なるその精神に、
地獄のような鍛錬の果てに行き着いたその強さに、
剣を持つ後ろ姿の美しさに。
宝石のように蒼く澄んだ瞳も、朱色に染まった頬も、桜色の唇も、その精緻に作り上げられた可愛らしい顔立ちの、そのすべてがロルフを魅了していた。
そうと気づいたのはいつの頃だったか。
『あたしは勝手にやるから、フォローするなら勝手にやって』
『バカ、お前……一人で突っ込んでんじゃねえよ!』
『うるさい! あたしが一番強いんだから、あたしが戦えばいいでしょ!』
最初は本当に、気に食わない嫌な女だった。
いちいち言葉尻に噛みついてきて、嫌味っぽくて、その強さを鼻にかけていて、そのくせ戦闘以外のことはてんでダメで、頭も悪いし、というかバカ。
けれど彼女も、『剣聖』と呼ばれた英雄も、その背中に乗った期待の重さに耐え切れずにもがき苦しむ、一人の少女に過ぎなかった。
『あたしが何とかしなきゃいけないの……! あたしは――剣聖なんだから!』
土砂降りの雨の中。
泣きながらうずくまるノーラに、ロルフはなんと声をかけたのだったか。
『は――お前ごときが、ちょっと褒めそやされたぐらいで調子に乗ってんじゃねえぞ』
『なっ……』
『なーにが剣聖だ。自信過剰なんだよ。お前が思ってるほど、みんなはお前なんかに期待してるわけねえだろ』
『そ、そんなわけ……!』
『ある。いいか、民衆が期待してんのはな、この俺――史上初の白金級の称号を手にした天才冒険者、ロルフ・アウデンリート様だ。剣聖とかいうどこぞのお姫様は、黙って俺に守られてるぐらいでいいんだよ。分かるかなー?』
『あたしより弱いくせに、調子に乗らないでよ!』
『俺はまだ本気を出してないだけだ。見てろ、そのうち覚醒するからな』
『適当なことばっかり言って……!』
『うるせえ。お前は何でもかんでも一人で背負いすぎなんだよ。何のために俺たちが一緒にいると思ってんだ。バカか?』
『え……?』
『……まあ確かに、人々の希望がお前の背に乗ってるのかもしれねえけどな。でも、お前は別に一人で戦ってるわけじゃねえだろうが』
今思えば、激情のままにノーラを煽っているだけだったような気もする。
どうしてあんな言葉で彼女が泣き止んだのか、ロルフにはいまだに分かっていない。
『もっと頼れよ、俺を、俺たちを。これは自慢だが、俺たちだって相当強いぜ? だいたい何でわざわざ四人も集められたと思ってんだ。お前一人じゃ無理だって王様連中も分かってるからだろ。勝手に一人で背負って勝手に精神やられてんじゃねえよ』
『あ、あたしは……でも、あたしは、もうこれ以上、誰も死なせたくないから……! あの悪竜はすごく強いから、あんただって死んじゃうかもしれないのに……!』
『じゃあお前が俺を守れ』
『なっ……』
『その代わりに、俺がお前を守る』
土砂降りの雨の中、ロルフはうずくまるノーラに手を差し伸べる。
彼女は、まるで道に迷った幼い童女のように、おそるおそるロルフを見上げた。
『何だよ、自信ねえのか? 人間最強の剣聖サマじゃなかったのかよ?』
だからロルフは威風堂々と、不敵な笑みを浮かべる。
ノーラを安心させるように。
『……べ、別にそのぐらい簡単だし。あたしは、世界で一番強いんだから!』
彼女はなぜだか顔を赤くして、ロルフの手を取った。
手を引いて、その軽い体を立ち上がらせる。
腰が抜けていたのか、ノーラは体勢を崩してロルフの胸に寄りかかってきた。
『お、おい……ノーラ?』
彼女は鼻先一寸の距離で、柔らかい微笑を浮かべた。
思わずロルフが見惚れてしまうような、儚い笑みを口元に刻んだ。
『――約束、だからね』
守れなかった約束を、今でも夢に見る。
それは、きっと、戒めのようなものなのだろう。
◇
「……ご主人さま」
微睡みの中で、少女の声が聞こえる。
聞いたことのある声だ。
「起きてください、朝になりました」
ロルフは薄く、重い瞼を開いていく。
寝起きだからか、視界がまだぼんやりとしていた。
意識が朦朧としている。いまだロルフは夢と現の最中にいた。
だから、ぼんやりとした銀髪の少女の姿が、記憶の彼方にある幻影と重なった。
その手が、ロルフの顔を覗き込んでいる少女の頬に、そっと伸びる。
「……ご主人さま、寝ぼけてるいるのでしょうか?」
ふっ、と彼女は柔らかな微笑を浮かべた。
「――ノー、ラ……?」
その呟きの直後に、ロルフの意識は完全に覚醒した。
呼んだ少女はもうこの世にはいないのだと、分かっているから。
――分かっていたはずなのに。
「あ……」
どうしてロルフは、その名前を呼んでしまったのだろうか。
ミリアの方を見やると、彼女はひどくショックを受けたように呆然としている。
何と声をかければいいのか、ロルフには分からなかった。
迷った末に、謝罪の言葉を口にする。何に対しての謝罪なのかもわからずに。
「……悪い」
その時、ロルフはミリアの顔を直視できなかった。
ポタリと、水が滴る音が耳に届く。
いや、雨が降っている音には気づいていた。
先ほどから、雨音はずっとなり続けていた。
だから彼女のそれが涙なのかどうか、一瞬気づくのが遅れた。
「ミリア……お前――」
「――ッ!!」
ロルフが何かを言おうとすると、ミリアは耐え切れなくなったかのように、身を翻した。
そうして、駆け出していく。
テントから出て、陣からも抜け出して、森の奥へ奥へと。
咄嗟に、追いかけることができなかった。
這いずるようにテントの外に出ると、やはり雨が降っていた。
ざあざあと、大粒の雨がロルフの体を叩き、濡らしていく。
――いったい、俺は何をしているのだろう。
天は雲に閉ざされ、射し込む光は存在しない。
ロルフはただ空を仰ぐ。
今日はあの日と同じような、土砂降りの雨だった。
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