第20話 リザードマン戦
――自分が何で走っているのか、ミリアには分からなかった。
どうして泣いているのだろう。
どうして、涙が流れているのだろう。
悲しむ理由がどこにあるのかすら、ミリアには分からないというのに。
ずるり、と足が滑った。
土砂降りの雨でぬかるんだ地面を不用意に走った結果だ。
ミリアはそのまま泥を巻き込むように転がり、汚れも気にせずにまた走り出す。
――姉は、強い人だった。優しい人だった。美しい人だった。
住んでいた村を魔物に滅ぼされ、ノーラとミリアは王都に移住した。
そしてノーラは剣の腕を鍛え上げ、王国魔術騎士団への入団試験を受け、合格。
――学んだからだと言っていた。
力がなければ、何も守れないのだと、どこか寂しそうな声音で。
だからあたしがミリアを守ってあげる――と、彼女はそう言っていた。
幼い頃から運動神経が良かったのはミリアも知っていた。
だが、王都に来て、剣の修行を始めてからのノーラの成長速度は、明らかに異常だった。
類い稀なる剣の才覚が、努力を積み重ねる彼女をおそろしい勢いで強くしていく。
やがてノーラは騎士団最強の座を手に入れ、その名を王国中に轟かせた。
――神に愛された者、とノーラはそんな風に呼ばれ、畏怖と尊敬を集めた。
そんな姉はミリアの憧れであり、同時に誇りでもあった。
その評判を決定づけるかのように、ノーラは騎士団の任務で強大な火竜を討伐し、その褒賞として聖剣と呼ばれる王国の秘宝を授けられ、剣聖の名を与えられた。
世界最強の剣士。
完璧にして理想。
そんな風に思われている姉が、ミリアの前では抜けた姿を見せるところも愛らしかった。
そこまで含めて、ミリアにとっては自慢の姉だった。
大好きな姉だった。
だから、
きっと、
――そんな姉と、こんなにも浅ましい自分を同一視されるのが許せなかったのだろう。
体中が泥だらけだった。
顔を上げると、気づけば森を抜けて沼地のような場所になっている。
確か、ここは当初の目的地である――
「――リザードマンの、棲み処……」
ミリアの呟きに呼応するかのように、近くで眠っていたリザードマンが起き上がった。
ミリアという明らかに異分子に、警戒するような眼差しを向ける。
「……っ!」
相対するミリアは、ぬかるむ足に表情を歪めつつも腰を落とした。
ショートソードを鞘から引き抜き、構える。
考えてみれば、野営した場所から真っ直ぐに走ってきたのだ。
当初の目的地に辿り着くのは当然だろう。
そんなことも分からないほど、ミリアは動揺していたのだ。
己の迂闊さに、気が動転していた自分の愚かさに、ミリアは唇を噛み締める。
だが、時すでに遅し。
この沼地は木々が疎らにあるものの、ある程度は開けている。
すでに何体かのリザードマンがミリアに気づき、包囲網を作りつつあった。
――馬鹿な獲物が迷い込んできた。
リザードマンたちの意識は、そんなところだろう。
じりじりと包囲網を縮めてくる。本能に身を任せない程度の知能はあるらしい。
「……やればいいのでしょう」
ぽつりとミリアは呟いた。
もとより、リザードマンの討伐はミリアが受けた依頼だ。
ロルフの手を借りる方がおかしい。
――戦えるはずだ。今の自分なら、倒せるはずだ。
あれだけの強さを誇った姉を上回る怪物を殺さなくてはならないのだ。
この程度の雑魚に、かかずらっている暇はない。
ミリアの闘志に反応したのか、直後にリザードマンのうちの一体が襲い掛かってくる。
周りを囲んでいる他の四体は一瞬反応が遅れている。
ミリアは《強化》を十全に体中へと行きわたらせ、リザードマンの攻撃を回避した。
右手の爪による振り下ろしを、その脇をすり抜けるようにしてかわしていく。
そのまま脚力を一気に強化し、跳躍。
宙で反転して着地した。びちゃ、と嫌な音が鳴り響き、さらに泥まみれになる。
だが、そんなことに構っていられない。
総勢五体のリザードマンは、急に速くなったミリアに対して警戒を強めたようだった。
舐めることなく、咆哮と共に一斉に襲い掛かってくる。
「――はぁっ!」
最初の一体を、ミリアは《魔弾》で吹き飛ばす。
だが威力が足りない。実戦の緊張感に負け、集中力が足りなかったのだ。
最初のリザードマンはたたらを踏む程度でこらえた。
足を止めることには成功したが、当然敵は一人ではない。
ミリアは後退するように跳躍しつつ、苦手な《魔弾》を連続して放つ。
三発撃ち放って、当たったのはたったの一発だった。
残りの二発は威力を強めすぎて制御を誤り、精度が甘くなった。
右と左にそれぞれ逸れたのだ。
だが、右に逸れた方の《魔弾》は同時に下にも逸れていた。
結果として地面のぬかるみに炸裂し、バシャ、と泥水が舞い上がる。
そのおかげで二体のリザードマンの視界が塞がれ、その足が一瞬止まる。
《魔弾》が直撃した一体も後方に吹き飛ばされ、倒れ込んでいた。
だが、まだ死んではいない。立ち上がる気配を見せている。
残りは一体。立ち止まることなく攻めてきた最後のリザードマンは、その鋭い爪を以てミリアの喉元を抉ろうと腕を振り回す。
それをミリアは剣でガードした。ガキィ! と鋭い音が鳴り響く。
だが、
(重……!?)
腕力だけで吹き飛ばされた。
ぶお、と体が振り回される感覚。
平衡感覚を失い、次の瞬間、地面に叩きつけられた。
「ご、は……!?」
肺から一気に息が吐き出され、視界が揺れる。
――これが魔物の膂力。
半人半獣の怪物、リザードマンの力。見た目よりはるかに力を秘めている。
ミリアは甘く見積もって大して《強化》をせずに受けてしまった。それが間違いだ。
だが、まだやれる。
ミリアはむくりと起き上がり、リザードマンたちを見据えた。
すでに一体が近づいてきている。転んでいる隙を見逃さなかったのだろう。
だが、少しだけ遅い。
ミリアは《強化》の度合いを一瞬で調節しつつ、その爪による攻撃を回避する。
ゆらりと右に体を振るようにかわした体勢のまま、剣を思い切り振り上げた。
その首を一撃で断ち切る。鮮血が噴き上がった。
直後に、ミリアの胴に蹴りが炸裂する。
一体に集中しすぎて、他のリザードマンに対処しきれなかった。
その強靭な脚力がミリアの華奢な体を薙ぎ払い、おそるべき勢いで吹き飛ばした。
地面に叩きつけられ、何度も転がる。
尋常ではない激痛が腹部を襲っていた。
直撃する寸前に脇腹を全力で《強化》したが、それでもこの痛みだ。
骨は折れているかどうか分からない。
だが、この痛みはミリアが体験したことのないものだった。
「……ああ」
――お姉ちゃんは、こんな痛みが伴う世界で、いつも戦っていたのか。
ゆらり、とミリアは立ち上がる。
ああ、そうだ。精神的な痛みに比べれば、肉体的な痛みなど屁でもない。
この胸をかきむしるどす黒い憎しみに比べれば、たかだがこの程度の苦痛などに構っている場合ではないのだ。
さらに、リザードマンが襲ってくる。
仲間が一人やられたからか、彼らも死の物狂いといった形相だ。
本気であることは間違いない。
それを見て、その魔物に対して剣を構えながら、ミリアは嗤った。
「あははははは……」
改善する。
改善する。
改善する。
思考回路を、戦術を、魔術を、その都度、修正する。最適化する。
無駄が多い。粗が多い。威力が弱い。手段に乏しい。
どうしてこんな動きしかできないのだと舌打ちをする。
体が理想通りに動かない。だから脳内でのシミュレーションのレベルを下げ、同時に少しでも体を理想に近づくように《強化》の魔術を効率化していく。
なぜだか敵の動きが妙に分かる。
俊敏なはずのリザードマンの動きが、異様に遅く感じた。
ミリアは自分が極限まで集中力が研ぎ澄まされていることを自覚していた。
肩の上部を引き裂かれ、右足に裂傷を負った。
だらだらと血が流れ出る。ミリアの動きが遅いから。
それでも痛みはもう感じなかった。ミリアにはもう、目の前の敵しか見えない。
「あははははははははははははははははははははははははははははははははは――!!」
その哄笑を聞きつけたのか、それとも仲間の悲鳴を聞きつけたのか――気づけばミリアの周囲には五体のリザードマンが倒れていて、それらを囲むように、何十体ものリザードマンが現れていた。
ミリアは知る由もないが、リザードマンの討伐において最も重要なのは、棲み処には直接踏み込まないことである。糧を得るために棲み処から出てきたところを狙うべきなのだ。
もし彼らの領土に堂々と踏み入ったりすれば、それは「侵略」とみなされ、仲間を呼ばれて総攻撃を受ける。そうなれば、たとえ銀級冒険者であろうともリザードマンの大軍を前になす術なく蹂躙されるだろう。
それが定説であり、ロルフが朝になったら教えようと考えていたことだ。
「あは」
絶望的な状況。
物々しい雰囲気を前に、しかしミリアは嗤う。
――魔物を倒している時だけは、この憎しみの火を燃やすことができるから。
それが八つ当たりに過ぎないのだと、本当は、心のどこかで分かっていながら。
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