第25話 Resignation6:佐伯 満夜の悲哀

殴られる。




 そう思った刹那、間一髪で左側へ避けた。

 だが、勢いを制御しきれず、タオルが積んである籠の方へ顔面から突っ込んでしまった。

 鉄製の鈍器が先程立っていた位置の正面にあった鏡に当たったようで、激しくガラスが砕け散った音がし、思わず目を瞑った。

 洗面台周辺に鏡の破片が勢いよく飛び散り、背中に何個か破片が乗っかってきた気がする。


 えー……ちょっと本気すぎるだろ。


 鏡の破片が降り注いでくる事も十分危ないが、鈍器が頭に直撃するかもしれなかった事を考えれば、むしろラッキーと捉えるべきか。

 それにしてもタオルが入っていた籠が、もしも箪笥とかだったら、ある意味自殺に成功していた可能性があるな。

 いやー、惜しかったな。

 流石にそんな間抜けな死に方はしたくないけど。


 振り返ると予想通りの人物が、フライパンを洗面台へ突っ込みながら、肩で息をしていた。

 しかも分厚めの長袖長ズボンを着用し、足元は土足だった。

 自分は鏡の破片によるダメージを受けないように対策しているのだ。


 ははっ、随分とガチな装備をしてるねぇ。

 最初からこうなる事も想定した上で、敢えて大胆な行動を取ってきたって事かな。

 それとも、もうこれしか手段がなかったのか?

 なぁ、何でこんな事をしてきた?






「清二くん」






 犯人の名前を口にすると、鏡に映っていた影ーー清二くんはゆっくりと立ち上がりながら、ニヤッと笑った。

 あら、意外と余裕そうで。


「あれ……驚かないんですね?」


 清二くんは下したフライパンから鏡の破片をパラパラと地面にばら撒きながら、ゆっくりと俺の方へ向きなおした。

 余裕そうに事態を達観しているその態度に、僅かばかり胸糞が悪くなる。

 多分これは、同族嫌悪というやつだ。

 まぁでも、似た者同士だとしたら、別に気を遣う必要もないか。


「まぁ、想定の範囲内だったんで……やえ子さんには内緒にしておきますから、そろそろ本当の事を話してもらえますか?」

「何の話です?」


 相変わらず白々しい奴だな。


「やえ子さんのネックレスを隠したのは、あなたですよね?」


 そう言うと清二くんは大きく表情を崩さないながらも、ほんの僅か、動揺の色を見せた。

 やっぱりね。

 まぁ皮肉にも、それによって事態が好転しちゃったわけだが。


 しかし、すぐさま平静な状態に戻った清二くんは、今度は開き直ったような態度で口角の端だけを上げた。


「なんだ、知ってたんだね」

「そもそも、出張に行ってたっていうのも嘘ですよね」

「そうだよ、びっくりした?」

「いえ、なんとなくそうだろうと思ってました」


 そろそろ俺という邪魔者がうろついて、和葉ちゃんと仲良い"フリ"をしなきゃいけない状況に、痺れを切らす頃合いだろうとは思っていたからな。

 まぁ、根拠があったわけじゃなく、全部勘なんだけど。


「凄いやぁ! もしかして、ネックレスを隠した理由にも気づいてたりするのかな?」

「……ネックレスを隠せば、やえ子さんの怒りが和葉ちゃんに向けられるだろう……ってところですかね」


 いつものように表向きだけ明るい笑顔で変なことを訪ねてくる清二くんへ、答え合わせをする要領で返答した。


「へぇ~本当凄い。全部お見通しなんだね」


 今までの悪事が暴かれていっているにも拘らず、どことなく楽しそうな様子の清二くんは、突如低い声で独り言のようにぼそっと囁いた。



「全部、和葉が悪いんだよ」



 だが、俺と清二くん以外誰もいない屋敷では、そんな小さな囁きも、残酷に響き渡る。

 ちょっと背筋がゾクッとした。

 こういう刺激的な状況は案外嫌いじゃない。

 不謹慎もいいところだが。


「ばあちゃんが追い込まれたのは和葉のせいなのに、そんな中、変な男まで勝手に連れ込んできて……本っ当、いい迷惑」


 清二くんは、俺が柿本家に来た初日の夜、和葉ちゃんの祖母と話をしていた時を彷彿させる話し方で真相を語り始めた。


「だからあの手この手で潰そうとしたんだけど、和葉も、あんたも、のらりくらりと躱してくれちゃってさぁ……!」


 恨みのこもった清二くんの声が脱衣所全体に充満した。

 良いねぇ、やっと清二くんの本性が見られた気がするよ。

 ……真の思惑は、まだ隠し通していそうだけどね。


「和葉から聞いたけど、あんた死にたいんだろ? けど、それって本当?」


 突然、矛先が俺の事情に向けられる。

 残念ながら、お前に語ることは何もない。


「じゃあ俺が"二度"も手を貸してやったのに、一向に死なないのは何で?」


 あぁ、なるほど。やっぱりね。


 つーか、分かってねぇな。

"自殺する"と"殺害される"では意味合いが違うんだよ。


 そうは思いつつも、俺はひたすら無言を貫き通した。

 それにしても清二くん、和葉ちゃんから俺が自殺志願者である事は聞き出しているのに、その動機までは聞いていないんだな。


 ……あ、そうか。俺の自殺の動機はちょっと複雑なんだったわ。

 そりゃあ、説明できないわな。

 何より面倒だし。俺の所為だけど。


 なかなか答えない俺に対し、ハッと嘲笑した清二くんは、フライパンを肩に乗せながら俺に近寄ってきた。

 長身で細身の男性の頭がフライパンと重なっているシルエット姿は、少し滑稽だ。

 そんな事を言ってる場合じゃないけど。


「……あの時、そのまま死んでればよかったんだ。けどあんた、案外しぶといねぇ。そんなんだから自殺も成功しないんだ」


 違う。

 俺の自殺が成功しないのは、あんたの姉ちゃんの所為だ。

 多分、和葉ちゃんが居なければ、俺は死んでいたから。


 そんな反論は口にせず、一つ確信できた事だけを尋ねてみる。


「最初この家に来た時に……俺を殴って気絶させたのも、あなたでしたか」

「ふふっ、そうだよ。あれ? それには気付かなかったの?」


 正直なところ薄々は気付いていた。だけど、



「犯人が誰なのかはどうでもよかったんですよ」



 そう言うと、清二くんは意外そうに目を丸くした。


「俺は、柿本家が円満に暮らせるようになればそれでいいんです」

「は? 何で。それ、あんたに何のメリットがあるわけ?」


 部外者の俺から出た不自然な綺麗事に、案の定清二くんが眉を顰めた。

 ちょっと、説明の仕方を間違えたな。


「和葉ちゃんの日常を平穏なものにしたいんです」

「そんなの無理だよ」


 俺の目的を裏付ける理由をバッサリと切り捨てた清二くんは、笑顔も忘れて吐き捨てた。


「和葉のやった事は、殺人みたいなもんだ。それを許す事なんてできないよね」


 あーそうね。

 まぁフライパンで俺に殴りかかってきている時点で、お前も同じ穴の狢だけどな。

 それにしてもこいつ、この期に及んで、まだ建前で喋るんだな。


「その相手が灯さんだから……の間違いじゃ」

「あんた、本当に凄いや。興味もない癖に、何でそういうのがわかっちゃうの?」


 俺の言葉を遮って、清二くんが笑った。

 乾いた笑い声が、全身を蹂躙した。


「気持ち悪い……」


 続けて清二くんから、また独り言のように発せられた嘲笑交じりの言葉に、幼少期の嫌な思い出が再び甦る。


 あー……また間違えた。

 いつの間にか、少し感情的になっていたのかもしれない。

 やっぱり、似通ってる相手だからといって、思った事を何でもかんでも口にするもんじゃねぇな。


「やっぱり、あんたとは話してても無駄みたいだね」


 そう言いながら清二くんは再びフライパンを構えた。


 不味い。

 重装備フライパン野郎VS丸腰野郎である。

 おいおい、流石に不利すぎないか?

 俺は戦おうなんてつもり全くないんだから、ちょっとぐらいハンデくれよ。


 そう思ったのも束の間、フライパンが振り下ろされる。

 あ、意外と遅い。

 とはいえ、何も家具が置いていない右側へ転がり、間一髪というところでなんとか躱した。

 流石に冷や汗が出てくる。

 振り下ろすのにややタイムラグがあるという事は、あのフライパン相当重いのではないか。

 でもさっき、清二くんはそれを肩に乗せていたよな。

 いや、マジでそんな考察してる場合じゃない!


「っ!」


 二回目、いや三回目のフライパン攻撃が俺を襲う。

 横へ転がって逃げる程度の抵抗しかできない。何故なら俺は今、丸腰だから。

 だから、ハンデぐらい寄越せよ。


 それにしても清二くんの殺意、高すぎるだろ。本当に殺す気だな。

 その殺意は俺に対してだけ向けられているものなのか。

 それとも、和葉ちゃんに対しても同じなのか。


 またフライパンが来る。

 激しく地面に叩き付けられて発生した振動が、床に触れた身体の側面からじんわりと全身へ伝わってきた。


 だけど、もしも和葉ちゃんに対しても同じ殺意を抱いているとしたら、俺が想像していたよりも、更に上を行く家庭環境だな。

 勿論、劣悪という意味でだ。

 というか、こんな時ぐらい黙れ、俺の思考。


「しぶとい……野郎だ!」


 お前もな。

 これ、ここにいても勝機がないな。

 逃げよう。


 佐伯満夜、お前の思考回路が冷静で助かったよ。


 フライパンが再度俺の左腕を軽く掠りながら地面に叩き付けられる。

 擦れた左腕が熱くて痛い。

 だがそんな緊急事態にも関わらず、何故かあまり動揺していない自分の精神状態を利用して立ち上がると、すぐに清二くんのちょうど右脇付近に置いてある腰ぐらいの高さの棚を清二くんの前へ、身体にはギリギリ当たらないよう倒した。

 中から何種類もある細かい粒子の粉末タイプの洗剤がブワッと大量に飛び散り、周囲に砂埃がもくもくと立ち込めた。


「ぐっ……! がっ、ゴホッゴホッ……!」


 清二くんが思わず咳き込んだ隙に、中身を把握しきっていた俺は鼻と口を軽く手で押さえながら脱衣所から素早く抜け出した。

 大事にはしたくないから、外へは逃げない。

 だけど、せめて抵抗手段が欲しい。

 圧倒的に不利な状況から、対等な状況にはもっていきたいところだ。


 まぁでも要は、俺と清二くんが殺されなければそれでいい。


 同じ一階にある台所が目に入った。

 何も考えず台所へ突っ込む。


「…………」


 一先ず、使い慣れた台所の流し台の下部にある戸棚を開くと、包丁が目に飛び込んできた。

 うわ、流石にそれはキツイ。


 じゃあこっちか。

 今度は吊戸棚を開き、それらしき調理器具を手に持った刹那。


「台所に逃げ込んで、何を持ち出すのかと思えば、そんな小さいフライパンでいいんだ? もっといい武器あるでしょ」


 そう言いながら清二くんは、ずけずけと台所へ侵入してきた。

 台所の中央に置いてある机の周囲を周りながら距離を取ると、清二くんのそれよりも一回り小さいフライパンを構えた。

 もちろん、これは妥協の末に選んだ武器だ。

 フライパンがもうこのサイズしかなかったんだよ。


 清二くんは例えばこれとか、と言いながらさっき見かけた包丁を軽率に取り出してきた。

 馬鹿なのかこいつは。

 何の躊躇もなくそんな物騒な物を取り出してくるなんて。

 俺はお前と違って、人殺しになんかなりたくねぇんだよ。


「フライパンで十分だと思ってたけど、しぶといあんたにはやっぱこれが必要かな?」


 そう言って清二くんが包丁の背を人差し指で愛おしそうに撫でた。

 お前も大概気持ち悪いわ。

 というかこれって結局、形勢が不利な事には変わりないんじゃないか?

 何の為に後で掃除するのが面倒な事も厭わず、洗剤を撒き散らしたと思ってるんだ。


「自殺するより殺される方が、楽に死ねると思うよ?」


 清二くんはくるりとこちらに向きなおすと、届きもしない包丁を机向こうの俺の方へ突き出して挑発してきた。

 乗らないけど。


 そんな中ふと、買い物の途中で過去について語っていた和葉ちゃんの顔が浮かんだ。

 その刹那、包丁を構えた清二くんが距離を詰めようとしてきたので我に返り、前へ突き出されたそれを既の所で避けた。

 危ねぇ。


 包丁を振り回す清二くんから、机を囲いながらチェイスし続けるという危機的状況の中、突然和葉ちゃんの顔が浮かんだのは、きっと、和葉ちゃんの祖母も和葉ちゃんに対して、刃物を振り回したことがあると言っていたからだろう。

 さっきからギリギリのところで清二くんの攻撃を躱したり、フライパンで防御したりしているものの、防御の際に身体の節々に当たるフライパンによる痛みや、逃げ続けているという緊張感と蓄積していく疲労が、俺にこの攻防戦はそう長く持たない事を知らしめてくる。

 家の中に味方がいない絶望的な状況の中でも、母親への罪悪感から「仕方ない」と言っていた和葉ちゃんの境遇が、今まさに現実となって自分自身に流れ込んできた。




 ……和葉ちゃん。


 君は今まで、よくこんな環境下で生きてこられたね。

 俺ならとっくに自殺してる。

 君は、やっぱり凄い。凄いよ。



 でも和葉ちゃん。



 これが仕方ないわけないだろ。

 母親にした事なんか関係あるかよ。

 そもそもそれすら、和葉ちゃんが一方的に悪い訳じゃないってのに。




 包丁を振りかぶった清二くんの手から、容赦なく離れたそれが俺の方へ真っ直ぐと飛んできた。

 いや、それは流石に無理。

 反射的に腰を落として目を瞑ったのを最後に、全てがブラックアウトする。







 やがて鳴った鈍い音に反応し、ゆっくりと目を開いた。


 黒い背びれが目に入った。

 眼前がブラックアウトしたのは、血管が破損したことにより血流量が減少したからという理由ではなかったらしい。


「はぁっ……はぁっ……」


 荒く息を吐きながら俺の目の前に立つ人物を、ゆっくりと見上げた。

 人陰の向こう側で、清二くんが小さくも、声を荒らげた。







「邪魔すんじゃねぇよ……父さん」




 俺の目の前に立つ人物__和葉ちゃんのお父さんが、構えていたビジネスバックを下しながら清二くんを睨んだ。

 目線の近くまで下りてきたビジネスバックに包丁が突き刺さっている事が分かった。


 ……助かったのか。


 というか和葉ちゃんのお父さん、仕事は大丈夫なんだろうか。

 何で助けてくれたんだろう。

 最初からずっと、この人は本当に和葉ちゃんの味方だったと認識していいのかな。

 疑って申し訳なかったな。

 この1分も満たない時間で起こった事と整理すべき事……というより、ツッコミどころが多すぎて、頭の中が煩雑化してきているので、とりあえず当たり障りのない言葉だけを発言する事にした。


「……ありがとうございます」


 俺は立ち上がりながら、和葉ちゃんのお父さんに対してだけ聞こえるようにそう囁いた。

 その為、ぼそっとした言い方になってしまったが、なんとか伝わっていたようで、


「大丈夫か?」


 と小声で返答が返ってきた。


「助かりました。ところでどうして……」

「連絡が来たからな」


 どういう意味かと問おうとした刹那、清二くんが「ははははっ」と笑い始めた。


「会社をサボってまで、一体何しに来たんですか?」


 清二くんが憎悪を笑顔に押し込めながら和葉ちゃんのお父さんに問うた。


「お前こそ何をしてるんだ。刃物を投げるなんて」

「何が悪いんですか? これは、ばあちゃんの意思ですよ?」


 "ばあちゃんの意思"か、なるほど。

 そりゃあまた随分と、利己的で都合のいい解釈だな。


 清二くんの突拍子もない発言に、思わず皮肉めいた異論を唱えた。

 心の中でだけど。


「やえ子の意思? どういう意味だ」

「そんな事より、さっきあなた『連絡が来た』と仰いましたよね? 誰から連絡をもらったんです?」


 何なんだ、この噛み合わない二人は。

 さっきから、お互いの質問に全く答える気のない二人に、底知れぬ不安を掻き立てられる。

 清二くんの感情がこれ以上引っ掻き回されなければいいのだが。




「和葉からだ」




 終わった。

 これは清二くん逆上ルート待ったなしだわ。

 ひょっとして和葉ちゃんのお父さんって、悪気なく他人の悪意を引っ掻き回すタイプか?


「……はぁ、やっぱり。もっと早く始末しとくんだったなぁ」


 表情は崩さずとも、低く小さな声から清二くんの苛立ちが容易に読み取れた。

 正気を失った人間を無自覚に煽るなんて、性質が悪い。


「違う」


 和葉ちゃんのお父さんがそう続けた。

 支離滅裂な事を言ってるな。

 命の恩人に対して思うべき言葉じゃないけれど。



「和葉が"やえ子から"話を聞いて連絡してくれたんだ」

「……は?」



 和葉ちゃんのお父さんの言葉に、清二くんの表情から貼り付いていた笑みが消えた。



「ば、ばあちゃんが……和葉に……!?」

「そうだ、だからここに来た」

「う、嘘だッ!!」


 清二くんが先程までのどこか余裕そうな態度から打って変わって、冷や汗をかきながら大声で喚いた。

 清二くんが動揺しているところを"初めて"見た気がする。

 混乱した様子で目を泳がせ、しゃがみこんだ清二くんは、頭を抱え込みながら荒く息を吐いた。


 和葉ちゃんのお父さんが少し心配そうに清二くんの元へ近寄ろうとした瞬間、僅かながら清二くんの挙動が歪んだ事に気付いた。

 思わず和葉ちゃんのお父さんの肩を思いっきり引っ張ると、「うおおっ!?」と叫びながらよろけた和葉ちゃんのお父さんが俺の方へ倒れこんできた。


 あ、力加減を間違えた。


 そうは思ったが時すでに遅し。

 俺は和葉ちゃんのお父さんを支えきれず、二人で尻餅をついた。


 だが和葉ちゃんのお父さんが元々立っていた場所には、清二くんが無造作に放り投げたであろうフライパンがぐわんぐわんと激しい音を立てながら回っていた。

 尻餅程度で済んでラッキーだったな。

 尻餅をつかせた側が言うべきセリフじゃないけど。


「ばあちゃんが……和葉に……? 言うわけない、あり得ない、あり得ない、あり得ない! 絶対に!」


 ふらりと清二くんが立ち上がった。

 今日までこそこそ隠していたであろう狂気が、ついに表立って出てきた。


「だって、和葉は……昔から母さんの言う事を聞けない裏切り者なんだ。それだけでもとんでもないことなのに母さんを殺したんだ。ばあちゃんがそれを許せるわけがない」


 そこまで一気に、自分に言い聞かせるように吐露した後、清二くんは顔を上げて俺達を睨みながら、喚き散らした。



「母さんとばあちゃんが全てなんだ! 母さんとばあちゃんこそ……あの二人が言う事こそが、この世界の絶対だ! だから、和葉は悪党なんだよ……そんで、あんたらもその共犯者さ……! みんな仲良く死ねばいいんだ!」



 はははっ、悪党だって。そんなの慣れっこだけど。

 それに和葉ちゃんの共犯者だなんて、今更何を言ってるって話だ。

 和葉ちゃんの過去を聞いたあの日から、俺はとっくに和葉ちゃんの共犯者なのだから。


 酷く興奮した様子でそう言った清二くんは、目の前の机を引っ掴んだ。

 この直後に起こる出来事なんて、子供でも容易く想像できるだろう。

 慌てて立ち上がった和葉ちゃんのお父さんが、何とか清二くんの真反対から手を伸ばして浮いた机を床に押し戻していた。

 俺はその様子を無様にもしゃがみ込んだまま伺いつつ、清二くんの事を思っていた。


 このマザコン、とんでもねぇ価値観持ってんな。

 ……いつになったら黙ってくれるんだい、俺の思考は。いっそ、清二くんに命でも擲ってみるか。趣味じゃないから却下だけど。


「邪魔すん、なって!!」


 そう叫んだ清二くんはすぐ後ろにある戸棚を開けると、徐に刃物を取り出した。

 和葉ちゃんのお父さんは、慌ててテーブルを迂回して清二くんの方へ近付いた。


「清二、やめろ。そんなことをしても母さんは喜ばない」

「あんたに母さんの何が分かる!!」


 刃物を和葉ちゃんのお父さんに突き出し、清二くんが叫んだ。

 悲鳴にも聞こえるそれが耳から通り抜けたと同時に、全身の力まで奪われたような感覚に見舞われ、立ち上がる事ができなくなった。


 なんで俺は今、泣きそうになっているんだろう。


「家に碌に帰らない、母さんの話も聞かない、母さんの事や子供の事なんて……見てなかっただろ、あんたは」

「っ! 違」

「何が違ぇんだよッ!!」


 清二くんのほんの僅かばかり震えた声が耳に入り、思わず目を見開いた。

 あぁ、なるほどね。

 さっきのアレ、清二くんの感情が流れ込んできていたんだ。


 ある意味、俺が和葉ちゃんのお父さんを疑っていた事も、間違いではなかったのかもしれないな。

 尤も、悪意は0なんだろうけど。


 ……いやぁ、濃いなぁ。

 家庭問題のフルコースなんて、もう飽き飽きだぜ。


「あんたは……僕の事を理解していない……母さんの事も、ばあちゃんの事も。そんなあんたの言う事を、聞く必要なんてない」


 和葉ちゃんの事は勿論だが、清二くんの事も恨み切れなくなりつつある俺は、一体どうしたもんかと思いつつもとりあえず立ち上がり、荒く肩で息をしながら、目の前を睨みつけている清二くんと対峙している和葉ちゃんのお父さんの方へ少し歩み寄った。

 今の俺にできることってなんだろう。

 というよりは、回避したい事を考えるべきか。




「俺にはもう、父さんなんていらない!」




 そう言って清二くんが刃物を振り上げた瞬間、身体が勝手に動いていた。

 和葉ちゃんのお父さんを押しのけて清二くんの目の前へ。

 清二くんの肩を目指して跳びかかるように手を伸ばし、清二くんを少し見上げた。



 刃物が迫る。

 もう目の前だ。

 あ。

 俺の手ががら空きだ。

 フライパン。

 いつの間にか手放していたんだ。

 じゃあ俺、これで死ぬのか?

 自殺、は。

 できない?

 自分は置き去り。

 いつも通り。

 無視か。

 馬鹿が。

 おれは、






 また、自分の人生の選択肢を誤ったか。






「満夜くん!」







 もう笑うしかねぇな。




 真っ赤な血が視界の右端をぼんやりと染め上げた。

 不思議と痛みはなかった。

 その代わり、皮膚の奥まで入り込んだ空気がしみ込んでいく毎に、血肉が乾いていくのを感じた。


 次いで、金属音が脳髄に鈍く響き渡る。

 反響する音を認識した刹那、自分が意識を手放していない事を知った。


 酷くゆっくりと目の前に落ちてきたおぼろげな包丁が、少しずつ輪郭を取り戻していく。

 輪郭がはっきりした後、俺はゆっくりと清二くんの方を見上げた。


 清二くんと目は合わなかった。

 いや、それどころか、清二くんは右を向いていて、顔の表情すら正面から捉える事ができなかった。


 急に右肩がズキズキと痛み出し、思わず左手で痛みを逃がすように擦る。

 傷口から流れ続ける血液が左手にべっとりと付着したと同時に、他の部位からは痛みを感じない事を認識し、ほっと安堵する。

 右肩しか切られていないのかもしれない。


 清二くんが呆然と顔を向けている方向を見やり、少し微笑んだ。

 何とか間に合ったみたいだな。


 台所の入り口に立っている人物に声を掛けようとしたが、



「清二」



 眉を顰め、少し悲しげな和葉ちゃんの祖母の表情や声を認識したと同時に、安堵と切なさが喉元で複雑に絡み合い、簡単に何も言えなくなった。




 視界の中央にあるであろう台所の入り口が塞がれているというこの状況を、理解しきれていない清二くんは、身体をがくがくと震わせながら和葉ちゃんの祖母と"和葉ちゃん"の方を見ていた。

 きっとこの2ショットが実現している事に驚いているのだろう。


 お陰で助かったぜ。

 右肩もそんなに深く切れている訳じゃなさそうだ。

 血は流れてるけど。



「もう、やめなさい」



 その和葉ちゃんの祖母の一言で、清二くんの動きは止まった。

 酷く混乱した様子で、愕然とした表情を浮かべている清二くんはうわ言の様に呟いた。



「なんで……ばあちゃん……」



 小さく震えた声が、静かな台所に響き渡った。

 清二くんにとっては、この世界そのものと言っても過言ではない存在からの不意打ちだろうから、相当キツいだろうな。

 因果応報だけど。


「こいつらの存在が邪魔だったのは……憎んでいたのは……ばあちゃんだろ? ばあちゃんが、望んだからっ……俺は……」


 そんな清二くんの言葉に、和葉ちゃんの祖母はゆっくりと首を横に振った。


「望んでない」

「俺はっ……! ばあちゃんが望むことしかやらない!」

「違うね」

「違わないよ! それ以外は何も考えてない」

「違うと言ってるんだ!」


 和葉ちゃんの祖母が声を荒げた。

 その様子を見た和葉ちゃんは、慌てて和葉ちゃんの祖母の背中に触れて落ち着かせた。

 和葉ちゃんの祖母に拒否反応はない。

 清二くんはさらに大きく目を開いた。

 あまりにも哀しそうなその目が、俺のくだらない妄言を鎮め、次の行動を指し示してくれた。

 和葉ちゃんの祖母の呼吸が少し落ち着いたのを確認してから、痛む右肩を左手で押さえながらゆっくりと立ち上がった。


「清二くんは言いましたよね、俺なら祖母を元に戻してくれるかなって。それが、あなたの本心なんじゃないですか?」

「……っ!」


 そう。ずっと引っかかっていたんだ。


 __「満夜さんなら」

 __「あの祖母を、元に戻してくれるかなってね」


 正直、言われた時はさっぱり意味が分からなかった。

 でも今なら、何となく分かる。

 清二くんはきっと、


「清二……」


 俺が考察する前に、和葉ちゃんが心配そうな表情で清二くんに呼びかけた。

 清二くんはそれに答えず、目を逸らして俯いた。

 俺も急かすような事はしたくなくて、何も言わずに清二くんの方を見つめていた。



「満夜っ! 肩が……!」


 思わず和葉ちゃんの祖母の横から少し台所の内部に入ってきた和葉ちゃんは、俺の肩の負傷に気が付いたのか、慌てて駆け寄ってきた。

 手を振ろうとして、少し持ち上げた左手をすぐに右肩に戻した。

 そういえば今、左手は血塗れなんだったわ。


「大丈夫だよ、これぐらい」

「でも……! 痛かったん、じゃっ」

「……なんで、和葉ちゃんが泣くの」


 そう指摘した途端「うわああん」と泣き出した和葉ちゃんが、俺の両腕をぽかぽかと殴ってきた。振動がズキズキと全身を巡っていく。

 待って、それは今マジで痛いから。


「すまない、俺を庇ったばかりにこんな……」

「……! バカ満夜! こ、むち、ばっか……なんでよ!」


 和葉ちゃんのお父さんの言葉を聞き、支離滅裂になってる和葉ちゃんの涙交じりの怒りが、心配から来ている事は明白だったので、思わずくすっと笑ってしまうと、ますます和葉ちゃんは「バカ」とか「もー」とか言いながら怒り、また軽めのグーパンが俺を襲う。


 あーははっ、痛ってぇなぁ……ふふっ。

 温かな痛みで俺の存在が丸ごと満たされていく。傷口はとんでもなく痛いのに、何故か居心地が良かった。


 しかし、なんでこんなに心配してくれるんだかねぇ。

 こんなの和葉ちゃんが今まで受けてきた傷に比べりゃ浅いもんだろ。


 やがて怒り飽きたのか、今度は俺の右肩を左手の上から摩りながら、手や肩から滴っている血が髪や服等に付くのもかまわず、和葉ちゃんが俺に接近して耳元に口を近づけた。

 そして、


「間に合わなくて、ごめん……」


 と、小さく涙交じりにそう言った。



 数時間前……和葉ちゃんと和葉ちゃんの祖母が二人きりで買い物に行く直前、俺は和葉ちゃんの祖母に一つお願い毎をしていた。

 所謂、"予防線"というやつだ。


「少し、お願いがあります」


 そう舵を切った俺に対し、やや不思議そうな表情を浮かべつつも、言葉の続きを待ってくれている様子の和葉ちゃんの祖母の姿に安堵しつつ、俺は話を続けた。



「もしも清二くんが、僕や和葉ちゃんを襲っているところを見かけたら、止めてくれませんか?」



 そう言うと、和葉ちゃんの祖母は少し驚いた様子で「清二が……?」と聞いた。

 俺はゆっくりと頷いてから


「清二くんは、多分まだ、僕と和葉ちゃんの事を許してくれていないと思うんですよ」


 と言い、困ったような顔で少し微笑みを浮かべて和葉ちゃんの祖母を見た。あ、勿論演技ですよ。


「仮にそうだったとしたら、清二くんを止められるのは、あなたしかいません」


 そう和葉ちゃんの祖母の事を全面的に信頼し、頼りにしているという雰囲気を全力で作った。

 こういう演技だけは上手ぇな、俺。


「恐らく清二くんは、あなたと灯さんの事だけを信じている人です。今、清二くんは、和葉ちゃんに理解を示しているような態度を取ってこそいますが、僕にはどうもそれが嘘くさく見えるのです」


 また少し踏み込んだ内容になるかなと思い、ちらりと和葉ちゃんの祖母の様子を見やったが、和葉ちゃんの祖母は、真剣な面持ちで俺の方を見ていた。

 あれ? 意外と信用してくれてるんだ。嬉しいねぇ。


「考えすぎならいいのですが。なのでもし万が一、そういう現場を見かけたときは、お願いします」




 そう俺が和葉ちゃんの祖母に頼んだ事を和葉ちゃんも話に聞いたからこそ、先に和葉ちゃんのお父さんへ連絡を回してくれていたのだろう。

 まぁそれは逆効果になっちゃった訳だが。

 というかもしも和葉ちゃんが本当にこの話を聞いていたのだとしたら、一つ小さな間違いを犯している。

 これはそもそも、俺や和葉ちゃんの命が万が一危ぶまれた時の為の予防線だったのだ。

 怪我なんかはどうでもいい。


 だから、



「大丈夫、間に合ってるよ」



 俺は和葉ちゃんが言ったのと同じぐらい小さな声でそう告げると、汚れていない右手で和葉ちゃんの頭を撫でた。

 全く、和葉ちゃんは俺の事を、掌握しているのかしていないのかよく分からんな。


 ……っていうか、何やってんだ俺。



 はっと我に返り、清二くんの方を見ると、まだ俯いたまま下唇を噛んでいた。

 流石に、なんか声を掛けた方が良い気がする。


「"元に戻す"っていうのは、灯さんの生前……もっと言うと、あなたと和葉ちゃんが子供の頃のおばあちゃん、で合ってますか?」


 そう言うと清二くんは、下唇を噛んだまま、少し悔しそうな感情を孕んだ泣きそうな顔で俺の方を見た。

 ……図星かな。


「清二……」

「……俺の想いなんて……邪魔なだけ。必要ないんだ。ばあちゃんが望む事さえ叶えば、それでいい……」


 心配そうな和葉ちゃんの祖母の呼びかけに、清二くんがようやく本音を零した。


「俺は、ばあちゃんに笑っててほしい……そのためなら、なんでもするって、母さんに誓ったんだ!」


 そう言った清二くんは、ついに耐え切れず、涙を零した。


「じゃあなんでこんな事したんだ。それで二人が笑顔に」

「本当に、それだけですか?」

「えっ?」


 和葉ちゃんのお父さんが、また善意で余計な事を言う前に慌てて口をはさんだ。

 問いかけられた清二くんよりも和葉ちゃんのお父さんが驚いた反応をしていた。

 まぁ和葉ちゃんのお父さんは何も気付いていなさそうだし、当然の反応だろう。


「……っ」


 当の清二くんは嗚咽を漏らしながら、まだある本音を言い渋っていた。

 というよりは、本心と向き合い切れていないだけかもしれない。


「あなたが望んでることを、言っていいんですよ」

「えっ?」


 清二くんが目から鱗が落ちたような表情でこちらを見た。

 きらきらと流れていく偏見が、誰にも触れられずに床で水溜りを作った。


 本音を言えないのは、それが許されない事だという思い込みがあるからだろう。

 まぁあくまで自分が感じたままに動いた結果、訝しい目で見られたという独自の経験論なんだけど。

 俺はそれ以来、自分の本音を六、七割ぐらいは言わないようにしながら生きている。

 ……中途半端だな。


 清二くんの方に笑いかけた後、和葉ちゃんの祖母の方をちらりと見ると、少し戸惑ったような表情をしていた。


「……ばあちゃんは、和葉の事が嫌いじゃないの?」


 清二くんが、今まで囚われていたと思われる疑問を吐露すると、涙を零しつつも、和葉ちゃんの様に大きな目で、和葉ちゃんの祖母に視線を送った。

 身体から圧し掛かっていた重りが急に落ちたように、ストンと楽になった。


「俺は……っ、母さんが、言ってたんだ。俺を褒める度にいつも和葉と比較して」


 清二くんは途切れ途切れになりながらも、今まで狂気で覆いかぶせて封印していたであろう本音を解放させていた。


「母さんは、あんなにがんばって、和葉に何度も、何度も、言い聞かせてるのに、どうしてそれが聞けないんだろうって」


 清二くんの声は小さくて、かなりたどたどしくはあったが、確かにこの静寂の中で響いていた。

 隣にいた和葉ちゃんが俺の少し前へ、具体的には清二くんの方向へ一歩踏み出した。


「ばあちゃんはいつも、母さんを第一に考えてた。だから、この人は信用できる、俺の味方だって」


 すすり泣く音が聞こえた気がして、和葉ちゃんの祖母の方を見た。

 表情から察するに……もしかして、勘付いてくれたのかな。

 自分の誤りに。


「だからばあちゃんも当然、和葉がにくいんだって! 和葉が、いなくなれば、ばあちゃんは、笑ってくれるって……っ!」

「清二ぃ……!」


 和葉ちゃんの祖母はよぼよぼと、ゆっくりながらも清二くんを呼びかけながら近寄っていく。

 かっこいいなぁ、あやつ、さっきまで刃物を振り回していた男なのに。元同類だから関係ないのかな。


 相も変わらず脳内だけやかましい俺の存在は見なかったことにして、やっと柿本家が本音で語り合える瞬間に立ち会えそうな局面なので、部外者は大人しく黙っておくことにする。

 予定していた自殺を先延ばしにしたり、共犯者になったり、自殺どころか殺害されかけたり、右肩を切られたりとなかなか凄惨な体験だったが、そんな目に遭った甲斐もあったというものだな。


「清二、ごめんねぇ……!」


 和葉ちゃんの祖母が、ぽろぽろと大粒の涙を流しながら清二くんの両手を握った。

 血塗れの人物や犯罪者に対してよく傍若無人に近寄っていけるな。尊敬に値するよ。憧れないけど。


「ばあちゃんは、清二と和葉、どっちも、大事な孫だ」


 細切れだが、重要な単語は全てちりばめられている和葉ちゃんの祖母の言葉に、清二くんが驚いた表情を浮かべた。

 そこに嫌悪が混じっていない事を祈りつつ、次の言葉を待った。


「灯を、想うっあまり、あまり……見てやれなかった……清二、和葉……ごめんね……ごめんねぇ……!」


 和葉ちゃんの祖母は泣き崩れて、孫二人に許しを乞うていた。

 和葉ちゃんは嗚咽を漏らしながら小刻みに揺れる丸い背中にそっと触れ、優しく撫でた。




「清二、ごめんね……」




 次にそう謝罪の言葉をはっきりと述べたのは、和葉ちゃんだった。

 何でだ。

 君に落ち度なんてないだろうに。

 いや、正確にはあるんだけど、お母さんの出来事を差し引いたとしても、お釣りが返ってくるレベルの虐待を受けていたと思う。


「私、清二が怖かった」


 そう言うと、和葉ちゃんは少し涙ぐみながらも、言葉とは反対に、清二くんに真正面から向き合っていた。

 あぁ、そっちの謝罪なんだ。


「ずっとお母さんに傾倒する、清二の事が……お母さんの事からも、清二の事からも、多分、ずっと逃げてた……」


 そう言った和葉ちゃんを、その場にいる誰もが真剣に見つめていた。

 恐らく、この家の誰よりも苦しんできた人が吐露する家族への罪悪感は、重くも優しく、それでいて聞いた者の視界をクリアにするような、そんな力があるように感じられた。


「だけど、そうやって怯えるあまり、お母さんの事も、清二の事も、全然分かろうとしてなかった……! 家族なのに、まともに本音を話せなかった。みんな多分、そんな気持ちがあったから、私たちはバラバラになっちゃったんだ……だから清二は」


 そこで一呼吸置いた和葉ちゃんが、清二くんの目をしっかりと見つめながら、




「本当はずっと、寂しかったんだよね……?」




 そう言った瞬間、清二くんは表情を崩さずに大粒の涙を零した。


 ……はははっ、やっぱりすげぇや。和葉ちゃんは。

 自分の事も家族の事も、ここまで分析できてる和葉ちゃんに対して、俺の出る幕なんか、最初からなかったのかもな。

 いや、きっかけを与える事ぐらいはできたと自惚れてもいいのかな。それならいいんだけど。


 和葉ちゃんのお父さんがゆっくりと近づき、和葉ちゃんの祖母に合わせてしゃがんだ。

 それを合図に、清二くんと和葉ちゃんもしゃがむと、背中を支え合いながらみんな静かに泣き始めた。


 部外者の俺は遠巻きに眺めながら、何とも言い表しがたい達成感で満ち溢れていた。

 ふう……円満解決まであと少し、と。




 修羅場の後始末は大変だと、相場で大体決まっている。


 柿本家の一騒動も例に漏れず、割れた鏡のガラスの破片や倒れた家具の修繕、床にまき散らされた大量の洗剤の処分と買い出し、俺の血等の始末に追われていた。ほぼ、というか全部俺と清二くんの所為だけど。

 まぁでも、全員を味方につけた今となっては、この作業を手伝ってくれるのが和葉ちゃんだけではなかったので、思っていたよりは随分と楽だった。


 一連の騒ぎの後、みんなでリビングへ行き、少し落ち着いた状態で改めて家族全員での話し合いが行われた。


 相変わらず部外者な俺はどうしていたのかというと、全員分の飲み物を戦場もといキッチンからリビングまで手配していた。

 来客時のお茶出しかよというツッコミは入れていない。

 そしてどちらかというと、本来は俺がお茶を出される立場のはずである。まぁ今更いいんだけど。


 話し合いのメインは、和葉ちゃんのお母さんの事と、キッチンでお互いに感情を吐露しきれていなかった清二くんと和葉ちゃんのお父さんの関係についてだった。

 家族間で行われていた話し合いを忠実に再現すると、なかなか時間が掛かる上に会話が成立するのがやっとという人物が約一名(誰なのかは察してほしい)いる為、自分なりに掻い摘んでまとめてみる。



 柿本清二は柿本やえ子と同じかそれ以上に、柿本灯を偏愛していた。



 清二くんが和葉ちゃんの祖母を異常に慕っているのも、和葉ちゃんの祖母が和葉ちゃんのお母さんを溺愛している事を感じ取っていたからであり、彼の行動原理は全てこの二人に起因するものだった。

 清二くんは、和葉ちゃんのお母さんが和葉ちゃんに対して、清二くんとは対照的に厳しすぎる教育を施していた事を当然のように知っていた。

 だが、お母さんの言う事が絶対という歪んだ認識を持つ清二くんは、和葉ちゃんがお母さんから厳しい教育を受けているのは、和葉ちゃん自身に問題があると考えていた。


 そんなある日、柿本和葉によって最愛の母親、柿本灯が(間接的に)殺された。


 この瞬間から清二くんにとって和葉ちゃんは、許されない絶対悪となった。

 さらにこの事件に対し柿本やえ子は、(間接的に)を抜いた独自解釈を施し、柿本和葉への嫌がらせを開始。

 それを見ていた清二くんの頭の中では「母さんを殺した和葉=ばあちゃんの敵」という式が成立。


 和葉ちゃんは清二くんに二重の意味で恨まれることになった訳だ。


 そして、散々疑ってきた和葉ちゃんのお父さんはというと、実はいたって常識人だった。家族への愛は勿論あるし、和葉ちゃんのお母さんとの結婚も恋愛結婚ではあるらしい。

 婿入り婚だが、以前聞いた和葉ちゃんの祖母の話通り、柿本家との関係もいたって良好。

 だが一つ問題点を挙げるとすれば、彼はやや行き過ぎたワーカホリックだった。

 何かと仕事を優先しがちな和葉ちゃんのお父さんは、自然と家を空ける事が多くなり、和葉ちゃんのお母さんや清二くんを少しずつ確実に傷付けていた。

 どことなく俺の知ってる誰かさん家の夫婦関係と似ている。柿本家の場合は離婚ではなく死別だが。


 まぁ話を戻して、和葉ちゃんのお母さんが和葉ちゃんのお父さんと擦れ違っていき、傷付いていた事を知った清二くんの心象は……最早語るまでもない。

 家族とのコミュニケーション不足が、和葉ちゃんのお母さんとの擦れ違いと、清二くんとの関係への亀裂を生んでいたという訳だ。


 和葉ちゃんへの行き過ぎた教育を辞めるように注意しても、和葉ちゃんのお母さんの虐待は止まらなかった。

 だけど和葉ちゃんのお母さんのお咎めを受ける事がなかった清二くんは、逆に和葉ちゃんのお母さんと度が過ぎるほど良好な関係を築き、それで家に殆ど帰れない和葉ちゃんのお父さんは、事態が改善したと勘違いしてしまったらしい。

 まぁ多分、清二くんは器用なタイプなんだろう。少なくとも和葉ちゃんよりは。


 これであっという間に柿本智充&柿本和葉 VS 柿本やえ子&柿本灯&柿本清二という対立関係の完成である。

 ……と、言いたいところだが、これでは和葉ちゃんのお父さんから清二くんへは、何の敵意もないように感じられる。

 それに、器用な清二くんがそれだけで和葉ちゃんのお父さんとの確執をむき出しにするとは思えない。


 そんな疑問が頭を過ぎった時、和葉ちゃんのお父さんが静かに口を開いた。


「灯の死後、少しずつ清二の発言に和葉を貶けなすような内容が混じり始めたことに違和感を感じ始めた。だから清二から事情を聴きだした。だけど、そこで俺と清二の関係はこじれてしまったんだ」

「その当時の話し合いを少し再現しましょうか? ……ごほん、『父さんは、母さんを殺した和葉の味方するんだねぇ……ならもう、あなたとは分かり合えないですね』って感じで実質袂を分かちました!」


 清二くんが、いつか和葉ちゃんが和葉ちゃんのお父さんに対して嘘を吐いた時と同じように、何故か得意げに芝居をぶっこんできた。

 この男、今まで散々暴れ倒してきた癖にノリノリである。

 だが立場を弁わきまえろ、とは言わないよ。俺は立場を弁えているからな。


「今思えば清二とはすれ違ってばかりだった気がする。話し合い以降、何故か清二はずっと俺に対して敬語だし」

「えぇ、まぁ意図的に避けてましたからね」

「……はっきり言うなぁ、お前。全く、誰に似たんだ?」


 ……それは分からんが、何の柵しがらみもない相手に対しては和葉ちゃんも割とこんな感じだし、多分和葉ちゃんのお母さんがハッキリ物事を言うタイプなんだろうと予想する。

 眉を少し訝しそうに中央に寄せる和葉ちゃんのお父さんは、強面系の見た目に反して少し可愛らしさすら感じる気がする。……いや、やっぱり気の所為かも。


 しかしこれで、今まで和葉ちゃんのお父さんに対して感じていた違和感の全てに合点がいった。

 かわいそうな程、善意が裏目に出る人だな。

 お陰で俺もすっかり騙されてたぜ。

 でも、面白い。

 流石はあの和葉ちゃんのお父さんだね。


 そして和葉ちゃんのお父さんは立ち上がると、正面に座っている清二くんの目を真っ直ぐ見つめながら、


「あの時お前とすれ違ってしまったのは、俺の伝え方に問題があったからだ。事情も聴かないまま和葉への悪口やめるよう、一方的に注意してしまった。高圧的になっていただろうし、何より清二の気持ちを無視していた。本当にすまなかった……」


 そう言って、深々と頭を下げた。

 清二くんは今まで見たこともないくらい真剣な顔つきで「顔を上げてください」と言うと、和葉ちゃんのお父さんと同じように立ち上がった。


「無視していたのは俺の方です。俺は、今まで……母さんとばあちゃんさえ幸せなら他はどうでもいいって、本気でそう思ってた。だけど、それは間違いだった」


 そう言った清二くんは、和葉ちゃんの方を一瞥して口角をほんの少しだけ上げた。

 和葉ちゃんが意図を理解できず目を丸くしたのを確認した後、再び和葉ちゃんのお父さんに視線を戻すと、


「姉ちゃんも父さんも、本当は俺の事、ちゃんと気にしてくれてたのに……それを俺が拒んでたんだ」


 そう言って清二くんも、和葉ちゃんのお父さん、そして和葉ちゃんに対して頭を下げた。



「今までいっぱい傷付けて、本当に……ごめんなさい……」



 清二くんはしばらく顔を上げなかった。

 ようやく顔を上げたあと、今度は俺の方を向いて、同じように頭を下げてきた。

 本当に申し訳なさそうに。



 それは演技ではない、本心からの謝罪だった。



 俺も清二くんと同じように少し微笑みながら、軽くお辞儀をした。



 やっと、やっとだ。










 これで、和葉ちゃんが自殺する理由は無くなった。






 さてと。





 せめて、お礼くらいは言っておくべきだったかなぁと思いつつも、夜明け近い静寂の中へ足を踏み出す。

 でも言うタイミングもなかったんだよな。色々と忙しくてね。言い訳だけど。


 だから、




































 黙って消える事を、許してくれ。

 じゃあ、さようなら。





 昨日凄惨な事件(未遂)があったとは思えない程綺麗な東雲が見える最中、俺は和葉ちゃんと出会った始まりの場所に来ていた。

 目の前に広がるのは、自殺スポットである濁流に掛かる木製の橋。


 俺の人生に幕を下ろす時が来たのだ。


 いやー、随分と回り道をしたもんだ。

 あの時にほんのちょっとだけ勇気が出なかったせいで、目の前に飛び込んできた女性、和葉ちゃんを助けてしまったせいで、人生が引き伸ばされてしまった。

 それからもいつも通り選択肢を誤り続け、和葉ちゃんの家庭問題に干渉した。



 俺達はこの間、一見助け合っているように見えて、実は互いの自殺の邪魔をし合っていたのだ。



 ごめんね、俺は何があっても、和葉ちゃんの味方だって言ったけど、それは間違いだった。

 俺の目的が自殺から揺るがない以上、君に確実にできる約束なんて、最初から存在しなかったんだ。


 互いの足を引っ張り合うというゲームは、和葉ちゃんの家族が大団円になった事で決着となる。

 今まで和葉ちゃんには散々敵わないと思わされてきたが、最後の最後で俺が勝ったな。



 さぁ、終幕だ。

 今こそ、栗村さんのどうせ叶わない夢を果たす時。

 視界に広がる遥か遠いがそれでも大きい濁流。

 濁流には薄らと女性の姿が映り、黒のロングヘアがしなやかに靡いていた。




 ……どっちだ。






「満夜っ!」


 眼前の女性が振り返ってこっちを見た。

 思わず目を見開く。

 こんなものはただの妄想だ。

 だが、嫌に声がはっきり聞こえた気がした。


 考えている間に腕を後ろに引かれた。




「なっ……にやってんの、バカ!」

「和葉……ちゃん……?」




 振り返ると実態を持った黒のロングヘアの女性……和葉ちゃんが俺の腕を掴んでいた。

 何で、和葉ちゃんが。目の前に。


 その後ろには着の身着のままといった様子の和葉ちゃんのお父さんが走って近寄ってきているのが見えた。

 サスペンスで最後の方、真犯人が刑事達に追い詰められる瞬間って、こんな心境なのかな。




「ははっ、何で……分かったの」




 俺が今日、自殺するって事。

 まさにサスペンスで使い古されていそうなベタな台詞を口にしながら、和葉ちゃんの方を見つめた。


 全く、何の為に君の家族を頑張って円満解決に持っていったと思ってんだか。

 ……まぁ、和葉ちゃんにとっては関係ない事なんだろうけど。


「部屋の窓から川へ向かおうとする、満夜が見えたっ……あんたは知らなかっただろうけど、家からここまで、実は走れば5分圏内なんだよ」


 俺は耳を疑った。

 何でだ。

 行きはあんなに時間が掛かったのに。

 窓から外を見たときの景色だって、遠い山の麓の方にこの川が見えていた。

 登りと下りの差というだけでは納得できない。だって5分なんて。


「本当は家からこの川まで、簡単に山の麓まで抜けられるようになってる近道があるんだよ。だけど、満夜が黙って自殺しに行かないように、したとしても止められるように、行きは敢えて遠回りをしてたの! もちろん買い物の行き帰りとかも、全部! あたしの疑り深さを、見くびんないでよね!」


 ……何だよそれ。

 もういいじゃん、許してよ。


「和葉ちゃんを取り巻く問題は解決した。全て終わったじゃないか」


 だから今度は俺の番だろ。

 そう言って和葉ちゃんの手を振り払った。

 この世に未練なんてもうない。あってはいけないのだ。


「そんなの関係ない!」

「あるね」

「ないよ!」

「……和葉ちゃんには、もう自殺をする動機はないだろ? けど、俺にはあるんだ」


 俺は吐き捨てるようにそう言うと、和葉ちゃんの方を見たまま少し微笑み、徐に後ろの方へ倒れ込んだ。









「満夜ぁっ!」









 あぁ、そうか。


 最初からこうやって、何も考えずに、勢いよく飛び込めば良かったんだ。

 ごめんね、和葉ちゃん。これで自殺抑止ゲームは俺の勝ちだよ。



 最期に……和葉ちゃんの顔を拝んでから死ねるなんて、贅沢な話だ。








 目を閉じ、浮遊感が全身を走る前に腕を引っ張り上げられた。

 宙吊りになった状態でゆっくりと陸の方を見上げると、和葉ちゃんのお父さんが身を乗り出して俺の腕を掴んでいた。

 その後ろには、お父さんの身体が安定するよう足元を支えている和葉ちゃんの頭もほんの少しだけ見えた。


「……ふ、はははっ、和葉ちゃん、しぶといねぇ」

「このっ、馬鹿! 能天気! 頓珍漢! あんた、死にかけてんの分かってる!?」


 和葉ちゃんが奥の方で怒鳴っているのが分かる。

 恐らく半泣き状態で。

 ははっ、また泣かせてしまった。酷い男だな、俺は。


「分かってるよ。……何で俺のこと、助けたんですか?」


 今度は和葉ちゃんのお父さんの目を見てゆっくりと話した。

 清二くんに殺されかけた時もそうだったが、自殺しようとして止められて、川に飛び込んでも尚止められて、濁流になっている川の上で腕を掴まれているという命からがらの状況にありながら、何で俺はこんなにも平常心なんだろう。

 自分でもよく分からない。


「君は、俺達家族を助けてくれた恩人だ。だから今度は、俺達が君を助ける」

「恩人か……そんな風に思ってくれてるなら、その手を放して頂けると俺は嬉しいのですが」

「ダメだ」


 強く制され、思わず黙ってしまった。

 減らず口なこの俺を黙らせるとはやりますねぇ。もしや、和葉ちゃんのお父さんは手練れなのかな。

 ……うーん、どうも真剣な気持ちになれない。




「和葉が、それを望んでいないんだ」




 だがそんな俺の浮ついた気持ちは、和葉ちゃんのお父さんの言葉とそれに続いて聞こえたぐすっと鼻を鳴らす音により沈静化した。


 鼻を鳴らす音の正体は和葉ちゃんだった。

 半泣きどころか泣きじゃくっていたのか。

 何でそんなに泣くんだよ、らしくない。

 俺が死ぬことの、何がそんなに嫌なんだ。


 ……やめてくれよ。


「満夜くん、烏滸がましいとは分かっているが、もう一つ俺達家族からのお願いを聞いてくれないか?」


 そう言って一息つくと、和葉ちゃんのお父さんは俺の目をまっすぐ見つめて言った。






「生きてくれ」






 渋い顔立ちの和葉ちゃんのお父さんの顔が、ほんの少し優しく緩んだ。

 俺は胸に込み上げてくるものを抑え込むのに必死になり、何も言えなくなった。


「家族の絆を取り戻してくれた君が死んだら、とても悲しい」

「そうだよ!」


 和葉ちゃんも顔を出して俺の方に少し身を乗り出してきた。

 和葉ちゃんの顔は涙にぬれてくしゃくしゃになっていた。

 そんな表情を見ただけで、もう心が折れそうだった。




「みちやっ……! 好きだよ……!」




 和葉ちゃんが泣き叫んだ。


 俺は言い表しがたい罪悪感と充足感に溺れていた。

 どうすればよいのか分からない。

 これは、この感情は、一体なんなんだ。


「自殺の動機なんか捨てちゃいなよ! 私がいるんだから!」


 和葉ちゃんのいつも通り強引な言葉が涙声で響き渡る。

 俺の過去と意思を知った上で尚、こんなにもバッサリと俺の気持ちを無視して踏み込んで来られては堪ったものではない。


 それなのに、決意が揺らいでしまう。

 簡単に、ぐらぐらと。


 勘弁してくれ。






「お願い満夜、私を生きる理由にしてよ……!」






 ……何で和葉ちゃんには、こうも敵わないんだろうか。


 いや、元はと言えば、柿本家の家庭問題が円満に解決したのに、円満に出て行こうとしなかった俺が間違っていたのかもなぁ。

 そうすればもっとひっそりと、一人で死ねたのかもしれないのに。

 ……いや、どちらにせよ和葉ちゃんに見つかっていたのかな。

 そもそも、円満に出ていけるのかどうかすら怪しい。


 ではもしも、円満に出ていくか、或いはこっそりと抜け出した後、他の場所で自殺していたらどうなっていただろうか。

 多分、ちゃんと死ねただろうな。

 そうだ。良く考えてみれば、そもそもここで死ぬ必要なんかないじゃないか。


 俺はそのことに気付かなかったのか。

 いやそれとも、俺が無意識にそれを拒んでいたのか。


 この世に未練などない、あってはいけない。

 そう思っていたが、それは本心ではなく、使命感が作り上げていた虚構の信念だったのかもしれない。



 ……いやいや、何を考えているんだ俺は。

 栗村さんの無念を晴らす。だから自殺するんだ。


 まぁ、そもそもその選択肢が誤っている事は分かっているんだけど。

 そう、誰がそんなこと望んでいるんだよっていう話だ。

 栗村さんからすれば最早誰かも分からない奴に、勝手に想われて勝手に死なれたところで、別にどうということは無いだろうに。


 だけど俺は、栗村さんや果葉子に対して、誤った選択肢を選び続けながら関わってきた。

 その所為で多大な迷惑をかけた。

 自分の人生も多少歪めた。

 恐らく俺が認知していない先でも、間接的な影響があっただろう。


 恐らく栗村さんにとっては、ほとんど何の影響もないだろうが、俺の恋愛が成就する事無く散った原因にはなっているだろう。

 少なくとも、俺の人生にとっては間違いなく間違った行動をとっていた。

 そして、そんな状況にも拘らず、告白を受け入れて交際しまった果葉子には、より大きな影響を与えていると思う。

 彼女の人生は、俺が犯してきた数々の利己的かつ無責任な言動と行動により、大きく歪んでしまったのかもしれない。


 栗村さん、いや、どちらかというと果葉子に対して抱えている重い罪への償いは、この命にも値するだろう。


 和葉ちゃんにはその顛末を話している。

 なのに、何でまだ俺を繋ぎとめようとするんだ。


 それとも、俺の死くらいでは贖罪などできないとでも言いたいのか。







 ……ふふっ、確かにそうかもな。


 あーあ……ひょっとしたら俺はあの時、とんでもない人を助けてしまったのかもしれない。

 助ける相手を間違えた。



 はぁ、本当にどこまでも悲哀に満ちているな、俺の人生ってやつは。


 堪え切れずに流れた涙は、誰にも触れられる事なく川底へ沈んでいく。

 こぼれ落ちていく滴に本能のまま恐怖を感じた瞬間、俺はとっくに諦めている自分自身を嘲笑した。

 また選択肢を誤る時が来たようだ。



「……ごめん、おれは……」



本当は、






「死にたくない……生きていたい……!」






 生きていたい。

 生まれて初めてそう思った。


 別に今まで……栗村さんの想いを汲み取るまでは死にたいと思った事もなかったけれど、逆に生きたいと思った事もなかった。

 何となく人生をやり過ごしてきた。

 もしかして、だから幾度となく選択肢を誤ってきたのだろうか?


 でも、今は強く思う。

 生きたい。生きていたい。

 生きて、俺はこの人を、栗村さんだと思って愛したい。



 栗村さんの時よりも、ずっとずっと。



 ふと頭に水が垂れた。

 はっとして頭上を見ると、和葉ちゃんが今度は嬉しそうに泣いていた。

 何だその顔。色々間違ってるよ。


「みんな、早く来て!! 助けて!!」


 和葉ちゃんが大きな声で叫ぶと、和葉ちゃんの祖母、清二くん、それに見たことも無い近所の人達までもが沢山集まって来た。

 死に切れない俺の無様な姿が大勢の前に晒された。


 こんなに周りに人が沢山いたの?

 つーか何だこの拷問は。

 ……勘弁してよね。


「和葉ちゃん……やめてよ。恥ずかしい」


 いつものように苦笑しながら和葉ちゃんに許しを乞うた。

 すると和葉ちゃんもいつものように勝気な笑顔ですぐさま応戦して来る。


「その恥ずかしい誤ちを犯したのは、どこの誰ですかぁ?」

「……俺だね……ふふっ」


 そう自分の罪を認めた途端、なんだか笑いがこみ上げて来た。

 崖っぷちで、死にかけていて、それでも死ねなくて、そんなどうしようもない姿を大勢の人に目撃されながら。






「はははははっ……あははっ……はははははははははははは……!」






 人を愛する。

 きっとこれは誰もが与えられている権利だ。

 だがその本当の意味を正しく理解している人は、一体どれほどいるのだろう。


 ……現に俺は、今まできっと誤解していた。


 俺は不吉な場所で出会った沢山の人に救われながら、尚も笑っていた。

 陸地に引き上げられ、改めて和葉ちゃんと向き合う。


 和葉ちゃんも笑っていた。

 場違いだなぁと思う。

 でも、そんな君が愛おしくて仕方がない。


 かつて誤った愛し方をした美しい人と、瓜二つで正反対な君に誓う。




「……愛してるよ」




 心の底から柔くも間違いなく、目の前にいる彼女にそう言った。

 柿本和葉にそう言った。



 彼女は栗村夢月ではないけれど、俺は今度こそ、正しい選択をしたんだと思う。



 勝気な和葉ちゃんが、無意識のうちに流したであろう涙が頬を伝っている。

 和葉ちゃんのその涙がこぼれ落ちる前に、指先でそっと触れてみた。

 それはあんまりにも温かくて、堪らなくて。

 堪え切れずに俺も泣いた。


 あぁ、笑ったり泣いたり、本当に忙しいや。




「いや、それは違うでしょ」


 和葉ちゃんがそう訂正した。

 俺はそうだよねと思いながら、段ボールの中からひたすら服やら本やらを引っ張り出している和葉ちゃんの事を見た。


 自殺に失敗した日から数ヶ月後、俺と和葉ちゃんは互いの親に挨拶を交わし、同棲を始める事になった。


 父も母も健在だった。

 両親揃っての挨拶は単純に日が合わず叶わなかったけれど、二人とも元気そうで少し安心した。

 ……ただし、和葉ちゃんと"どこ"で出会ったのかを、正直に話す事は出来なかったけれど。


 ちなみに、俺の選択肢を誤る癖は、未だに治っていない。

 きっとこれは性格とか慣習とかそういった類のものではない。

 べっとりと付着し、長年塗り重ね続けてきた汚れは、とっくに染み込んでしまっていて簡単に取れるものではない。

 いっその事、受け入れてしまった方が早いのだろう。


「つーかどうせ違うって分かってたんでしょ」

「あーそうですねぇ……」


 やれやれ、鋭くなっちゃって。誰に似たんだか。

 でも、君が居るから俺は安心して間違えられるし、正しい道を歩んで行けるんだと確信している。


 引越しの荷物はまだまだある。

 玄関へ残りの段ボールを取るため、立ち上がった和葉ちゃんの後を、気怠い目だけで追った。


 彼女の長い黒髪が目の前で弧を描いて揺れた。

 その姿に、かつての好きな人を思い出す事はもうない。

 その瞬間、心の底から思った。






 死ななくてよかった。生きていてよかった。






「……君がそばに居てくれて、本当によかった」



 和葉ちゃんの背中をゆっくりと追いながら、和葉ちゃんに聴こえないようにぼそっと溢した。

 蚊の鳴くような声で呟いたつもりだったが、どうやら俺はまた誤っていたらしい。




 振り返った和葉ちゃんの真っ赤な顔が、俺の不正解を物語っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

#罪愛シリーズ 混彩カオス @chaosyuya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ