第24話 Resignation5:佐伯 満夜の悲哀


「お待たせしました。ご飯が出来ましたよ」


 いつも通り、食卓に人数分のご飯を和葉ちゃんの祖母、清二くんの順に置いていくと、清二くんが明るい表情で「わぁ! ありがとうございます!」と言ってくれた。

 清二くんはよほど腹を空かせていたのか、テーブルの前に食事を用意するなりがっつこうとした。

 以前、和葉ちゃんに毒見させていた頃には考えられない事態だな。


 だが、もっと考えられないのは、


「こら、清二! まだ私と満夜の用意が出来てないでしょ。もうちょっとだけ待ってて」


 和葉ちゃんが明るい声色で、軽く清二くんに注意できるようになった事だ。


「へへへっごめんごめん、だってお腹空いてたんだもん!」


 清二くんも全く気に留めていない様子で、軽く返していた。

 なんだか別世界にでも来てしまった気分になるな。

 むしろ、これがごく普通の家族としてあるべき光景だが。


 和葉ちゃんのお父さんが、和葉ちゃんの祖母と清二くんに話をしてくれてから二週間が経過した。

 俺達は相変わらず柿本家の家事を熟し続けている。

 役割は以前と何も変わらない。


 変わったのは以前よりも食卓の雰囲気が明るくなった事だ。

 清二くんが和葉ちゃんや俺とも分け隔てなく話すようになってくれた事が大きかった。

 また、和葉ちゃんの今までの境遇や現状に理解を示そうとしてくれるようになった。

 昨日に至っては、和葉ちゃんが清二くんと二人きりで楽しそうに話をしていた。

 いつの間にあんな仲良くなったんだ。


 ……案外、和葉ちゃんのお父さんの話は、清二くんに響いていたって事で良いのかな。

 まぁ、そういう事にしといてやろう……謎の上から目線だな。


 そんな和葉ちゃんのお父さんは、平日はいつも終日帰ってこなかったが、最近では週末には必ず帰ってくるようになっていた。

 和葉ちゃんによると、今まではここまで頻繁に帰ってくる事など殆どなかったらしい。

 それでも日曜日の夕方に慌てて家を飛び出していくあたり、恐らくかなり無理をしつつも家に帰ってきてくれているのだろうと思う。


 一方、和葉ちゃんの祖母は、相変わらず食事中に終始むすっとしたまま、何も喋らなかった。

 食事中に限らず、いつも表情は硬く険しいままで、柔和な顔つきなど見た事がなかった。

 和葉ちゃんとも全く目を合わせようとしない。

 それでも、以前よりは心なしか表情が柔らかくなったように感じる。

 本当に、極僅かながらではあるが。


 今日から四日間、清二くんは出張で家に戻らないらしい。

 和葉ちゃんによると清二くんは営業職で、和葉ちゃんのお父さん程ではないが、1ヶ月に1、2回、3~5日程度、家を空ける事があるようだ。


 清二くんとは逆に、和葉ちゃんのお父さんは明日の夜に帰ってくると言っていた。

 仕事は勿論毎日あるが、しばらくは出張もなく、家から通勤できるらしい。

 こりゃあ、珍しい話だ。


 なんか俺も、少しずつ柿本家のルールを覚えてきたな。

 最早、柿本家に泊めてもらっているというレベルではなく、住んでいると言っても過言ではないかもしれない。


 まぁでも、その内ずらかるつもりではあるけどね。


 今はまだ、柿本家の家庭問題が完全に解決したとは言えないからな。

 和葉ちゃんにとって、自殺を決意する程に辛かった過去を聞いてしまったからには、責任くらい取ってから立ち去らなきゃね。

 なんだかんだで、俺にも最低限度のモラルってやつがあるらしい。


 二週間前までは和葉ちゃんと俺が家で別行動する事は殆どなかったが、最近では和葉ちゃんの人権が家庭内である程度確保されてきたお蔭か、お互いに少し自由時間と言うか、別々で過ごすタイミングも増えた。

 自立ができ始めているという事だろう。良い事だ。


 少しずつ、だが確実に環境は変わってきている。

 後は、和葉ちゃんの祖母をどうにかしないとだな。




 暗闇の中ただひたすら耳を澄ませながら、自分の幼少期思い返していた。


 そう言えば昔から、何かと音に敏感だったのだ。

 幼少期は、遠くの方で聞こえた僅かな物音に一人だけ気が付いて、周りに気持ち悪がられる事も多くあった。

 正直、良い思い出ではない。

 但し、その物音を追う事によって、何かの拍子に壊れた機材や備品にいち早く気付き、大人からは褒められる事もまぁたまにはあった。

 音を追っていくという事は、ある意味真実を追い求める事と同じ行為なのだ。


 だけど、俺は目立つ事が好きではなかった。


 それ故、物音がしても聞こえていない振りをして、真実から敢えて目を逸らすという癖を覚えた。

 小学校中学年ぐらいの頃には、物音を無視するという行為が当たり前のようにできるようになっていた。

 物音を無視する事によって得たものは、正解を知っているのにわざと誤った答えを選んでしまう癖と、学校生活の間限りの無難な友達、そして、怒られる事もなければ褒められる事もない、あってもなくてもどうでもいいような空しくて退屈な日常だった。


 思えばあの頃から、自分の感情や真実を分かっていながら敢えてその逆を選択し続けているのかもしれない。

 ……はははっ、こんなしぶとい悪癖なんて、もう治る気がしねぇな。


 だけど、俺は柿本家に来てからというもの、"無意識に"、しかも器用にも人目を盗みつつ僅かな音を追っていた。

 こんな俺でも、何かが変わってしまったのかな。

 真実を追い求める事が、決して自分の幸せに繋がる訳じゃないのに。

 ましてや、俺がやろうとしている栗村さんの夢を代わりに引き受けて自殺する事とは、何の関係もないのに。


 ……いや、よく考えれば、俺自身の幸せや、自分のやりたい事から遠ざかるような誤った行為を選択し続けているという意味では、いつも通りなのかもしれない。


 説明が長くなったが、現に今も俺は和葉ちゃんと和葉ちゃんの祖母の目を盗んで、和葉ちゃんのお父さんを尾行している。

 現在の時刻は深夜2時過ぎ。


 こんな遅い時間にも拘らず、遠くの部屋で和葉ちゃんのお父さんが電話している声が聞こえたから様子を見にやって来た訳だが、和葉ちゃんのお父さんがいるであろう部屋の近くで声を盗み聞きすること2分後ぐらいで、ようやく自分が今何をしているのかに気付き、性懲りもなく後悔しているところだ。

 なんというデジャヴ。

 学習しろよ、俺。


 まぁでも、ここまで聞いてきて、今更引き下がろうとも思わないけど。

 その時、


「そうか、ならいい」


 和葉ちゃんのお父さんの渋くて低い声がドアの隙間から漏れた。

 発言の一つ一つが意味深な人だな。

 それにしても、未だに電話相手が誰なのか分からない。


「ところで、清二」


 あ、いや、今分かったわ。

 清二くんか。出張中だというのに、こんな夜遅くに父親と電話しているなんて、なんだかかわいそうだな。


 ……あれ?


 和葉ちゃんのお父さんの声が突然小さく、更に低くなった。

 何だ? この居心地の悪さは。

 違和感を覚え、更に部屋に近寄ると、耳を澄ませた。






「……うまくやっているのか?」






 普段よりも更に一際低く、ドスの聞いた声が全身を貫くように感じた。

 うまくやっている? どういうことだ?

 和葉ちゃんのお父さんは、一体何を企んでいるんだ。


 一つ確実に分かるのは、和葉ちゃんのお父さんは、この事態の裏で何か動いているという事だ。


 ……やめろ、違う。

 まだ分からないだろ。

 なのに、具体的な文章で言語化すんじゃねぇ。

 嫌でも真実であろう事を認識してしまうじゃないか。


 あぁ、まずい。

 呼吸が浅くなる。

 また頭痛がし始めた。

 くそ、こんなに部屋に近寄っているのに、言葉がまた認識できなくなる。

 ただただ周波数のような和葉ちゃんのお父さんの声が、ひたすら頭の中を蹂躙していった。


 やめてくれ。

 痛い。

 痛い。

 痛い。

 あぁ。

 やっぱり、音を追ったところで碌なことはない。

 俺はなんでまた、こんなところに来てしまったんだ。

 せめて和葉ちゃんと和葉ちゃんのお父さんの事ぐらいは、純粋に信じさせてくれ。


 真実なんていらないから。

 俺は正義のヒーローじゃない。

 悪者でいい。

 汚れ物でいい。

 どうせ近々死ぬんだから。

 誰に咎められることもなく。

 でもそれでいい。

 それでいいんだよ。

 どうでもいい。

 どうでもいい。

 どうでもいい。

 だから、

 だから、

 だから、

 だから、

 だから、

 だから、

 だから、

 だから、









 だれか、俺を止めてくれ。








「おい」



 はっとして声のする方に振り返ろうとした刹那、目の前に床が見えることに気付いた。

 俺、いつの間にか蹲っていたのか。


 改めて声の主を見やると、和葉ちゃんのお父さんがほんの少しだけ戸惑った様子で俺を見ていた。



 ……あー、はははっ、盗み聞きした事がバレたか。

 終わったな。



 しかし、


「大丈夫か?」


 そう言った和葉ちゃんのお父さんは、無様に横たわる俺に手を貸してくれた。


「凄く汗をかいてるぞ。頭が痛いのか?」


 さらには心配そうな顔をして俺の顔を覗き込んできた。


 嘘だろ。

 なんでだ。

 やめてくれよ。

 頼むから、優しくしないでくれ……。


「……大丈夫です、ありがとうございます」


 俺は自分の心とは裏腹に、和葉ちゃんのお父さんの掌に、自分の掌を添えながら立ち上がった。

 だが、今回ばかりは感情を押し殺せている自信がない。



 ……なんでこんなに優しい人を、疑わなくちゃいけないんだ。




 俺が無意識に音を追いかけたばっかりに、もやもやとした気持ちを抱えながら迎えた翌朝。


 今日も清二くんは出張で不在。

 和葉ちゃんのお父さんは朝食を済ませた後、出勤し、家にはいつも通り俺と和葉ちゃん、それから和葉ちゃんの祖母だけが残っていた。


 本日分の洗濯や掃除が終わり、家事も一段落した俺と和葉ちゃんは縁側で腰かけ、少し休んでいた。

 温かいお茶をゆっくり飲みながら、雑草がなくなって広々とした庭を、二人でぼんやりと眺めた。

 こうしてのんびりするのは、なんだか凄く久しぶりな気がする。

 柿本家にお邪魔する前も、仕事に追われていたり、退職後も、何かと気分的に落ち着かない事が多かったのだ。

 比較的都会で交通量も多いところに住んでいる所為か、家の中にいても外が煩かったから、家の中に静かで落ち着ける空間が存在しなかったのかもしれない。


 ふと、和葉ちゃんの方を見てみると、うららかな日差しが心地よかったのか、和葉ちゃんがウトウトしつつあった。目がほとんど開いていない。

 不意にカクンと項垂れた和葉ちゃんが、前かがみに倒れそうになったので、軽く背中から起こす様に支えた。


「大丈夫?」


 そう言うと、「うーん……」と脱力しきった声を漏らし、虚ろな表情を浮かべている和葉ちゃんは、今にも眠りそうだった。


「寝てきていいよ、今はやることもないし」


 その言葉にコクリと頷いた和葉ちゃんはのそのそと起き上がり、ややふらつきながらも自分の部屋に戻ろうと階段の方へ向かっていった。

 どんだけ眠いんだよ。

 階段から落ちたりしないかと心配になり、着いていこうと後ろを振り返りながら立ち上がり、階段の方へ向かうため、縁側のある部屋から外へ出ると、和葉ちゃんの祖母が仁王立ちしていた。



 ……え、何? びっくりするんだけど。



 あ、いかんいかん。

 流石に予想外の展開だったから、一瞬素に戻っていた。

 というより、完全に油断していた。

 和葉ちゃんの祖母の前では、より人の良い雰囲気を出しておかないとな。


「どうかされましたか?」


 なるべくにこやかな笑顔で声を掛けた。

 内心では、ようやく訪れた和葉ちゃんの平穏を邪魔しないで頂きたい、と思いながら。

 ……あれ? もしかして、俺も大概過保護なのか?


「ないんだよ」

「何がないんですか?」

「和葉はどこだ」


 会話しろよ。


「探しものをしてるんですか?」


 会話にならない和葉ちゃんの祖母に対し、僅かながら沸き立つ苛立ちを鎮めながら、にこやかに尋ねた。

 まぁ昨日ほど取り乱している訳じゃないし、これくらいの取り繕いは余裕だ。


「灯の、大切なネックレスが……ないんだ!!」


 突然和葉ちゃんの祖母が声を荒らげた。

 よかった、漸く会話が成立して。


「和葉が盗んだんだ」


 そう続けた和葉ちゃんの祖母が階段の方へ向かおうとするのを慌てて阻止した。

 なんで決めつけるんだよ。


「まぁまぁ、落ち着いてください。一体、いつから無くなったんですか?」


 和葉ちゃんの祖母は軽く、押さえつけるのは簡単だった。

 和葉ちゃんの祖母はばたばたと暴れながらも、俺の腕の中でもがくだけで精いっぱいのようだった。


「っ! 今朝まではあった! 私は毎朝あれを眺めてるんだ。間違いない」


 毎朝眺めている……か。

 和葉ちゃんの祖母が起床する時間は、俺達が食事を作るようになってからは大体6時半ぐらいだ。

 いつも大体その30~1時間後ぐらいに朝食を食べているから、眺めているとしたらまぁ6時半から7時の間ぐらい、ってところか。


 和葉ちゃんと俺は6時ぐらいに起きて朝食の準備を始めているので、6時半から7時の間は台所にいるのだ。

 寝室から台所までもずっと一緒に行動しているから、アリバイは成立だな。


 だが、証言者が俺である以上、この祖母は納得しないだろう。

 ……というより、そもそもこちらがいくら真実を確かな証拠と共に差し出したところで、説得できる相手ではないだろうな。

 きっと真実よりも、自分の感情と思い込みが正しいという世界観で生きている人だろうから。


 ならば。


「分かりました。そのネックレス、僕が探します」


 そう言うと、和葉ちゃんの祖母は驚いたように口をぽかん、とあけたまま俺を見た。

 よし、今この瞬間、"怒り"を忘れたな?


「今朝、ネックレスをどこで眺めてたんですか?」


 そこにすかさず第二の矢を放った。

 和葉ちゃんの祖母が分かりやすく目を泳がせて戸惑った。

 和葉ちゃんもこれくらい分かりやすければ、俺はここまで振り回されずに済んだんだけどね。


 ……でも、それならそもそもこんな家まで来ていないし、ましてや家庭問題に手を出したりなんかしていないかも。

 人間は、分からない方が面白いんだよ。


「決まっているだろ。灯の部屋だよ」


 どこだよ。

 ……あ、もしかしてアレか。


「灯さんの仏壇が置いてある部屋ですか?」

「そうだ」

「あの部屋のどのあたりに……」

「すぐに探せぇ!!」


 鬼のような形相で睨みながら近寄ってきた。

 ……このババァ、面倒くせぇな。


「分かりました。すぐに探すので、リビングでお待ちください」


 できるだけ冷静かつ笑顔でそう返事をした後、二階へ上がった。

 悪いが、面倒な人間や何かを間違えている人間に対して、それを指摘出来る程、俺は真っ当な人間じゃない。



 二階に上がってきたはいいものの、二階のどこが仏壇の部屋だったのか、正直覚えていなかった。

 あの時は、その仏壇の部屋だけがたまたま開いていたから自然と目が行っただけだからな。

 それにところどころボロボロだった障子も、既に和葉ちゃんと一緒に全部屋張り替えているから、どの部屋も外側からは同じ部屋のように見えるのだ。

 でも、確か和葉ちゃんの部屋の何部屋か手前だった気がする。


 ……いや、まぁ別にどこでもいいか。


 どうせ今この家には和葉ちゃんと和葉ちゃんの祖母と俺しかいないんだし。

 和葉ちゃんの部屋さえ開かなければ、後の部屋は全部屋見ていっても良いだろう。

 そんなことを考えながら、おもむろに階段から一番近い部屋の襖を開けた瞬間、俺は思わず目を見開いた。


 何もなかったのだ。


 だだっ広い十畳程の和室だが、家具も荷物も何もない部屋。

 引っ越してきた直後の部屋のように、全ての畳が丸見えだった。

 そういえば、今までのこの部屋はほとんど入った事がなかったかもしれない。


 ……いや、違う。

 入った事がある。

 それこそ、障子の張り替えの時だ。

 あの時、この部屋はどんな部屋だった?

 思い出せ。思い出せ、俺。

 階段からすぐの和室は、確か、むしろ物が多かったはず。

 服が散らばっていた気がする。

 その服は……男性物だった。


 つまりは清二くんか……和葉ちゃんのお父さんの服、だな。

 何でだ?


 あったはずの物がなくなっている。

 和葉ちゃんが移動させるはずがない。そうだよな?


 だとしたら、他に移動させる可能性があるのは和葉ちゃんの祖母か?

 何か整理をしていて、その時にネックレスを一緒に無くしたとか。

 あり得るな。


 もしくは和葉ちゃんのお父さんが前日に他に場所を移したとかかな。

 ……いや、理由が分からんな。この説はなしだ。

 昨日の出来事を引きずっているのか、和葉ちゃんのお父さんが絡むと、冷静な判断を失っている気がする。


 とにかく、他の場所も見てみるか。

 俺は上腹部を軽く擦りながら、何もない部屋から出た。

 和葉ちゃんの部屋を目指して少し歩き、先ほど何もなかった部屋の隣の部屋の襖を開けた。


 ……ビンゴ。


 その部屋は、さっきの部屋とは逆に荷物や家具が大量にあり、その中には男性物の衣類も大量に散らばっていた。

 衣類の他にも、箱やら箪笥やらがひっくり返されていたり、乱雑に開けっ放しになっていたりと、泥棒が入った後という表現がこれほどまでにしっくりくる事はないと言うほどに荒らされていた。

 部屋を荒らした犯人は、恐らく和葉ちゃんの祖母で間違いないだろう。

 でも、動機は間違っていたかも。

 何か整理をしていて、その時にネックレスを一緒に無くしたのではなく、ネックレスを探す過程で、部屋が荒らされたのだと思う。

 もしやあのババァ、ネックレスを探す過程で、他の部屋にある物も全部この部屋に詰め込んでないだろうな。

 うわぁ、面倒くせぇ。


 ……いや、逆にもしもそうだと仮定すれば、むしろネックレスを探すのはこの部屋だけでもいいという事になるんじゃないか?


 ま、どの道、この部屋にある物達はまた後で片付けなきゃな。

 この量の片付けを一人でやるには流石に骨が折れる。

 和葉ちゃんに助けを求めよう。

 ならば、とりあえず片付けは後だ。

 しかし、和葉ちゃんの祖母が荒らした(疑いがあるというだけだが)部屋を、俺達が片付けるという冷静に考えたら理不尽極まりない行為を、ごく当たり前の事として処理している自分がいるのが悔しい。

 まぁ、間違っていると分かっていながらも行動に移すなんて、それこそ俺にとっては幼少期から継続して行っている当たり前の事だから、今更か。


 俺は一先ず、自分の読みが正しいかを確認する為に部屋を出て、和葉ちゃんの部屋以外の襖を一つ一つ開けていった。

 幸か不幸か、俺の予想通り、仏壇や大きな家具以外の物はどの部屋も綺麗さっぱりなくなっていた。

 なんとなく分かっていた事だが、和葉ちゃんの祖母は冷静さを失うと全てが見えなくなるタイプなんだろうな。

 まぁごちゃごちゃ考えていても仕方がない。

 別に俺一人で片付けなきゃいけない訳じゃないし、いいや。

 俺はそう自分を論しながら、元の部屋に戻ると、乱雑に散らばった衣類や家具を大雑把に分類し、軽く整理しながらネックレスを探す事にした。


 散らばっていた衣類の一つである春物のコートを持ち上げ、部屋の隅に頬り投げた瞬間。

 カシャン、とコートから軽い金属音がなった。


 コートのポケットを探ると、金色の卵形のネックレスが出てきた。

 卵形の部分はまるでコンパクトのように開ける事ができるようで、何の躊躇いもなく開けてみると、中には和葉ちゃんのお母さんと思わしき写真が嵌め込んであった。


 はい、発見。

 あーやべー、どうしよう。全く嬉しくないし、達成感も一切ない。


 多分、こうも自分の予想通りに行き過ぎる事がつまらないんだろうな。

 これが柿本家に来る前の、俺の日常ってやつだった訳だが。




「灯さんのネックレスってこれですか?」


 俺の言いつけを律儀に守り、リビングの椅子に腰かけ、大人しく待機していた和葉ちゃんの祖母の前まで行き、正面からネックレスを差し出した。

 ……意外と、素直に言う事を聞いてくれるもんだな。

 目を見開いた和葉ちゃんの祖母は、すぐさま俺からネックレスを奪い取ると、


「そうだ! これだ!!」


 そう叫んだ後、目をぱちくりしながら、まるで壊れたロボットかのようにコンパクト部分を開けたり閉めたりしていた。


「どこにあったんだ?」

「コートの中に入ってました」


 冷静にそう返すと、前のめりに聞いてきた和葉ちゃんの祖母は、突然黙りこんだ。

 そして、コンパクトを閉めると、それを愛おしそうに抱きしめた。


 そんなに大事かねぇ。なんで失くしたんだか。


 すると不意に和葉ちゃんの祖母が、またコンパクトを開いて中に映る小さな和葉ちゃんのお母さんの顔をまじまじと見た。

 そして、泣いた。


 流石にぎょっとした。

 何か声を掛けたほうがいい気がする。

 だけど、言葉が見つからない。


「灯……」


 そう言ってすすり泣く和葉ちゃんの祖母の姿は、コンビニへ向かう途中に凄惨な過去を語っていた和葉ちゃんと重なった。


 楽にさせてあげたい。

 人って話せば楽になるのかな。

 俺はあまり誰かに話してすっきりしたという経験がないから共感できないけど。


「灯さん……って、どんな方だったんですか?」


 俺は和葉ちゃんが過去を語り終えた後、笑顔になっていた事を思い出しながらそう聞いた。

 初めて、ちゃんと心からこの人の力になりたいと思えたのだ。

 和葉ちゃんの祖母は、目線は和葉ちゃんのお母さんの方を向けたまま、鼻をすすりつつも口を開いてくれた。


「灯は……いつも、礼儀正しくて……本当に、良い子だった……っ!」


 そう言うと和葉ちゃんの祖母は、また目頭を押さえた。

 和葉ちゃんのお父さんから和葉ちゃんのお母さんが和葉ちゃんにしてきた事を聞いても尚、開口一番に「良い子」というフレーズが出てくるんだな。

 間違った事を思っている事は分かっているし、和葉ちゃんには非常に申し訳ないが、この和葉ちゃんの祖母の言動は、正直興味深い。

 どういう思考回路をしているのだろう。


「いつも笑顔で、家のお手伝いも、積極的にやってくれた。テストも、ほぼ毎回満点近くで、何の心配もなかった……っ! 可愛くて、わたしの、いとしい娘……!」


 和葉ちゃんの祖母は、途切れ途切れになりつつも、和葉ちゃんのお母さんの過去を語り始めた。

 鼻を啜りながら、感傷に浸りながら。

 それにしても、和葉ちゃんのお母さんってなかなかに完璧超人だったんだな。


「智充が、婿養子として灯の旦那になって、それで、智充も良い旦那だったから、血は、繋がっていなくても、本当の息子のようで。子供も生まれて、幸せだった。全部、順調だった……」


 和葉ちゃんのお父さん、婿入り婚だったんだな。

 和葉ちゃんの祖母と和葉ちゃんのお父さんの言葉の交わし方があまりにも対等すぎて気付かなかった。

 それぐらい、和葉ちゃんの祖母からみた柿本家は、上手く、平和的に回っていたという事なのだろう。



 ……あれ?


「なのにっ和葉が、和葉がッ……! 全部、全部全部、全部っ! それを壊したんだ!!」


 突如、和葉ちゃんの祖母が声を荒らげ、「わあああ」と泣き始めた。

 和葉ちゃんが取り乱した時と同じように背中を擦ると逆効果になりそうな人物に該当する俺は、何もできない無能な手は下ろしたまま、その場でしゃがんだ。


 俺は和葉ちゃんの祖母を見上げながら、さっきの和葉ちゃんの祖母の言葉の真意をずっと考えていた。


 和葉ちゃんの祖母から見た柿本家は、途中まで上手く回っていた。

 ということはつまり、和葉ちゃんの祖母と和葉ちゃんは、幼少期から今のような関係だったわけではないという事か?


 そうだ。

 確か和葉ちゃんも、和葉ちゃんの祖母の態度が豹変したのは「お母さんが亡くなった日以来」と言っていた。


 ……なんだ、そうか……はははっ。

 この二人の仲を修復することなんて、簡単じゃないか。

 俺としたことが、何で今までこんな単純な事を見逃していたんだろう。


 和葉ちゃんのお父さんに感けている場合じゃなかったわ。


「昔の和葉ちゃんは、どんな子供だったんですか?」


 俺は和葉ちゃんの祖母が少し落ち着いてきたタイミングを見計らって、そう尋ねた。

 和葉ちゃんの祖母は、少し驚いたような表情を見せた。

 俺は、できるだけ優しくにこやかに笑った。任せて、こういう表情は得意だから。


 和葉ちゃんの祖母は少し考えこむと、手元のネックレスのコンパクトを開け、和葉ちゃんのお母さんを見て、目を細めた。


「……灯に、よく、似ていた」


 和葉ちゃんの祖母はぽつり、ぽつりと、思い出すように過去を語ると、顔をさらにくしゃくしゃにしながら再び泣き始めた。

 俺の思いは確信に変わった。




 和葉ちゃんの祖母は泣き疲れたのか、一通り思い出話に花を咲かせた後、自室に引き籠ってしまった。

 暇を持て余した……いや、和葉ちゃんと和葉ちゃんの祖母の仲介役を全うするという使命を背負っている俺は、二階の部屋を片付けるという嫌な仕事を思い出しつつ、和葉ちゃんの部屋の襖をゆっくりと開けた。

 すると、和葉ちゃんはちょうど布団からゆっくりと起き上がるところだった。


「あ、ごめん。起こしちゃったかな」

「いいよ。どのみちそろそろ起きたほうがいいでしょ」


 お昼ご飯も作らなきゃいけないし、と言いながら和葉ちゃんは両腕を高く伸ばし、大きく欠伸をした。

 よく眠れたようで何より。


 だけどごめん。

 今からちょっとだけ負荷を掛けるね。


 そう心の中で謝罪をした後、俺は小さく息を吸い込んでから覚悟を決めた。


「ねぇ、和葉ちゃん」

「ん?」

「おばあちゃんと、二人で話し合ってみない?」


 そう言うと、普段俺の予想を尽く裏切り続ける和葉ちゃんも、流石に想定通り大きく目を見開いて驚いていた。


「えっおばあちゃんと……私だけで?」


 戸惑う和葉ちゃんに、俺は優しく宥めるような気持ちでアイコンタクトを送った。


「でも……」


 そう言って和葉ちゃんは視線を逸らすと、自信なげに俯いた。



 ……あれ? 

 和葉ちゃんって、こんな表情をする人だったっけ?


 言葉に表したくない感情が胸の奥底で沸き立つ。

 何度目か分からないそれを上塗りするように、言葉を紡いだ。


「おばあちゃんに和葉ちゃんの事を、少しだけ話してみたんだ。和葉ちゃんのおばあちゃん、何も知らなかったみたいで、びっくりしてたよ」



 そう。

 先程、和葉ちゃんの祖母に幼少期の和葉ちゃんの様子を聞いた後、


「……灯に、よく、似ていた」


 そう言った和葉ちゃんの祖母は、ぼろぼろ涙を零しながら、少しずつ和葉ちゃんへの愛を思い出していた。


「灯によく似て、礼儀正しくて、いつも笑顔で……手伝いとかも、自分から、進んでしてくれる……そんな……子だった……」


 遠くを見つめながら、独り言のように呟いていく和葉ちゃんの祖母を見ていると、少しいたたまれない気持ちになった。

 和葉ちゃんの祖母に悪気はないのだ。


でも、悪気がないからこそ、罪深い。


「あんなに可愛かったのに……いったい、いつから……」


 そういうと、和葉ちゃんの祖母は深い溜め息を吐いた。

 ……今なら、少しは和葉ちゃんの気持ちを伝えても良いかもしれない。


「和葉ちゃんは、小さい頃からずっと母親の顔色を気にしていたと言っていました」


 そう言うと、和葉ちゃんの祖母は涙を拭おうともせずにこちらを見た。

 少しだけ俺を睨んでいるようにも見えた為、神経を逆なでしないようにだけ気を付けて、話を続けた。


「和葉ちゃんが礼儀正しく、いつも笑顔だったのは、和葉ちゃんのお母さんがいつもしっかりと和葉ちゃんの事を見ていて、きちんと躾をしていたからでしょう。それはとても素晴らしい事です」


 そう言うと、和葉ちゃんの祖母はまじまじと俺の方を見た。

 ちゃんと話を聴く体制が整ったようなので、ちょっと厳しいことも言わせてもらおう。


「でも、灯さんが和葉ちゃんに対して行った間違った事をした時の罰は、子供にとっては重いものだったんじゃないかと思います」


 ……流石に、ちょっと踏み込みすぎたかな。

 そう思って和葉ちゃんの祖母の方を見たが、少し傷ついたような反応はしているものの、素直に話を聴く態度は崩していない様子だった。良かった。


「いつも注意をされ、テストを破かれたり、玩具を捨てられたり、そんなことを繰り返しているうちに、和葉ちゃんはお母さんの顔色ばかり窺うようになっていったみたいです」


 そう続けると、和葉ちゃんの祖母ははっとしたような顔をした。


「和葉ちゃんは灯さんの事が嫌いだった訳じゃありません。むしろお母さんの期待に応えようと常に頑張っていたんです。だけどその一方で、和葉ちゃんのお母さんの態度から、母親の期待に応えらていないと思い、和葉ちゃんの心は傷つき、苦しみ続けていたんです」


 俺は逐一和葉ちゃんの祖母を観察しながら、できるだけ柔らかい言い方になるよう努めた。


 今がチャンスだ。

 しくじるな、俺。

 普段どれだけ誤り倒していたとしても、せめてここだけは。

 ここで一歩でも間違えば、和葉ちゃんの祖母は永久に和葉ちゃんを理解できないかもしれないのだから。


「灯さんはきっと、子供の為を思ってやっていたのだと思います。でも」


 そこで一呼吸を置いた。

 多少の危険を冒してでも、和葉ちゃんの祖母には気付いてもらいたい事があるのだ。



「親が子供に構いすぎると、子供は自分の人生を歩めなくなるんです」



 あなたの子供である、"柿本灯"でそうであったようにね。





「和葉ちゃんのお母さんのネックレスは、昔和葉ちゃんが、清二くんと和葉ちゃんのおばあちゃんと一緒に買いに行ったんだろ?」


 俺は和葉ちゃんの祖母がネックレスを眺めながら語っていた内容を思い出しつつ、そう言った。

 和葉ちゃんは驚いた表情でこちらを見た後、静かに頷いた。


「おばあちゃんも和葉ちゃんの事を、最初から嫌いだった訳じゃない。和葉ちゃんとお母さんの立場が逆転してから想いが変わったんだ」


 そう。和葉ちゃんの祖母にとって、和葉ちゃんはこの世で何よりも大切な愛娘が産んだ子供なのだ。

 それを愛せないはずがない。


「和葉ちゃんのおばあちゃんは、その事をすごく喜んでた」


 そう言うと、和葉ちゃんは驚いたように俺を見た。

 俺はかつて和葉ちゃんに嘘を吐いた事があるが、こればかりは本当だ。


「和葉ちゃんがお母さんに当たってしまったのにはちゃんとした事情がある。それに和葉ちゃんだって、お母さんの事を完全に憎んでいるわけじゃない。自分がしてしまった事への後悔の念も強い。そうだろう?」


 和葉ちゃんはやや眉を下げたまま、俺の目をじっと見つめた。

 俺は少し微笑んでから話を続けた。


「おばあちゃんは和葉ちゃんの事を、少し誤解していただけなんだ。でも今は、それが少し薄らいでいる。別に今日じゃなくてもいい。和葉ちゃんが話せそうだなと思うタイミングでいいんだ」


 そう言い切ると、和葉ちゃんが目を大きく開き、やや明るい表情を見せてくれた。

 だけど、まだちょっと不安そうだな。

 何と声を掛けるのが正解だろう。

 家族の中で孤立していた和葉ちゃんに対して、俺ができる事はなんだ。


 ……そうだ。


「大丈夫。俺は何があっても、和葉ちゃんの味方だよ」

「満夜……」


 俺は確実にできるであろう約束を、和葉ちゃんとした。

 じっと俺の目を見つめてくる和葉ちゃんに、頷いて答えてみせる。


「しょうがないなぁ」


 少し間が開いた後、和葉ちゃんはそう言うと、


「満夜がそこまで言うなら、頑張ってみる」


 と、力強く答えてくれた。

 よかった、と胸を撫で下ろした刹那。



「満夜、ありがとう」



 そう言ってふっと笑った和葉ちゃんの表情が、柔く俺に向けられた。

 いつもの彼女らしくない、優しく、儚げな表情でありながらもネガティブな感情は存在せず、その笑顔には心の底からの感謝と決意を新たにしたといった想いを確かに感じた。

 その表情は、あまりにも嬉しそうだった。


 穏やかな気持ちで、いつまでも見ていられると、そう思ってしまうぐらいには。


 俺はどこかで安心していた。

 さっきから俺にしては珍しく、全部正解を選んでいってるな。

 いつもこの調子ならいいのに、なんて事を、別に本気で思ってもいない癖に他人事のように脳裏に浮かべ、俺はまた現実から目を逸らした。




 ネックレス探しや和葉ちゃんと和葉ちゃんの祖母が引き籠っていた事もあり(まぁ、どの出来事にも俺が大いに絡んでいる訳だが)、少し遅めの昼食となった。

 いつも通り昼食を運び終え、席に着いた時、不意に和葉ちゃんの祖母の首元から金色の光が小さく見えた。

 思わず顔を上げると、和葉ちゃんの祖母が先程見つけた金色のネックレスを身に付けていた。


 失くすぐらいならそうしておいた方が良いだろうな。

 というか、これは願ってもないチャンスかもしれない。


「そのネックレス、付けたんですね」


 面倒くさいと思う気持ちをほんの少しの勇気で塗り潰しながら、和葉ちゃんの祖母に尋ねた。

 和葉ちゃんの祖母は驚いたように顔を上げると、やはり分かりやすく戸惑ったような表情をしていた。

 和葉ちゃんも俺の方を凝視している事になんとなく気付きつつも、気付かない振りをして、先程同様、和葉ちゃんの祖母に向かってにこやかに微笑んだ。

 ……和葉ちゃんには、笑顔に溶かし込んだ白々しさがバレている気がして、一つ小さな黒歴史を作ってしまった気分だ。


「……悪いか?」

「いえ、似合ってます」


 素直に受け入れられない様子の和葉ちゃんの祖母は、俺の反射的な答えに、面食らったような表情になった。



「……懐かしいな」



 そう小さく、だが確実に呟かれた言葉に驚き、思わず声の主である隣を見た。

 和葉ちゃんは和葉ちゃんの祖母の方へ遠慮がちに微笑みながら、さらに言葉を続けた。


「昔、一緒に買いに行ったんですよね」


 そんな和葉ちゃんの言葉に、和葉ちゃんの祖母は目を丸くした。


「覚えて……いたんだな」

「もちろん。お母さん、凄く喜んでくれて……私も……嬉しかった」

「和葉……」


 和葉ちゃんの祖母は、先程思い出話をしていた時と同じように目を細め、静かに泣いた。


「買い物に行ってる時、確か、あたしが迷子になっちゃって、泣いているところを、おばあちゃんが見つけてくれましたよね」

「……あぁ」

「ほっとしたのを未だに覚えています。あの時は、ありがとうございました」


 和葉ちゃんは、声が少し震えていたものの、気丈にも和葉ちゃんの祖母へ感謝を述べていて、なんだか少しカッコよかった。



「ネックレス……」



 すると突然、和葉ちゃんの祖母が記憶の欠片を取り戻したかのように呟いた。


「和葉が……選んでくれた」

「っ!」


 和葉ちゃんの祖母がそう言うと、和葉ちゃんは思わず少し涙を零しながら頷いた。


「……それで、灯が、喜んでくれた……だから」


 そう言うと、和葉ちゃんの祖母は目頭を押さえてから、和葉ちゃんの目を見ながら



「ありがとう」



 と言った。


 和葉ちゃんは思わず涙を零し、和葉ちゃんの祖母に笑いかけた。

 小さな声ではあるが、今までにない快挙である。


 和葉ちゃんの祖母と和葉ちゃんの間で、会話が成立している。

 当たり前の事が当たり前でない家族において、この進歩はかなり大きい。

 泣けてくるぜ。泣いてないけど。


 そもそも、今まで人の目を全く見なかった和葉ちゃんの祖母が目を見て話をするようになった事にすら、いちいち感動を覚えてしまう。

 だがそれだけに留まらず、和葉ちゃんの祖母は昼食を食べ終えると、いつもはそそくさと出ていくにも関わらず、今日はなんと自分の分の食べ終えた食器を自ら進んでキッチンまで運んでくれたのだ。

 おぉ、すげぇな。

 まさか今日ネックレスがなくなった事から、ここまで家族関係が改善するとはねぇ。


 和葉ちゃんと和葉ちゃんの祖母は、この時を境に少しずつ和やかな会話をするようになった。

 その日の夕食、翌朝の朝食、昼食も、今までとは比べ物にならないほど、穏やかに進んでいった。

 これでようやく、食卓が少しは気の休まる時間になっただろうか。



 ……そろそろ大丈夫だろう。


 さてと。

 和葉ちゃんと、和葉ちゃんの祖母の誤解を完全に解く為に、もう一仕事させてもらいますかね。


 俺はあの日以降毎回キッチンまで律儀にお皿を運んでくれている和葉ちゃんの祖母を、自分も皿を持ちながら早歩きで追いかけ、横に並んだ。

 特に拒絶反応もないようなので、そのまま会話を試みた。


「お皿、いつも運んでくれてありがとうございます」

「自分の分だから」


 そう言った和葉ちゃんの祖母は、今までの態度からは想像できない程、穏やかに笑っていた。

 どことなく和葉ちゃんの笑い方に似ている気がする。


「……もし可能であれば、でいいのですが」


 俺がそう口火を切ると、和葉ちゃんの祖母はゆっくりと俺の方を見やった。

 一応、願掛けをするような気持ちで予防線も張っておくか。


「少し、お願いがあります」






 和葉ちゃんと和葉ちゃんの祖母の二人が夕食の買い出しに行ったことにより、柿本家に何故か部外者の俺だけが孤立するという奇妙な事態が発生した。

 いや、そう仕向けたのは俺だけど。


 しかし、和葉ちゃんの祖母が和葉ちゃんとの共同作業を承諾してくれたのは大きいな。

 大分ハードルを下げたとは言えども、正直、二人きりという状況をセッティングできるかどうかは、ある意味賭けのようなものだった。

 和葉ちゃんを説得しておいて、二人きりの状況を作れないようでは顔が立たない。


 よしよし。大方事態は好転しているようだな。


 窓の外を覗くと、日が少し傾き始めてきていた。

 もう夕方頃か。


 さて、和葉ちゃんと和葉ちゃんの祖母が買い物に行ってる間に、洗濯物を取り込んでおくかね。

 洗濯籠は確か、洗濯機の近くにあったはずだ。

 俺は足取り軽く脱衣所へと向かった。


 何気に一人で柿本家の洗濯物を取り込む作業は、初めてかもしれない。

 まぁもう作業自体は手慣れたもんだし、不安はない。


 不安はないが、心配事ならあるかもしれない。

 和葉ちゃんと和葉ちゃんの祖母は、うまく話ができているだろうか。

 だが、そもそも二人きりでの買い物が成立している時点で、以前に比べればかなりの進歩だ。

 ほんの少しずつ、お互いに誤解の解けた今の二人なら大丈夫だろうと思ってセッティングした事だし、勝算はあると思っている。


 だが、今回の話し合いは大きなターニングポイントとなる可能性がある。


 上手くいかなかったら、また全てが振り出しに戻る。

 いや、振り出しに戻るだけならいいが、和葉ちゃんの祖母が万が一、錯乱でもしようものなら、最悪の場合は和葉ちゃんや俺の命にも係わるかもしれない。

 全く、なんでこんな頻繁に命のやり取りめいた事ばかりしなきゃならないんだか。自業自得だけど。


 まぁ、その一方で上手くいった場合は、和葉ちゃんが自殺する理由もなくなりそうだし、俺もそろそろお役御免かな?

 そんなことを考えながら洗面台のすぐ前に置いてある洗濯籠を取ろうとした刹那。



 背後に気配。

 正確には洗面台に設置してある鏡に影が映った。

 いや、そんなことより。












 殴られる。

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