第23話 Resignation4:佐伯 満夜の悲哀


「僕は、あなたの力になりたいんです」



 なるべく柔らかい笑顔でそう発言した。

 人畜無害で柔和な表情は、性格に反して得意なんだよね。


 ゆっくりと振り返った和葉ちゃんの祖母は、詐欺師同然の俺を、頭の先からてっぺんまで舐め回すように見やった。観察され返されてるような気分だぜ。


「……あんたに」


 俯いたまま低い声が落ちる。

 次の瞬間、鬼のような形相がこちらを向いたが、声色程は厳しくないほんのり崩れているそれを見た瞬間、次のセリフを悠長に構えながら待つことができた。


「あんたに、何ができるってんだい」

「家事全般、お任せください」


 穏やかに笑いながら頭を軽く下げた。

 自分で言うのもなんだけど、俺、気持ち悪いぐらい演技上手いな。俳優でも目指そうかな。ムリだー、メンタル的に。


「……和葉」


 和葉ちゃんの祖母が一言そう言うと、和葉ちゃんがすぐさま俺の手を握った。

 いや、どういう事だよ。


「満夜の事は、私がずっと見張っておきます」


 そう言った和葉ちゃんは、俺の手を握ったまま深々とお辞儀をした。

 当然、俺もつられて再度頭を下げる事になった。

 聞いてねぇぞ、色々と。


 和葉ちゃんの祖母はその様子を一瞥した後、無言でその場を立ち去った。

 身体からほっと力が抜けた。



「満夜さんは面白い人ですね」



 身体が再度硬直した。

 突然聞こえた言葉に驚き、恐る恐る後ろを振り返ると、清二くんが拍手をしていた。

 反射的に軽く頭を下げた。清二くんの存在を忘れていた。



「凄いですね〜あの祖母があんなに大人しく帰ったところ初めて見ましたよ!」



 清二くんの拍手と笑顔が脳髄に響いた。

 俺は思わず目を見開いた。


 笑顔、賞賛の言葉、俺の手を握る和葉ちゃん。


 どれを取っても、悪い物など無いはずなのに、胸の下部から胃のあたりまでが気持ち悪い。

 頭が痛い。

 何だ、何だ、何だ、何なんだこの感覚は。


 何とも言い難い感情がぐるぐると身体中を巡った。眩暈がする。



 ぎゅっと強く手を握られる感覚に、閉じかけた目が再度開かれた事を認知した。

 和葉ちゃんが握っている手に力を込めていた。


 和葉ちゃんが「大丈夫?」と声を発さず、心配そうに伝えようとしてくれているのが、顔なんて見なくても分かった。

 自分が嫌な汗をかいている事に、ようやく気が付いた。

 俺も顔は清二くんに向けたまま、和葉ちゃんに強く握られている手を握り返して答えた。


何を言おうか。


「………………………………………………………あの」

「満夜さん、期待してますよ」


 清二くんが細めていた目を開いて言った。

 ほんの少し薄れていた形容し難い気持ち悪さが蘇ってきた。


 言葉の続きは発さずに、清二くんは前へ歩み出し、部屋を出ようとした。


「……何を、ですか」


 俺はそれに対し、小さく抵抗した。

 案外効いたようで、清二くんは足を止めた。


「満夜さんなら」


 振り返った清二くんは、最初に会った時と同じ笑顔だった。



「あの祖母を、元に戻してくれるかなってね」




「……どういう意味だ?」


 そんな疑問は当の本人に投げつけられることもなく、宙に浮かんだまま萎んだ。

 そのまま早々に出て行った清二くんを止められず、和葉ちゃんも何も答えなかったからだ。


 深追いはせず、和葉ちゃんと一緒に、黙って食器を片付け始めた。

 今はそれよりもやるべき事がたくさんある。

 大掃除は終わっているが、これからも定期的な掃除は必要だ。

 食器洗い、食料の調達、料理、洗濯等、挙げだしたらキリがない。

 俺は家事が嫌いな訳じゃないが、改めて、家事の大変さを痛感する。

 こんな広い家じゃ余計に。

 だけど、普段やっている(最早「やっていた」という方が正しいのかもしれない)一人暮らしの時とは違って、一人で全てやらなければならない訳ではない。


「洗濯物って溜まってる?」

「あー、溜まってるね」


 俺が声を掛ければ、流水音に支配されていた空間に、垢抜けた声が返ってくる。

 そう、今ここには、和葉ちゃんもいるのだ。


 むしろ、和葉ちゃんと一緒にやらなければ意味がない。

 これは彼女の株を上げる為の作戦なのだから。


「じゃあ食器洗いが終わったら、次は一緒に洗濯でもしようか」

「うん」


 軽やかな和葉ちゃんの返事が耳を抜けきると、再び流水音がリビングを支配した。

 食器洗いが終わると、俺達はほぼ同時に台所を出て、洗濯機が設置してある脱衣所へ向かった。

 慣れた手つきで洗濯物を次々と洗濯機に放り込む。

 俺の家の洗濯機と和葉ちゃんの家の洗濯機のメーカーが同じだった。

 すっごい偶然。

 流石に型番は違うが、メーカーが同じ所為かとても操作しやすく、和葉ちゃんに質問する事もなく淡々と洗濯機を回した。


 次いで、リビングとキッチンの掃除をしながら暇を潰した後、洗濯を終え、湿った衣類の山を大体二等分ぐらいに籠に分け入れると、俺と和葉ちゃんで1つずつ持って脱衣所から出た。

 和葉ちゃんの後に続いて、今度は一階の庭越しのベランダまでついて行く。

 ベランダに到着すると、俺達はすぐさま既に干されていた洗濯物を取り込み始めた。


 俺も和葉ちゃんも、家事に慣れている所為か、何だかとてもスムーズだ。

 さっきからほとんど言葉は交わしていないが、何となくお互いの言いたい事は伝わっているようで、ほぼ滞りなく仕事が進んでいった。

 あっという間に濡れた洗濯物は籠からなくなり、目の前には綺麗に畳まれた服が陳列された状況が出来上がった。


 うむ、清々しい。


 爽やかな達成感を噛み締めていると、向かいで畳終えた服を積み上げている和葉ちゃんが俺をまじまじと見つめてきた。


「何?」


 あ、もしかしてアレかな、俺今、にやけてた?

 やべぇな。我ながらキモいな。


「いや……本当に器用だねって思って」


 和葉ちゃんはそう言いながら、今度は俺の前に陳列された服達を舐めるように見た。

 とりあえず、俺の予想が間違っていた事に安堵しつつ、姿勢を少し崩してから答えた。


「父さんと二人暮らしの時、家事担当だったからね」


 当時、父子家庭を支えなければならなかった父親は、常に仕事に追われ、忙しい毎日を過ごしていた。

 父に比べれば空き時間のあった俺は、必然的に家事担当になった。

 ……まぁ、別に、誰に何を言われた訳でもなかったんだけどね。


 しかし、そうやって自ら選んだ結果を振り返ると、この齢にして今までの人生の大部分を家事に充ててしまっていたことになっているのかもしれないな。


「お父さんのこと、恨んでる?」

「まさか、恨んでないよ。曲がりなりにも育ててもらったしね」


 だからって別に、いい思い出がある訳でもないんだけど。


 今あの人は、何をしているのだろう。

 そもそも生きているのだろうか。いや、流石に死んでたら何かしらの情報はあるよな。

 そういえば、就職するタイミングで家を出てから、今まで一度も連絡を取っていない。


 父さんとの暮らしは、どこまで行っても可もなければ不可もなかった。


 あってもなくても同じ日々を、無感情に貪っているうちに、気付けば大人になっていた。

 気付けば父さんは、俺の世界の登場人物の中に名を連ねなくなっていた。


 完全に消えていた。

 何一つ、印象に残らないまま。


「……ま、特に何も覚えてないんだけどね」


 そう言ってへらへらと笑いながら茶化すと、和葉ちゃんは俺の軽微な異常性を悟った上で「何それ」と言って笑った。

 ……やれやれ、敵わないな、全く。


 そんなスムーズな共同作業を熟し始めてから四日程たった頃、


「和葉ちゃん、買い出しに行こう」


 今日の昼食を作る時に、味噌が無くなりかけていたことを思い出しながら、和葉ちゃんに提案した。

 和葉ちゃんは裏表のなさそうな無邪気な笑顔で「うん!」と言って笑った。


 えらく素直だな。

 いやに大げさに鳴いた心臓の音を、拙い感想で塗り潰しながら立ち上がった。




 田舎道だが、山さえ降りてしまえばスーパーもコンビニもあるようで、和葉ちゃんの後ろをついていき、無事買い物を済ませる事ができた。

 ……それにしても、たかがスーパーへ往復する程度の事すら億劫になる程遠い道のりだな。しかも夕方になってくると、森林や茂みが多い事も相まって、心なしか麓よりも暗くなるのが早い気がする。

 こんな環境の中、この上下運動を下手したら毎日のようにしなければならないなんて、考えただけでも死にたくなるね。

 それでも黙って毎日家事を熟し続けているのであろう和葉ちゃんの背中に尊敬の念を送る。送ってどうする。


 なんか俺、ごちゃごちゃ考えているようで、実は何も考えていないタイプの馬鹿かもしれないな。

 まぁその証拠に今までの人生、選択肢を誤り倒しているしね。


 そんなくだらない事を考えながら道を歩いていくと、和葉ちゃんが柿本家の数メートル前で不自然に止まった。

 あと一歩のところで接触しかけた。危ねぇ。


 違和感を覚え、和葉ちゃんの横に立ち、視線の先を追うと、柿本家の前を行ったり来たりとウロウロする中年ぐらいの男性がいた。不審者じゃねぇか。

 というか、顔が怖い。眉間にしわが入り、堀の深いいわゆる強面系の顔立ちで、やつれた瞳は堀の深さゆえに影が出来ており、その瞳の動向は確認が取りづらい。

 和葉ちゃんの一歩前を出ようと持ち上げた足を、踏み出すことなくそのまま地面に下した。


 和葉ちゃんが「お父さん」と言ったからだ。


 あっ、ふーん。

 あの不審者、あ、これは間違いだったな。下手したら極道者の映画とかにキャスティングされそうな見た目のこの人が、和葉ちゃんのお父さんなのか。

 俺にしては珍しく誤りのない的確な表現だとは思うが、如何せんかなり失礼だ。これほどまでに自発的に発言する事が苦手な性格で良かった、と思った事はない。


 というか、この人は何をしているんだろう。


 そうこう考えているうちに、和葉ちゃんがお父さんを一心に見つめたままゆっくりと歩きだしたので、俺も和葉ちゃんの後に続いて家の方に近づいた。

 和葉ちゃんのお父さんは近寄っていく俺達には気付かず、家の前だけを局地的に徘徊し続ける不審者ごっこに興じている。

 居たたまれなくなったのか和葉ちゃんが「お父さん」ともう一度呼びかけると、ようやく気が付いた和葉ちゃんのお父さんは、こちらを向いた。


「……和葉?」

「お父さん、何やってるの?」


 和葉ちゃんのお父さんは厳しい形相ながら、和葉ちゃんの名前を呟いた。

 呼び掛けているとは言い難い。表情が変わらないから分かりにくいが、それはある種独り言に近かった。

 和葉ちゃんが手に持っていた買い物袋を握りしめた。

 突如、この場に緊張感が走る。


 和葉ちゃんのお父さんは斜め下を向き、少し罰悪そうに頭を掻いた。



「……家が、分からなくてな」



 低く、ドスの効いた声に見合わない言葉が威厳なく漏れた。


 は……はぁ?

 いや、あんたの家だろ。


「は……はぁ?」


 和葉ちゃんが俺の心情を代弁してくれた。いやぁ、便利だな。あ、言葉を間違えた。でも声に出していないからセーフだろ。

 ……あ、もしかして和葉ちゃんのお父さんが自分の家を見失ったのは、俺のせいか?


「すいません……」


 俺は反射的に謝った。

 勿論分かっている事だが、謝るタイミングを間違えた。

 誰だよお前状態になることなんて分かりきっている癖に、なんでやったんだよ。


「あ? 誰だ?」


 予想通り誰だよと聞かれた。さらには睨まれた。まぁ、そうなるよな。

 俺は今、和葉ちゃんのお父さんにとっては、娘に近寄るどこの馬の骨とも知らない男だ。

 なんだ、これでは俺が不審者じゃないか。


「満夜? 何で」


 ついで、きょとんとした顔で和葉ちゃんが俺を見る。

 ……あれ? 和葉ちゃんはもしかして、この状況に気付いていなかったのか。これは予想外。

 妙に聡い和葉ちゃんなら、和葉ちゃんのお父さんが迷子の果てに不審者となり果てていた理由や、俺が謝る理由にも感づいていると思っていたんだけどな。


 今の柿本家の外観は、俺がここに来た頃とは明らかに変わっている。

 この家の中で一番特徴的なもの、そう、生い茂る雑草がきれいさっぱり無くなっているのだ。


 この山には家がぽつりぽつりしかないが、全て似たような外見の木造建築が多い。

 いくら大きく立派な柿本家とはいえども、 敷地が余っているのか割と大きい家が多いこの近辺において、最大の特徴を失った我が家を見失うのは、ある種無理もない。

 そろそろくだらない間違いごっこはお終いにしよう。


「えっと……初めまして。僕は、佐伯満夜と申します。和葉ちゃんの……友達です」


 まずは自己紹介をして、不審者という立ち位置から脱却する。

 俺と和葉ちゃんの関係性は、最早と言うか最初から良く分からないので、"友達"という表現は間違いなのかもしれない。

 だけど、それが恐らく一般的に一番説明しやすい単語だろう。

 和葉ちゃんの肩が微妙に動いた気がした。


「雑草がなくなっていて分かりずらかったかもしれませんが、ここが正真正銘あなたの家です。あなたの家の雑草をきれいさっぱり刈り取ったのは僕です。家主に無断でやってしまってすいません」


 そう言い切り、深く頭を下げた。

 ……完璧だな。



「……………………………………………………ぶはっ!」



 この緊張感を一気に引き裂くように、和葉ちゃんが吹き出した。

 何でだ、俺は至って真面目に、自らが犯した過ちを訂正したというのに。

 余計な言葉が多すぎる気はしているけれども。

 苦笑いを浮かべながら腹を抱えている和葉ちゃんの方に視線を送った。


「本当……あんたって頓珍漢……ふふふふっあはははは!」


 そう言うと和葉ちゃんはますます笑い出した。


 ひとしきり笑った後、涙を拭きながら和葉ちゃんが改めて和葉ちゃんのお父さんの方に向き直した。

 む、腑に落ちないなぁ。ま、別にいいけど。

 なんか和葉ちゃん、楽しそうだしね。


「なんかね、今訳あって家に帰れないらしくて、それでしばらく泊めてあげてるの。ほら私、優しいからさぁ」


 堂々と、しかも何故か得意げに嘘を言い放った和葉ちゃん。

 お父さんとの間に家族間の蟠わだかまりとやらがないのは、本当のようだな。

 ……ま、今のところはだけどね。


「それで、お礼か何か知らないけど、家を掃除してくれたり、家事を手伝ってくれたりしてるってわけ」


 おいおい、お父さんに対する態度だけえげつないぐらい高飛車だな。

 対祖母と対弟の時の態度を見せてやりたいぐらいだぜ。まぁ知っているんだろうけど。


 ……それにしても、本当に色んな顔を見せてくれる人だな。


「……なるほど、君が……そうか……」


 俺達のバカげたやり取りに対し、眉一つどころか全身をぴくりとも動かさなかった和葉ちゃんのお父さんが、ついに口を開いた。

 ついでに俺の方にゆっくりと近づいてくる。

 俺は思わず身構えた。


 しかし、俺のその身構えは無意味に終わった。





「ありがとう」





 和葉ちゃんのお父さんが、そう言って俺に対し、深く頭を下げたからだ。



「……あの、」

「紹介が遅れたな。俺は柿本智充(かきもとさとる)。和葉の父親だ」



 顔をあげてからそう自己紹介した後、和葉ちゃんのお父さんは再び頭を下げた。

 そして、


「聞いているかもしれないが、俺はこの家を空けていることが多い」


 そう静かに語り始めた。


「俺は家族がいつの間にか……いや、最初から少しずつ歪み続けていたことに気付けなかった」


 ようやく顔を上げた和葉ちゃんのお父さんの表情は然程変わらない。

 だが、低く渋い声色に自身の罪を悔いる思いが滲んでいた。


「気付くのが……遅すぎた。それ故に、和葉には悲しい思いばかりさせてきてしまった」


 そこまで言って一息ついた和葉ちゃんのお父さんは、ふっと柔らかい表情で和葉ちゃんの方を見た。

 和葉ちゃんも少し眉を下げ、神妙な表情になる。


「お父さん……」

「どこかで軌道修正しなければ……いつもそう思っていた。だが、どうにもできないまま、家族の絆も家もここまでボロボロになってしまった。そんな環境を見違える程に変えてくれて、心から感謝するよ」


 和葉ちゃんのお父さんは、俺が来た時とは随分と風変わりした家を見やりながら、少し目を細めた。


「君が家を綺麗にしてくれたのならば、俺は必ず家族の絆を繋ぎ直してみせよう。これ以上、和葉に辛い思いをさせたくないからな」


 和葉ちゃんのお父さんは俺達の方に向き直すと、決意を新たにしたように言った。


 ……正直、柿本家の人間は信用できない。

 だけど俺は、この人を信じてみたいと確かに思った。





 三人で玄関を開けると、和葉ちゃんのお父さんがまた細い目を見開いていた。

 きっと初冬の雪のように薄っすらと積もっていた埃が綺麗さっぱり無くなっている事に驚いているのだろう。


「清二もうしばらくしたら帰ってくるだろう。今日の夕飯の時にでも、俺から少し話をさせてもらおう」


 俺は和葉ちゃんのお父さんの頼もしい一言に対し、神妙に頷いて答えた。

 和葉ちゃんのお父さんもそれに答えるかのように頷くと、俺達に背を向けて長い廊下の奥へと消えていった。

 和葉ちゃんの方に目をやると、口角は上がっているものの、その表情には僅かながら心配と緊張が含まれているように感じられた。


「和葉ちゃん、ご飯作ろうか」


 そんな和葉ちゃんの感情を上塗りできればと思いながら声をかけた。

 和葉ちゃんはこちらを振り返り、「うん!」と返事をした。いつも通りの明るい笑顔だった。


 ……よし、今回は間違えた事を言ってないな、俺。やればできるじゃねぇか。


「あ、だけどちょっと待ってて。エプロン取ってくるから!」


 そう言うと和葉ちゃんはどことなく楽しそうに階段を駆け上がっていった。



 最近、食事は和葉ちゃんと一緒に作っている。

 俺の信頼の構築も必要なのだが、それ以上に和葉ちゃんの功績になる事を少しでも増やしたい。


 最初、この家で朝食を作った時、エプロンはなかった。

 一緒に食事を作ろうと提案した時に「じゃあ、エプロンでも買っちゃおうか」なんて和葉ちゃんが言い出したので、一昨日一緒に買い出しに行ったついでに買ったのだ。

 しかもまさかのお揃いの柄である。

 と言っても、何処にでもありそうなチェック模様で色違いなのだが。


 和葉ちゃんを見送った後、俺は真っ直ぐ廊下を歩いた。


 トイレや台所を通り過ぎ、いつも食事をとっているリビングをも通り過ぎると、突き当りに差し掛かった。

 右や左を見渡す。どちらにもそれぞれドアが手前と奥に2つずつある事が分かった。

 二つ目のドアはややぼやけており、ドアノブまではっきりと視認する事は出来ない。

 どんだけ広い家だよ。


 廊下に和葉ちゃんのお父さんの姿はなかった。


 その代わりに、右に曲がり2つ目にあるドアの奥から、男性の話し声が少しずつはっきりと聞こえるようになった。

 恐らく、和葉ちゃんのお父さんの声だ。


 くそ、遠いな。流石に何を喋っているのかまでは分からないか。












 ……は?




 無意識に声のする方へ歩み寄ろうとしていた足を踏み止まらせた。


 いや、何を考えているんだ。

 俺にとっては、むしろ分からない方が好都合じゃないか。

 和葉ちゃんのお父さんを信じていたいなら、追わずに目を背けていた方が楽だし確実なのに。

 俺はまた、選択肢を誤っているのかもしれない。


 どうして、素直に自分の幸せを追い求める事が出来ないのだろう。


 いやそもそも、例えば今、和葉ちゃんのお父さんに対する疑念を晴らしたとして、しかもその内容が、俺が想定する最悪のケースだったからといって、俺は不幸になるのだろうか。


 答えは出ない。出したくない。

 ……うん? 出したくないのか?

 とっさにそんな単語が頭をかすめたが、疑問だけは停滞し続けていた。


 何で出したくないんだろう。

 この家に来てから、今まで俯瞰で見てきてなんとなく全てを把握していた自分の事と他人の事が、イマイチよく分からなくなってきていた。

 本当に調子が狂う。


 むしろこの状態が、人として正常な感覚なのかもしれないけれど。


「おい」


 突然 、和葉ちゃんのお父さんの声がはっきりと聞こえた。

 目を見開き、 声のする方を凝視しようとした刹那、目の前に伸びる廊下とドアが歪み、線がいくつも重なり始めた。

 思考が煩雑化してきて頭が痛い。

 それでも一応、ドアが開いていない事は分かった。


 なんだこの光景は……いや、気のせいか?

 再び声がする方に近寄ってみた。


 頭がさらにズキズキと強く痛みだす。

 足を踏み出す度に、床を構成する線も霞んで歪んでいく。

 まるでふわふわと宙に浮いているかのように、地に足を付けている感覚が乏しい。

 本来あるべきフローリングの固い感触どころか、足と接触しているスリッパの感触すらも分からない。分かるのは自分が前に進んでいる事と、和葉ちゃんのお父さんの声が聞こえる事だけだった。

 話し声は絶え間なく脳髄を蹂躙し続け、さらに頭痛を加速させる。

 だがその声も、最早ただの周波数だった。

 言葉も内容も何も聞こえない。

 否、ほとんど認識できない。

 一瞬でも気を抜けば意識が遠のく。

 背筋が凍る。

 緊張が走る。

 歪む背景。

 揺れる自分自身の存在。

 零れる思考と理性。

 認識できる事がどんどん狭まっていき、やがて視界の色すらも失われる。

 ここはどこだ?




 ……いやいや、流石に落ちつけ、俺。


 ここは柿本家だ。

 お前は今、和葉ちゃんのお父さんの声を追っているんだ。

 分かってんだろ。これらの現象は全て、俺の動揺が作り出した錯覚だという事ぐらい。


 すると、和葉ちゃんのお父さんの声が途端に止んだ。

 それと同時に世界は急速に線を取り戻した。

 気付けば頭痛も収まっていた。

 だが、依然話し相手の声は全く聞こえない。

 電話をしているのか?


 いや、終わったのか。だから視界が全て元に戻ったのか。

 今の世界の歪みや頭痛は全て、精神的なものだという事が嫌でも思い知らされた。


 ということはやはり、俺は真実を知る事を望んでいない。

 だが、いつも通り自分の気持ちを置き去りに、不幸になる道を歩もうとしているのだ。


 ……ははははは。懲りもせずに何をやってるんだ、俺は。

 どうせこのまま望んでもいない真実を探ろうとしてみても、成果を得られそうもないよな。

 和葉ちゃんが戻ってくるのも時間の問題だろうし、そろそろ戻ろう。


 すっと踵を返すと、和葉ちゃんのお父さんがいるであろう方向から目を背け、いつも通り自分の性分と人生と共に、真実をも諦めた。



 台所に向かっている途中で、向かいから和葉ちゃんがエプロンを持って歩いてくるのが分かった。

 ギリギリアウトか。


「あれ? 台所にいるんじゃなかったの?」

「あ、いやトイレに行ってた」


 白々しい嘘を吐きながら、二人で台所に入った。


 一緒に食事を作り始めてまだ3日目だが、最早俺達が食事を作るのが当たり前になりつつあるので、以前までこの台所を支配していた和葉ちゃんの祖母がここに入ってくることはもうない。

 先程買ってきたみそやら野菜やら肉やらを使う分以外は全て、中身を把握しきっている冷蔵庫へ詰め込んでいく。


 和葉ちゃんが持ってきたエプロンを身に付けながら、本人に気付かれないよう細心の注意を払いつつ、和葉ちゃんの方をちらりと見てみた。

 和葉ちゃんの表情は穏やかだった。

 まるで、身体中をずっと縛り付けていた枷が全て外れ、本来あるべき姿を取り戻したかのように、開放感で満ち溢れた美しい表情をしていると思った。


 俺は、自分の心に充満し続ける何かを安心感だと決め付けながら、使う分だけを無造作にボールへ突っ込んだ野菜類に対して、勢いよく水をぶっかけた。





「ごちそうさまでした!」


 夕食を終えた清二くんがいつも通り笑顔で手を合わせると、席を立とうとした。


「ちょっと待て」


 和葉ちゃんのお父さんがすぐさまそれを制すと、清二くんが不思議そうに振り返った。

 ……お前も大概白々しい奴だなぁ。声を掛けられることぐらい、何となく察しがついていただろうに。

 清二くんの冷めた表情から、いつも通り直感的にそう感じてしまった。

 なんだ、他人の事は相変わらず読めてるじゃないか。

 読めないのは和葉ちゃんと時々俺自身の事だけか。


「……話がある。座れ」


 和葉ちゃんのお父さんは低い声でそう言うと、流石にいつもの明るい演技が出来なくなったのか、清二くんは大人しく指示に従って元の席に座った。

 まぁ確かに、この言い方は普通に怖いわ。



「…………」



 たった30秒程の沈黙を、これほど長いと感じた事はない。


 清二くんの冷たい笑顔と和葉ちゃんのお父さんの僅かに力んだ口元に違和感を覚えた。

 仲悪いんだろうな、この二人。

 和葉ちゃんと和葉ちゃんの祖母のような明らかな敵対関係ではなく、嫌悪、喧嘩、虐待といった目に分かるような諍いはしないが、腹の中では互いを突き合っているような深い溝がこの二人の間にあるように感じた。


 酷く陰湿な関係だ。


 それにしても、普段明るく響き渡るような声で喋る清二くんが大人しいと、なんだかこの家って凄い静かなんだな。

 いや、和葉ちゃんも俺や和葉ちゃんのお父さんの前では煩いけど。

 重々しい空気に少し頭が痛みだした頃、ようやく和葉ちゃんのお父さんが口を開いてくれた。


「お前達、和葉と満夜くんに対して、ちゃんとお礼は言っているのか?」


 頭痛がゆっくりと消えていくにつれ、視界が開けていく。

 和葉ちゃんのお父さんは、真っ直ぐに和葉ちゃんの祖母と清二くんの方を見ていた。

 その表情は今まで通り渋く固いながらも、家族の絆を立て直す事への強い意志が感じられた。


 すると、


「…… 今更 、何を言っているんだい。こいつらが家事を行うなんて、いつもの事じゃないか」


 和葉ちゃんの祖母は、和葉ちゃんのお父さんの目に負けないぐらい、睨みを利かせながら反論した。

 うーん、これはまた俺の作戦が間違っていたという事かな。

 まさか、和葉ちゃんの株を上げる為に家事を積極的に行うというアピールをしていたはずが、形骸化していたとは。



「"いつもの事"だから何だ。そんなもの、お礼を言わなくていい理由にはならん」


 ドスの利いた一言が胸を刺す。

 いいねぇ。かつての俺の親父にも言って欲しいよ。いや、あの人は今も俺の親父だけど。


「それだけじゃない。満夜くんが来るまで、お前達は和葉に一体何をしていた? 全部言え」


 悪人共を問い詰める和葉ちゃんのお父さんを尻目に、ふと、俺達が一緒に朝食を作り始める前までの日常を思い出していた。


 雑草だらけだった家の周辺。

 埃が全体的に積もった廊下。

 その廊下を裸足で歩かされる和葉ちゃん。

 和葉ちゃんを呼び出す和葉ちゃんの祖母の冷たい目。

 和葉ちゃんと清二くんが笑顔で交わした会話の中で、明白に潜む壁。

 当たり前のように清二くんと自分の分の食事しか用意せず、和葉ちゃんには食パン一切れしか渡さない和葉ちゃんの祖母の対応。

 冷え切った食卓。


 俺が直接体験しただけでも数多くある家族とは思えない悲壮な日常を、生まれてから今まで味わわせ続けてきた柿本家に裁きの瞬間が訪れるのだ。



「はははっ」



 そう思ったのも束の間、食卓に突如乾いた笑い声が響いた。

 清二くんは和葉ちゃんのお父さんを蔑視しながら言葉を続けた。


「僕以上に家に顔を出さない貴方に、そんな事言われる筋合いはないと思うんですが」


 そう言うと、余裕そうな表情で和葉ちゃんのお父さんを丁寧な口調で嘲笑した。

 家族間で交わされる会話とは思えない程、壁の厚いコミュニケーションだった。

 この先起こるであろう二人の論争を予期し、吐き気がする。


 あーヤダヤダこの空気。

 今すぐにでも死にたい。死んでもいいかな?

 ここで俺が急に自殺を測ったら、この地獄のような空気をガラッと変えられる気がするんだけど。


 ……冗談です。分かっている。

 そんな事、和葉ちゃんが絶対に許してはくれないだろうしね。


「何を言っている。俺もこの家の家族だ。家族の事を知る権利は」

「そもそも父さんは、姉ちゃんが母さんに対して何をしたのか知らないんでしょう? だからそんな口が叩けるんだ」


 和葉ちゃんのお父さんの言葉を遮って言った清二くんの言葉に、胸が苦しくなった。

 そう、和葉ちゃんは「お母さんを殺した」。

 実際に手を掛けたわけではないにしろ、その事実は今も和葉ちゃんの立場を狭くし、精神を蝕み続けている。


 だが、


「……何も知らないのはお前達の方だ」


 和葉ちゃんのお父さんが放った冷静な一言に安堵した。

 そう、和葉ちゃんの祖母と清二くんは、何故和葉ちゃんが実質的に和葉ちゃんのお母さんを殺すに至ったのかを知らない。

 和葉ちゃんと彼らに生じている大きな溝を埋めるためには、一方的に悪者のように扱われている和葉ちゃんのバックグラウンドを明かさなければならないのだ。


「和葉は母さん……灯あかりに過度に厳しい教育をされ続けていた。いや、”教育”なんて言葉では生温い、あれは"虐待"だった」


 和葉ちゃんのお父さんが、何も知らない二人に真実を語り始めた。

 和葉ちゃんのお母さんの名前、「灯あかり」っていうんだな。


「和葉は十数年間ずっと虐げられ続けてきた。その結果が灯の死だ」


 和葉ちゃんのお父さんはそう言って少しだけ下唇を噛んだ。

 悔いの滲む声に、和葉ちゃんは思わず涙ぐんでいた。


「虐待……? あの、灯が……?」


 和葉ちゃんの祖母は明らかに動揺した様子で徐々に俯きながらそう言った。

 余程ショックを受けているのか、かなり縮こまっている。

 和葉ちゃんが虐待されていたという事実よりも、和葉ちゃんのお母さんが孫を虐待していたという事実にショックを受けている様子だ。


 ただでさえ猫背の背中がより丸まり、なんだかみすぼらしくなったなと思った。

 今まで和葉ちゃんの前では悪の大王のようだったからな。


「う、うそだ……灯が……灯がぁ……!」

「ばあちゃん!」


 今にも崩れ落ちそうな和葉ちゃんの祖母の背中を横にいた清二くんが慌てて支えた。

 理性を完全に失った和葉ちゃんの祖母は、無表情で大粒の涙をぼろぼろと零しながら、清二くんにされるがまま揺さぶられ続けていた。


 うん、やっぱり。

 多分この人、和葉ちゃんのお母さんを溺愛しすぎなんだな。

 過度な期待を向けられた子供は、親の目ばかり気にして育つ。


 それは、愛情過多という名の虐待だ。


 和葉ちゃんのお母さん__柿本灯が和葉ちゃんに歪んだ教育を施したのは、親、ひいては世間の目ばかり気にしてしまう人間に成長してしまった事が原因であり、その原因を作ったこの祖母の過干渉が遠因となっているのだろう。


 そう考えた時、突然、必死そうな表情で和葉ちゃんの祖母を揺さぶっていた清二くんの動きが止まった。

よく見ると、清二くんは肩で息をしていた。


「……父さんは、何を知ってるの?」


 独り言のように呟かれた疑問に、和葉ちゃんのお父さんがほんの少しだけ目を見開いた。


「せ、清二……何を」

「ばあちゃん、僕達には多分、見えてなかったことがあるんだよ」


 切羽詰まった様子で、清二くんに縋り付きながら顔を上げた和葉ちゃんの祖母を宥める様に、背中を擦った清二くんは、和葉ちゃんのお父さんの方を見上げた。

 和葉ちゃんのお父さんはゆっくりと、和葉ちゃんがかつて和葉ちゃんのお母さんにされた事を語り始めた。



 和葉ちゃんのお父さんの話を聞いた清二くんは、愕然とした様子で和葉ちゃんのお父さんと和葉ちゃんの事を交互に見ていた。


「姉ちゃん……ごめん……僕、今まで、何も知らなかった……」


 清二くんはそう言って静かに俯いた。

 和葉ちゃんの祖母もやや俯き、何かを考え込むような表情をしていた。

 やがて清二くんが顔を上げると、気弱そうな顔をしながら和葉ちゃんに向きなおした。


「もっと、教えてほしい」


 清二くんはそう言うと、気弱そうな表情はそのままに少しだけ微笑んだ。


「姉ちゃんのことを……もっと知りたい」


 清二くんの思いがけない言葉に、和葉ちゃんは思わず涙を零した後、笑顔で頷いた。

 和葉ちゃんが、お父さん以外の家族に対して、こんな笑顔を見せたのは、恐らく初めてであろう。




「それでも、灯がお前によって死んだことには変わりない」


 和葉ちゃんの祖母はゆっくりと顔を上げると、和葉ちゃんを睨んだ。


「やえ子!」

「ばあちゃん!」

「うるさいよあんたたち、ちょっと静かにしておくれ……」


 和葉ちゃんのお父さんと清二くんの叫びに対し、和葉ちゃんの祖母はそう制すと、俯いて静かに目を瞑った。


 きっと和葉ちゃんの祖母ーー柿本やえ子は、まだ和葉ちゃんを許していない。

 和葉ちゃんの祖母と和葉ちゃんが完全に和解するにはもう少し時間が掛かるだろう。


 だけど、時間が掛かるだけだ。

 この状況ならまだ勝機はあるんじゃないかと、何となくそう思った。


 未来は、きっと明るい。






 だが、それと同時にどうしようもない程の不安感が俺を襲った。






 何でだ。

 硬い。

 ごく僅かながら違和感がある。

 ……気持ち悪い。


 この一件好転している事態に対し、非常に上手く誤魔化しながら違和感を放っていると思わしき人物を窺うように見た瞬間、それは確信に変わった。




 この中で巧妙に空気を歪めている人物が、2人いる。

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