第22話 Resignation3:佐伯 満夜の悲哀


 あー、はははっ。

 一気に身体が冷えていくのを感じた。

 予想通りの事ではあったんだけれども。


 しかし、よく考えたらとんでもない事を共有されてしまったもんだな。

 自殺の動機を聞いた時点で、俺は共犯者になったようなものだったのか。

 警察に通報する気にはなれない。

 やれやれ、また人生を間違えた気がするな。


 和葉ちゃんは俺の様子を伺ってから、もう一度耳元に口を近付けた。


「なんか勘違いしてそうだから言っておくけど、私は手を掛けていないよ。お母さんの死因は、睡眠薬を大量に服用した事による自殺……でも、お母さんが自殺したのは、私のせいなんだ」


 そこまで言い終わった和葉ちゃんは、ようやく俺から少し離れて微笑んだ。

 騒がしい心臓音に支配されていた所為か、理解するのに数秒を要した。


「……私ね、小さい頃から両親にすごく厳しく育てられたの。朝起きて、パジャマのまま部屋から出ただけで叩かれて、家でも外でも小綺麗で動きづらい服ばっか着せられたの。小学校に入ってからも、小テストも含めてテストで満点以外の点数を取ったら、お母さんに目の前でテストを破かれて、私が気に入ってる玩具や服を捨てられた……泣き叫んだり、文句を言おうもんなら、何されるか分かんなかったから、何にもできなかった……一番辛かったのは、丸一日、完全に無視されたことかな」


 何か虐待みたいだよね、って軽そうに言う和葉ちゃんの笑顔が痛々しかった。

 みたいじゃねぇよ、虐待だよ。


「お父さんは清二が生まれる少し前ぐらいに、今までやってきた事が、間違っていたことに気付いてくれて、私に謝ってくれたの。それからお父さんだけは、私に優しくしてくれた……でも、お母さんは……」


 そこで今まで俺の目を真っ直ぐ見て話していた和葉ちゃんが、言葉を忘れたかのように黙り込んで、下を向いた。

 俺は黙ってただ待っていた。急かしてはいけない。彼女は思い出す事すらも辛いのだろう。


 それでも言うと決断し、目に涙を浮かべながらも、また前を向き直して、無理に笑う彼女を立派だと思う(それが良いか悪いかは別として)。


 柿本和葉は、強い人だ。


「お父さんがお母さんに、もう、厳しい教育は辞めろって、言ってくれたらしいんだけどね……ふふ、あの人は結局、何にも変わらなかったよ。相変わらず暴力やら無視やらいっぱいされて、お母さんと対峙する度に、存在を否定されたような気分になった……それなのにさ、次に生まれてきた清二には、私にやってきた事は何だったの? ってぐらい普通に愛情注いでんの! ……ほんと、笑っちゃうよね……いや、笑うしかないって感じ」


 和葉ちゃんの顔に怒りが滲んだ。

 手に握りこぶしを作り、俯きながら口角だけを上げている彼女は、くるりと背中を向けると、そのままゆっくりと歩き始めた。

 俺も和葉ちゃんと一定の距離を保つようについて行った。


 歩みは止めずに、和葉ちゃんは続きを語り始めた。


「私さ、今から考えたら本当最低だったと思うんだけど、お母さんへの憎しみを、クラスの子に全部ぶつけてたんだよね。我儘言いまくって、友達振り回して、クラスで地味だった子の悪口言いまくってさ……だから多分、私もめちゃくちゃ愚痴られてたと思う……とにかく、クラスで上の地位に立とうとしてた。お母さんに常にステータスみたいなのを求められ続けてたからかな、お母さんに認められる為には、そうするしかないって思ってた。そんな感じで中学生になった時、出会ったんだ」


そこで一呼吸置いた和葉ちゃんは、またこっちを振り返ってから言った。



「松野岬生(まつのみさき)って人に」





「松野……岬生?」


 昨日まで名前も知らなかった人から飛び出した知っている名前に、思わず聞き返した。


「……そ。あの人、ここらじゃちょっとした有名人だから、もしかして満夜も知ってるのかな?」


 静かに頷いた。

 果葉子の元彼。

 そして、栗村さんをいじめていた張本人。

 あいつと直接話をした訳じゃない。

 だけど聞き覚えのある名前だ。

 それも、嫌になる程。


 なんでこんなところにまで出てくるんだよ。

 俺が関係する女性は、あいつに呪われてんのか?


「私は、そんな有名人である岬生の本命の彼女になったの。本人の口からちゃんと聞いたよ。それが、その当時の私にとっては、何よりも大切な"最大のステータス"だった」


 "最大のステータス"。


 二人の歪んだ関係性が垣間見れた瞬間だと思った。

 こいつらも大概、間違ってんな。


「岬生が、他の女数人と浮気してたのは知ってたけど、岬生にとっての本命の彼女は私っていう自信があったから、別に何も思わなかった。むしろ、浮気相手の目の前でキスしてやったり……あ、はは……本当、あの頃の私って、最低だね」


 そう言って自嘲しながら再び背を向けた和葉ちゃんの言葉で、おおよその事に対し、合点がいった。

 なるほど、つまり果葉子は、数多くいる岬生に遊ばれていた女のうちの一人だったという訳だ。

 本当にかわいそうな奴だな。


「私と岬生が付き合ってるってこと、結構有名だったと思ってたんだけどなー、それでも岬生に言い寄る女が後を絶たなかった。ま、そんな事さえも私にとっては優越感でしかなかったんだけど……でもね、高校に上がってからしばらくした後……岬生とぱったり連絡が取れなくなったの」


 和葉ちゃんはため息を一つついて、下を向いた。


「岬生ね……高校に入学してから半年後に中退したんだ。それから音信不通……岬生の家族に聞いても家にも戻ってないって言われてね、それで私達の関係は自然消滅……心にぽっかりと穴が空くって、多分この事を言うんだろうなって思ったよ。景色は全部色褪せて見えるし、毎日がただ虚しく過ぎてった」


 和葉ちゃんの声色に、涙が滲んでいた。

 俺は何も言えず、ただ和葉ちゃんの話を黙って聞き続けた。


「そんな中でさ、それまで、相変わらず厳しいお母さんの顔色を気にしながら、嫌々従ってきたけど、もう限界を感じて……ある日、お母さんに向かって平手打ちしたんだ。それも思いっきり。お母さん、腰抜けてたなぁ。そこに追い打ちをかけるように、今までの恨みつらみを全部吐き散らした。一度言い出したら止まらなくて、それから毎日のように私はお母さんを責め続けたんだ」


 いい気味、と言う和葉ちゃんに思わず目を逸らした。

 俯きながら、後悔するように言葉を紡ぐ和葉ちゃんの事を、見ていられなくなった。


「私さ、本当に全然気付かなかったんだけど、お母さん、それから暫くしてうつ病になったみたいなんだ。ある日、自分の部屋に戻ったら、大量の睡眠薬とその空き瓶が散らばっていて、その中心でお母さんが倒れてた。両手は胸の真ん中で組まれていて、祈っているような、謝っているような……復讐のような、そんな感じで亡くなってた……その時になって、やっと後悔したの。ここまでするつもりなかったのに、なんで、そんな……っ」


 俺は、そう言って泣き出した和葉ちゃんの背中にそっと触れ、ゆっくりと撫でていた。

 自分で自分の行為に驚いていた。

 あまりにも自然すぎる。無意識って怖い。


「本当、最低……最低だ! 私はお母さんを殺したんだ!」


 そう言った和葉ちゃんは、さらに泣きじゃくりながら、俺の胸元に軽く体重を預けた。

 背中を撫でながら、どうか彼女の心が落ち着きますように、そう祈った。

 柄にもなく切に願った。


 祈りが通じたのか、和葉ちゃんの呼吸が少しずつ落ち着いてきた。


「ふふっ……あの時も、こうやって、お母さんの遺体の前で大泣きしたっけな……ごめんなさい、ごめんなさいって、何度も何度も……」


 湧き上がるように流れ出た言葉の後、やがて胸元の温もりが離れた。

 和葉ちゃんは祈りを捧げるように両手を合わせて、当時の懺悔を再現した。

 彼女の頬を静かに伝う涙が、不謹慎にも綺麗だと思ってしまった。


「……この日、お母さんが亡くなった日以来、おばあちゃんは人が変わったように、私に当たり散らすようになった。『あの子が死んだのはお前のせいだ』ってね……刃物を振り回された事もあったよ、本当殺す気かっての……でも、お母さんを死に追いやったっていう罪悪感もあるから、それもしょうがない事なのかな、とも思ったりね……」


 彼女らしくもない、自信のなさそうな笑顔。

 いたたまれない気持ちに苛まれ、その表情を、二度と見たくないと思った。


「清二も、愛想がいいのは人前だけ。清二は基本的に、お母さんの味方だから、私の事は嫌いなんだよね……多分、昔から」


 そう言ってため息をついた和葉ちゃんは、再び背を向けて歩き始めた。


「お母さん以上にタチの悪いおばあちゃんと清二に、毎日怯えながら生きてさ……唯一信用してるお父さんは、出張が多くてなかなか帰ってこないし……もうさ本当、人生って一体、何の為にあるんだろうね?」


 ふと、上を見上げた和葉ちゃんの真似をして、俺も上を見上げた。

 スッキリとした青空が、眩しくて、遠い。


「岬生が最近、交通事故起こして死んだって話が、SNSで沸いてた。それ見た瞬間、生きる気力? っていうのかな、そういうのが、全部消えた」


 和葉ちゃんの発言に、目を見開いた。

 お前が栗村さんの代わりになってどうする。

 ……まぁ、俺のこの解釈は間違っているんだろうけど。


「それで思ったんだ……私には、もう何にもない。生きてる意味も、存在価値も。お母さん、ごめんなさい……今すぐそっちに、謝りに行くからって。でもさ、不思議なもんよね」


 和葉ちゃんが、また立ち止まって振り返った。

 首をかしげる俺に、和葉ちゃんがニンマリと笑って指を差した。


「もういいや、死んじゃおうって思った時に、あんたみたいな、頓珍漢なバカが現れるんだから」


 そう言って和葉ちゃんは笑った。

 家を出てから、初めて見せてくれた心からの笑顔だった。


「何もないっつった私に……何だっけ? あるじゃん、命がってさ」

「あの……掘り返さないでもらえませんかね? 恥ずかしいんで……」

「へぇ、その恥ずかしい事を言ったのは、どこの誰ですかぁ?」

「……まぁ、俺だね」


 自身の罪を認めると、ふふっと和葉ちゃんが笑い始めた。

 俺もつられて笑った。

 お互いの笑っている顔と、笑いあっている状況に、さらに笑いが込み上げ、しばらく止まらなかった。


 少し落ち着いた後、和葉ちゃんは再び口を開いた。


「おばあちゃんは、私がお母さんに手を掛けたと思ってる。まぁ、あの時の私が、それぐらいお母さんに対して高圧的だったのは事実だし。おばあちゃんと、その味方である清二に、今はとてもじゃないけど、逆らえないんだよね」


 和葉ちゃんはそう言って、ため息をついた

 この場の空気をあえてぶち壊してみたくなった。


「……まぁ、正直俺も、和葉ちゃんがお母さんを殺したんだと思った」

「あんた、案外疑り深いね」

「自殺スポットで出会った他人をさ、普通信用できると思う?」

「いつまで他人の距離でいるつもり?」


 その言葉の真意が分からず、どういう意味なのかと問おうとした口を、口で塞がれた。




 ………………………………………………はい?



 何だこれ、あ、ま。た、

 ちょ、ちょ、と、ちょっと





「待って……!」




 俺は慌てて和葉ちゃんの肩を押して、引き離れた。

 頼むから、その容姿で煽らないでほしい。こっちの身にもなってくれよ。


 一方の和葉ちゃんは、涼しそうな顔で得意げに笑っていた。

 何でだ、つーか、いつまでって何だよ。昨日の今日だっつーの、本当何を考えているんだ!


 あぁ、読めない、分からない、怖い、面白い。



「ま、まだいいよ」



 そう言うとあっさり俺から距離を取った和葉ちゃんは、意気揚々と前へ歩き始めた。

 まだって何。俺は一体、どうすればいいんだよ。何でそんなに、いつも通りなんだ。


 俺は気持ちの整理がつかないまま、覚束ない足取りで和葉ちゃん後を追った。

 ……心臓が忙しない。いっそこのまま死ねたらいいのに。

 栗村さんに報いる形ではないんだろうけどね。




 粗方生活に必要な物は買った。

 これで、本格的に柿本家に居座る準備がようやく整ったという訳だ。まぁ、振り返ってみればどうしてこうなった、という感じだが。

 だが、同時に俺の決意も固まった。


 今は14時過ぎだ。

 なるほど、この時間、祖母は寝ているのだな。

 昨日は夜中に清二くんと話していたな。昼夜逆転生活を、その年齢でやってのけるとは若いな。何歳だか知らないけど。


 俺は和葉ちゃんの方を振り返って言った。


「和葉ちゃん、一緒にやりたい事があるんだ」

「んー? 何?」


 俺はやや口角を上げつつ、やんわりと、だが確かに和葉ちゃんの目を見て言った。



「掃除しよう」

「……はい?」



 まずは、環境を変えてやる。

 和葉ちゃんが、実家で人権を得る為に。




 和葉ちゃんと一緒に家全体の掃除を始めた翌日。

 やけに早く目が覚めた。

 和葉ちゃんの部屋には時計がない為、スマホで時間を確認する。今は朝の5時だ。嘘だろ。早過ぎじゃね?


 当然ながらまだ夢の中である和葉ちゃんを起こさないように、そろりそろりと布団から出た。

 和葉ちゃんにはあまりさせたくないが、やっておきたい事があるのだ。


 玄関のドアをまたそろりと開けると、生い茂る雑草の中へ身を投じた。

 足元に注目しながら、ある物を探した。


 ……ビンゴ。


 真っ黄色の片手で操縦できる芝刈り機。

 これで、家に出入りする際の最大の関所をぶっ壊す事ができる。


 しかし、こんな早朝に芝刈り機をかき鳴らしていて、近所迷惑にならないだろうか。

 ……いや、大丈夫。

 周囲に民家なんてほとんどないし。いけるな。


 では、和葉ちゃんや和葉ちゃんの祖母、清二くんが起きてしまう危険性はないだろうか。

 いや、大丈夫。なんとなく。

 根拠はないけど、自信はあった。


 芝刈り機がウィーンと鳴る音を確認する。

 よかった。ちゃんと電源は入るんだな。

 俺は意気揚々と芝刈り機で目の前に生い茂る雑草を蹴散らした。


 無心で雑草を刈り続け、玄関から家の真正面にある道路が本来あるべき姿通り見え始めた頃、俺はハッと我に返った。


 俺は一体何をしているのだろう。

 死ぬつもりだったくせに、自殺スポットで出会った死ぬつもりだった女の子の家庭事情にズケズケと入り込んだ挙句、早朝から雑草処理までしているなんて。それも、自発的に。


 和葉ちゃんの為とはいえ、いや、そもそも和葉ちゃんの為になんでここまでやっているんだろう。


「……これは家に何日も泊めてもらっている事に対する代価だ」


 そもそも、泊めてくれなんて頼んだ覚えはないけれど。

 それでも泊めてもらってる事には変わりないからな、うん。


 自分を諭してまだ片してない左側に向き直し、再び芝刈り機を握る手に力を込めると、ふと、左側に視線を感じた。

 恐る恐る振り返ると、怖い程和かに笑っている和葉ちゃんの姿が見えた。


 ……やっぱ根拠って必要だわ。


「わざわざそんな事までしてくれなくてもいいのに」


 にんまりと笑いながら、和葉ちゃんが俺を見た。

 全てを悟られているような気配を感じつつも、それに気付かないフリをしながら笑いかけた。


「何日も家に泊めてもらってるんだ。これくらいさせてよ」


 そう言ってまた雑草と向き合いながら何かを誤魔化した。

 正直なところ、自分でも自分の行動の理由はよく分かっていない。何故って、本当は分かっているのかもしれないけれど、言葉に表そうと思念する程、認めたいとは思っていないからだ。


「ありがたいけどさ、多分庭の雑草を全部片そうと思ったら日が暮れるってレベルじゃ済まないと思うよ? だからとりあえず朝ごはん食べよ」


 そう言われて慌ててポケットに入れていたスマホを見た。


 7時半だった。

 もうこんな時間? つーか2時間半かかってまだ玄関の前しかできてないってどんだけ広いんだよこの家。


 そして意識すると同時に腹の虫が鳴いた。

 和葉ちゃんはあははっと笑うと、俺に近寄り、芝刈り機を強制的に手放させた。

 うん、良いんだけど何でわざわざ後ろから手を回してくるかな。密着度が凄いんだけど。


 そのまま和葉ちゃんは俺の手を引いて、玄関へと連れ戻した。

 特に抵抗する気も起こらず、ここに来た時と同じようにされるがままついていった。

 芝刈りなら温度のない食パンを齧り終えてから、また再開すればいい。


 そうして庭作業を続けること三日半。

 同時に和葉ちゃんには他の部屋掃除を任せ、掃除を続けた結果、柿本家は遜色ない程度には綺麗になった。

 よしよし。



 じゃ、次の手でも打ちますか。




「えっ料理出来んの?」


 掃除が終わった翌朝、台所に立ち、包丁を持つ俺の後ろに、いつの間にか和葉ちゃんがいた。ほん少しヒヤッとした。


「ま、まぁ、ね。料理は得意だよ」


 和葉ちゃんとの距離があんまりにも近くて、彼女の方を振り返った顔を思わず背けてしまう。

 すると、それが気に食わなかったのか、さらに和葉ちゃんが詰め寄ってきた。

 ……この人は、今俺が包丁を持っているという事を理解しているのだろうか?


「あ、危ないよ」

「ねぇ、料理どこで覚えたの」


 俺の危険信号を無視して質問してくる和葉ちゃんに諦め、質問に答える事にした。


「小さい頃からずっと料理とか色々してたんだ。うち、父子家庭なんだよ」

「えっそうなの?」


 そう、俺が7歳の時。

 両親が離婚した。

 子どもは俺の他に弟が1人いたから、それぞれ1人ずつ引き取ろうという話になった。

 そして父さんの方に行ったのが俺だった。


 母さんと父さんは決して仲が悪い訳ではなかった。

 まぁ、父さんがたまに母さんの事を悪く言っていた事はあるが。

 でも、だからと言ってある日、ついに仲違えして離婚した、という訳でも無い。

 ただ単純に、売れっ子デザイナーで昼夜問わず働く母と、平々凡々なサラリーマンの父が生活を共にするにはあまりにもライフスタイルが合わなさ過ぎた。

 それだけだった。


「…………」


 父さんは時々母さんの事を「昼夜問わず家に戻らず、子どもの事を考えていない悪い母親」だと言っていた。


 まぁ、父さんがそうやって母さんの事を悪く言うのも分かる。

 何故なら、その理由が子どもへの愛情からきたものだからだ。


 でも母さんは、別に俺達の事を考えていない母親ではなかった。

 忙しい合間を縫って、俺達と一緒に遊んでくれた。

 俺達はちゃんと、母親からの愛情を感じていたのだ。


 そんな母親から、小さい頃に頭に叩き込まれたレシピは、とっくに身体に染み付いていて、今更手順を間違えることも無い。


「へぇ、じゃあ料理は間違わずに出来るんだね!」


 そんな和葉ちゃんの明るい声と明るい笑顔に、もう何度目か分からない不意打ちを喰らい、思わず魅せられてしまう。

 何でこの人はこんなにも、俺を。


「じゃ、楽しみにしてるねっ」


 そう言った和葉ちゃんが出て行ったキッチンに、熱が籠りだす。

 あまりの暑さに脳がぼやけ始めた。


 母さんは離婚が決まってから家を出ていく直前まで、忙しい合間をぬって様々なレシピを教えてくれた。

 その時に身につけたレシピ達は、今や俺の得意料理ばかりだ。

 なのに俺は、今更また、間違えてしまった気がする。




「……母さん」


 だって、こんなにも心臓が煩くなるなんて想定外だ。




「まぁ、これ、あなたが作ったの?」


 先程できた料理を和葉ちゃんの祖母の前に用意すると、目を丸くしていた。

 まぁ、恐らく男の手料理には見えない代物だろうからな。


「いいのかしら、こんなに」

「無理言って押しかけた上に何日も泊めてもらっているので。お口に合えば良いのですが」


 無理やり連れ込まれたの間違いだけど。これ以上和葉ちゃんの株を下げたくないからな。


 すると、和葉ちゃんの祖母は、和葉ちゃんを一瞥した。

 何かに操られているかのように、すっと立ち上がった和葉ちゃんは、和葉ちゃんの祖母と清二くんの前に並べられた料理を一品ずつ、大体一口分くらい小皿に取り分けると、それらを全て順番に平らげた。

 その様子を和葉ちゃんの祖母と清二くんが真剣に観察していた。


 それから30分間、手料理を目の前に、誰も何も口にしなかった。

 和葉ちゃんは死ななかった。当たり前だ。


 和葉ちゃんの安否を確認してから、和葉ちゃんの祖母と清二くんは、冷え切った料理を口にし始めた。

 それを合図に和葉ちゃんも自分の分の料理を食べ始めた。

 空気に従い、俺もようやく目の前の自分で作った料理に手をつけた。


 つーか、疑い過ぎじゃない?

 それは良いとしても、実の孫に毒味をさせるのは、やはりどうかと思う。


 俺は食事の間、様子を伺うようにこっそりと和葉ちゃんの祖母と清二くんの顔を見ていた。和葉ちゃんの顔を見る事は出来なかった。


 ……観察していて少し分かった事は、和葉ちゃんの祖母も清二くんも共通して表情がない事だった。いや、正確には清二くんの表情は、口角も上がっているし、目はやや細めているという世間一般的に言えば明るい表情だ。

 だが、相手にそう感じさせない顔付きをしているようで、不気味だった。

 感情が表情に乗ってこない、真意の見えないそれは、最早狂気と呼べる代物だろう。

 和葉ちゃんの祖母の表情は文字通り無表情な上に、感情も全く読めないからより怖いけど。



 こんなもの、家族なんて呼べるものか。



 そんな事を考えながら食事を済ませると、どうやら俺は一番乗りだったらしい。

 俯いているフリをしながら3人全員の食事が終わるのを待ち続けた。




 あいも変わらずに地獄のような朝食時間をやり過ごし、清二くんがいの一番に席を立った。

 清二くんの次に立ち上がった和葉ちゃんの祖母は、足元をふらつかせると、テーブルの隣に置物のように静かに置かれているテレビの方に倒れかけた。


 思わず和葉ちゃんの祖母の手を引き、自分の胸に倒れ込ませた。そして声を掛ける。


「大丈夫ですか?」


 そこにいる誰もが目を見開いたことを感じつつも、和葉ちゃんの祖母をじっと見つめる。

 幸い、頭などをぶつける事もなく無事のようだった。

 俺はほっと胸を撫で下ろした。


「い、いつまで」

「はい」

「いつまで掴んでいる気だい?」

「あぁ、すみません」


 俺は何を思う間も無く手を離して、和葉ちゃんの祖母の様子を観察した。

 やや窶れているように見える。

 昼夜逆転生活なんてやめておけばいいのに。

 ま、俺が言える事じゃないし、別に良いですけど。



「あの、何かお手伝い出来る事はありませんか?」



 くるりと俺から背を向けた和葉ちゃんの祖母に、第二の矢を放った。

 和葉ちゃんの祖母は、前へ進めるはずだった足を止めた。

 予想通り振り返りはしないものの、完全にスルーされる事も無くてよかった。


 さぁ、俺が今まで隠し持っていた演技力を解放する時が来たようだな。

 今まで自分がしてきた事の全てを棚に上げて、笑え、俺。






「僕は、あなたの力になりたいんです」

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