第20話 Resignation1:佐伯 満夜の悲哀


 あ、そうだ。死のう。

 そう決意した翌日、俺は有名な自殺スポットに足を踏み入れていた。


 しかし、一人暮らしというのは便利だな。

 ちょうど仕事も辞めた直後で求職中の俺の場合は、誰にも何も言わずとも、こうして気軽に行動を起こせるのだから。

 いやまぁそれでも、本来ならば親に対して、遺書ぐらいは残しておくべきだったのかもしれないけれど。

 自殺の動機が説明しにくいからなぁ。

 結局何も書かず、そして誰にも連絡せずにここまで来てしまった。


 思い立ったが吉日、そして今日は命日になるのだ。


 地元から数駅離れた山奥にある、コンクリートすらも見かけない程自然豊かで、一見穏やかなこの土地に一箇所、濁流となっている川に架かった木製の橋がある。

 この橋と川の距離は、数百メートルとも言われる高さを誇り、それ故か自殺者が後を絶たないスポットとなっている。


 全く穏やかじゃないねぇ。例に習おうとしている俺が言える事じゃないけど。


 そんな橋が今、俺のすぐ目の前に真っ直ぐのびている。

 橋の真ん中付近まで渡る為、左足を前へ出した瞬間、付近にあったらしい小石が転がり、岸と橋の隙間から奈落の底へ落ちていった。


 思わず川を見下ろすと、小石はまだ落下している最中だった。

 3、4秒程度では川に到達しない。

 かなり時間を掛け、ゆっくり落ちていった小石は、漸くポシャリと落ちると、すぐに荒い川の流れに掻き消されてしまった。


 身震いがした。

 いずれ待ち受ける事が決定されている死を先延ばしにされ、時間と共に恐怖感が増していくようなこの感覚は、死刑執行前の死刑囚のそれに近しい気がした。いや、もちろんそんな経験ないけど。


 死ぬ事を決意しても尚、抗えない本能的な恐怖心を持つ自分に呆れた。

 だが、ある種それは、仕方のない事なのかもしれない。

 俺が死にたい訳じゃないしね。



「どいて!!」



 突如、女性の声が聞こえた。

 振り返る間も無く、何者かに左肩を掴まれると、俺を押し退けて黒のロングヘアーの女性が橋の目の前へ割り込んできた。思わず目を見開いた。




栗村……さん……?




 そう思った刹那、違うと思った。


 彼女がもし、栗村夢月くりむらむつきだったら、きっと今ここにはいないはず。

 それに、彼女はこんな強引な行動を取らない。

 彼女との関係は、結局お互いにほとんど話さず仕舞いで終わっているものの、行動パターンぐらいはちょっと様子を見てりゃあすぐに分かることだ。


 でも……。


 と、その続きを考える間もなく目の前にいる彼女の右腕を左手で掴んでいた。

 あ、やべぇ。どうしよう。完全に無意識だった。


「離してっ!」


 俺の手を振り払おうとした彼女の顔が、チラリと見えた。

 絶えず泣きながらも、強い意志で死へ向かおうとする彼女の表情に、思わず息を飲んだ。


 本当にあの人と瓜二つだ。


 泣きじゃくりながら川へ身を投げようとする彼女の右腕を、離すものかと強く掴んだ。


「早まらないで。大体なんで」

「うるさいっ! あんたに関係ないでしょ!?」

「……確かに」


 むしろブーメランってところだよな。


「じゃあ離してよっ! 邪魔しないで!」

「嫌だ」

「なんでよ!!」


 彼女に睨まれて改めて考える。

 何でだろう……まぁでも、多分、そうだな。


「あなたに死んで欲しくない……では、理由にならないかな?」


 なるべく優しい声色で言うように努めた。

 だが、これは本心だった。

 栗村さんじゃないのは分かっている。


 けれど。


「なんない! 大体あんた誰なのよ! あんただって、こんなとこに来るぐらいだから、死にたいんでしょ!」

「まぁ、うん」


 否定できず曖昧に頷くと、彼女がさらにぎゃあぎゃあと泣き叫びながら橋の方へ無理やり進もうとした。

 なんだか、俺が今から彼女の事を殺そうとしているようなシチュエーションにも取れるなと思い、いたたまれない気分になってくる。

 それでも、彼女の右腕を引っ張りながら何とか耐えた。


 あぁ、手が痛い。

 俺は一体、何でここまで必死に、見ず知らずの彼女の自殺を止めようとしているんだろう。

 栗村さんと似た女性が目の前で死ぬのは確かに嫌だ。

 けれど、所詮別人なのにな。


「だっ……たら……! ほっといて……! もう……あたしには、何にも……ない……!」

「あるじゃん」


 突然絞り出すように彼女の口から本心らしき言葉が溢れた刹那、反射的に言ってしまった言葉に、栗村さんに似た女性が、栗村さんとは似付かぬ大きく開かれた目をこちらに向けた。

 微かに胸が鳴る。

 正直、何を言おうか決めていなかった。


 少しのシンキングタイムを挟んでから、彼女のようには見開けない目の代わりに口を開いた。




「命が」

「…………」



 響いたのか響いていないのか、何とも微妙な空気が流れた。


「……バカ、じゃないの……?」


 彼女は急に身体の力を抜くと、俺の手を振り払ってその場にしゃがみ込み、涙を拭いた。


 ……まぁ、そりゃそうだよな。

 数分前までそれを捨てようとしていた奴に言われてもな。



「……なんか、拍子抜けした……今日はもういい……」



 彼女はそう言うとゆっくりと立ち上がり、今度は俺の左手首を掴んで橋とは逆方向に歩き出した。


「はっ!? え、ちょ……待って。どこへ……」

「あんたに邪魔されたせいで、今日は自殺ができなかった」


 そう言うと彼女は栗村さんに似た顔で、栗村さんがしなさそうなほんの少しだけイタズラっぽい笑顔を見せた。




「だから、あんたの自殺も邪魔してやる」




 そう言うと彼女は何も言わずずんずんと前に進んでいった。

 今度は俺が拍子抜けした。


 本来ならば、さっきまで出していたぐらいの力で彼女の手を振り払うべきだろう。

 何故なら、俺は今から死ななければならないからだ。


 なのに俺は何故そうしない。

 こんなの間違っている。

 ……ははっ、本当に懲りないねぇ。

 やっぱ俺ってどうしようもない男だ。

 ごめん、栗村さん。


 そう心の中だけで謝罪し、自身の性分に諦めを覚えながら目の前の彼女にされるがままついて行った。


 それにしても彼女は……本当に自殺しようと思っていたのだろうか?

 俺の知っている自殺志願者像__栗村夢月とはかけ離れた行動を取る事ができる一見快活そうな彼女が、自殺という選択肢を取る程人生に追い詰められる意味が分からなかった。




「あの、どこまで行かれるつもりで……」


 行き先も告げず、ずんずんと歩き続ける彼女に対し、やや下手に出ながら話しかけた。


「帰る」


 振り返らずに答えた彼女の返答に疑問符が浮かんだ。


「はい? 帰るってどこに」

「家に決まってんでしょ」

「……俺はいつ解放してもらえるのかな?」

「逆に質問」



そう言うと、彼女は俺の手首を掴んだまま振り返った。



「私が今手を離しても、あんたは自殺しない?」

「……しない」

「へー、本当?」


 じっと目を見つめられ、思わず視線を逸らした。

 頼むから栗村さんと同じ顔でそういう事を言わないでくれ。


「ダメ。信用できない」

「ヒドいな……しかもはっきり言うね……」


 そう言うと彼女は意地悪そうに眉を顰めた。


「ヒドい? 名前も知らないような赤の、それも自殺スポットで出会った他人をさ、普通信用できると思う? 無理でしょ」


 ……確かに。

 何も言い返せず黙っていると、彼女はにんまりと口を開いた。


「そういう訳で私の家に強制連行しまーす」


 明るい声色といたずらっぽい笑顔に惑わされ、言葉の内容を理解するのに数秒を要した。珍しい。

 なるほど。この子、頭おかしいんだな。


「名前も知らないような赤の、それも自殺スポットで出会った他人を家に入れる事はいいのか? しかも俺、男だよ?」

「それであんたの自殺の邪魔ができるなら、別に良いよ」


 どんだけ俺の自殺を邪魔したいんだよ。

 何だよその執着心。凄いよ。


「それに、名前なら今教えてよ」


 あぁ、このタイミングなんだ。

 確かに名前聞かなきゃいけないけど、もっと早い段階で教えあっても良かったんじゃないかと思う。

 家に入れるつもりだったなら尚更だ。


 いやー、人が考える事や言いそうな事って、大体パターンがあるから、今までは何となく予想が付く事が多かったんだけどな。

 何でだろう、この人だけはよく分からない。


「これならただの自殺スポットで出会った他人になれるでしょ?」

「それ距離縮まってんの? ……まぁ、いいか」


 思わずツッコミを入れた後、咳払いしてから前を向いた。

 彼女は真剣な面持ちで俺を見ていた。

 笑っていない彼女は本当に栗村さんみたいで、どうしても鼓動が早くなってしまう。



「……佐伯満夜(さえきみちや)。君は?」



 そう言うと栗村さんに似つかぬ笑顔で彼女が答えた。



「私は柿本和葉(かきもとかずは)。よろしくね」



 彼女__柿本和葉の笑顔がとても眩しく見えた。

 栗村さんはきっと、こんな風には笑えないんだろうな。


 ダメだ、この人は予測がつかない。

 どうしよう。


 だがそんな予測から外れた存在を目の前に、どこかワクワクしている自分がいる。

 何だこれ。


「んじゃあ、行くよ!」


 そう言って前を向きなおすと、また俺の手首を引っ張って歩き始めた柿本さんに、内心疑問を抱きつつも、そのままついて行った。




 自然豊かで、正直なところ歩きづらい山道や砂利道をひたすら歩いた。

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 両脇は常に草木が生い茂っていて、景色が変わらない。

 結構遠いんだな。


 ……民家らしきものが全く見当たらない。


「家……結構遠いの?」

「いや、もうすぐ着くよ。私の家、自慢じゃないけど結構大きいよ」


 それは聞いてねぇ。つーか自慢だろ。

 大きな家どころか小屋ひとつ出てこない景色に疑心と不安が募りつつも、押し殺すように「そうなんだ」と言った。


「両親がそこそこ良いとこ育ちでねー、おかげでお金には困ってないけど……あ、着いたよ」


 相変わらず草木が生い茂る中、草と空の境界線あたりを見上げると、赤茶色の屋根が少し見えた。



「ここ……?」



 なるほど、確かに敷地面積は大きくて立派な家だと思う。

 だが、お世辞にも"良いとこ育ち"の環境には見えなかった。


 二階建になっているこの家の周囲には雑草が生い茂り、一階の外装が全く見えなくなっていたのだ。

 二階の外装と辛うじててっぺんだけ見える仕切りから、和風の屋敷である事、おおよその敷地面積は把握できるが、もっと肝心であるその敷地への入り口がどこか分からなかった。


 そんな俺の思考を見抜いたかのように、柿本さんは頷くと、雑草を掻き分けながら前に進んで行った。

 相変わらず手首を掴まれている俺はただやや前屈みになる程度の抵抗しか出来ないまま、柿本さんによって掻き分けられた雑草が跳ね返ってくるのを背中でやり過ごした。


 はぁ、ようやくドアが現れた。


 しかし、そのドアの前に来ても尚、家の外装がほとんど雑草で見えない。

 雑草は窓まで張り付いており、家と雑草の距離は0に等しい。

 正直、人が住んでいるのかどうかも疑わしいレベルだ。


「これが私の実家だよ」


 さも当然のように実家と紹介されたそれを見上げ、ギリギリの愛想笑いを浮かべる。

 何だ、この穏やかじゃない建物は。




「……ごめん。びっくりしたでしょう?」


 俺を無理やり玄関の中へ押し込み、ようやく俺の手首を離した柿本さんは、玄関のドアを施錠しながら聞いてきた。


 "びっくりした"ものの対象が多すぎて、どれのことを答えれば良いのか分からかったので、とりあえず「そうだね」と返事しておいた。


 廊下には辺り一面薄っすらと埃がついていた。

 本当に生活感のない家だ。

 柿本さんは「ごめん、あんま綺麗じゃないけど上がって」と言いながらスリッパを慌てて用意した。


「あ、ども……」


 そう言いながらスリッパを履くと、ふと柿本さんの足元に違和感を覚えた。

 裸足だったのだ。


 ……あれ? さっきまでサンダルとか履いてたっけ?

 そんなに着目していた訳ではないが、恐らくスニーカーを履いていたのではないだろうか。

 靴下は履かないのだろうか?

 というか履いていたとしたらいつ脱いだんだ。


 ふと、玄関を見下ろすと、女性物のスニーカーの中に両足まとめた靴下が丸めて入れられていた。

 やっぱり脱いで上がっている。


 人の家なので失礼である事は百も承知だが、この廊下はあまり綺麗ではない。

 裸足でウロウロするには、正直抵抗がある。

 せめてスリッパを自分の分も用意すればいいのに。


「柿本さん……足」

「下の名前で呼んでよ」

「あ、あぁ……えっと……和葉、ちゃん」

「んー?」



「足元、裸足でいいの? ろ、廊下……冷たくない?」



 汚れない? という言葉を飲み込んで指摘した。


「あぁ……あはは、大丈夫だよ」


 柿本さん……和葉ちゃんの笑い方に違和感を覚えた。

 何だ、その間。


「実は4ヶ月ぐらい前にね、お母さんが亡くなったの。それでおばあちゃんが精神的に参っちゃってね……なんて言うのかな、だから今、庭とか色んなものが放置状態なんだよね」


 何かを誤魔化すかのように和葉ちゃんが家の状態を説明した。


 母親の死……。

 俺は肉親を亡くした経験がないから分からないが、家族が亡くなるというのはさぞ辛い事だろう。

 ひょっとして、それが自殺の動機かな?


「そうか、それは辛かったね」


 そう同情を口にすると、和葉ちゃんはふっと笑った。


「……せいだ」

「え?」


 突然低くなった声色に驚き、何を言っていたのか聞き取れなかった俺は、目を見開いて和葉ちゃんの顔を見た。

 和葉ちゃんはまた笑っていた。


「何でもないよ」


 そう言った和葉ちゃんの笑顔には、憎悪と後悔の念が複雑に絡み合っていて、ゴチャゴチャとした感情達をうまく押し殺しきれていない事がありありと見えた。


 俺は


「そっか」


 と、そう一声返すのがやっとだった。


 まるで首筋に柔らかい綿のような物を何重にも纏って、そのままゆっくり、じわじわと、それでも各実に固く結んでしまうような、そんな苦しさを覚え、思わず掌を首元へやった。


 この一家は、きっと何かがおかしい。




「和葉」


 和葉ちゃんが自分の部屋に案内してくれると言うのでついて行き、階段を登り始めた時、ゆっくりとした聞き覚えのない声が背後から聞こえた。

 和葉ちゃんが反射的にビクつき、振り返ったのを見て、俺も慌てて振り返った。


 70〜80歳ぐらいかと思われる老婆が怪訝そうな顔でこちらを見上げていた。

 和葉ちゃんがさっき言っていたおばあちゃんだろうか。

 慌てて階段を降りて挨拶した。


「初めまして。えと……佐伯満夜といいます。突然、お邪魔してすみません」

「あら……」


 そう言って俺にお辞儀する和葉ちゃんの祖母に恐怖を感じた。

 目が笑っていない。


 和葉ちゃんも階段を降りて「さっきたまたま会ったんです」と笑顔で俺を紹介していた。

 敬語なのか。

 そしてやっぱり和葉ちゃんの祖母の目が笑っていない。

 空気は凍り付いていた。



「……和葉、後で私の所に来なさい」



 和葉ちゃんの祖母はそう言うと、俺達に背を向けて歩いて行った。

 気になって足元を見てみると、和葉ちゃんの祖母は、ちゃんと靴下もスリッパも履いていた。



「はい……」



 和葉ちゃんは今まで聞いた事のない弱気で勢いのない声で返事をした。

 青白い顔だった。




 何だこの家族は。本当に血が繋がっているのか?




 和葉ちゃんの祖母が完全に立ち去ったのを見送ってから、和葉ちゃんの方を向き直した。

 和葉ちゃんは俯いていた。

 よく見ると目を泳がせていた。


 今にも泣きそうな和葉ちゃんを見て、何も聞いてはいけない事を直感的に悟った。

 だけど。




「おばあちゃんと……なんかあったの?」




 俺はまたしても間違えてしまった。

 本来は出会ってすぐの人の家庭事情に踏み込むべきではないとは分かっていたが、聞いてみたいと思う気持ちを敢えて抑えなかった。


 その代償として、案の定気まずい沈黙が流れた。

 しかし、


「……あとで話す。とりあえず部屋に案内するね」


 そう言った彼女がようやく顔を上げて笑ってくれていた。

 俺は少し安堵した。

 まぁその笑顔は引きつっていたけれど。


 改めて和葉ちゃんが先頭に立ち、階段を登り始めた。

 俺は黙ってついて行った。

 和葉ちゃんもずっと黙ったままだった。

 先程までの威勢は姿を消し、俯きながら歩く彼女は、まるで栗村さんそのものだった。



 あぁ、やっぱり、彼女は綺麗だ。



 階段を登り終わると長い廊下をびっしりと埋め尽くすように障子があった。

 どの障子もところどころ破けている。

 手入れが行き届いていないのが勿体ないな。折角こんなに広い家なのに。


 俯いたままの和葉ちゃんについて行くと、一つだけ障子の開いた部屋があった。

 部屋をちらりと見ると、立派な仏壇が見えた。

 仏壇の中央には女性の遺影が綺麗に飾られていた。


 屋敷は全て埃まみれで、まるで手入れされていないのに、仏壇だけが妙に綺麗なのが気味の悪さを増幅させた。


「ここだよ」


 和葉ちゃんの声にハッとして、声のする方を見た。

 仏壇があった部屋から二、三部屋程奥にある部屋で立ち止まっている和葉ちゃんがようやくこちらを振り返っていた。

目は合わなかった。


 障子の端があちこち破けてボロボロになっている襖を開けると、女の子らしい可愛い家具が見え、少し安心した。

が、それも束の間、畳んで置いてある布団のすぐ近くの壁が凹んでいるのを見てしまった。

あれはどう考えても人が故意に殴った跡だよな。


「ちょっとお茶取ってくるね。寛いどいて」


 寛げるか! という反論も出来ぬうちに和葉ちゃんは部屋を出て行ってしまった。


 仕方なく、和葉ちゃんの部屋から襖とちょうど反対側にある窓の外を眺めた。

 遠く山の麓の方に俺が飛び降りようとしていたであろう川が見える。

 そうか、ここはもっと山奥なんだな。



 ……ははっ、こんな事ならさっさと死んでおけばよかったな。

 面倒な事に巻き込まれてしまった。

 やっぱりあの時、手を振り払うべきだったのだ。分かっちゃいたけど。

 あーあ、これでは成し遂げられないであろう栗村さんの願いが叶えられない。


 栗村さんは死にたいと思っている。

 でも、きっと彼女は、周りに流されたり面倒だとか因縁だとか意地だとかそんなものに邪魔されて自殺できないだろう。






 だから、俺が代わりに死ぬのだ。






 彼女の願いは俺が引き継ぐ。

 栗村さんはなんやかんやと生き延びながらそのうち幸せを見つければ良い。

 彼女にとって俺は、とっくに知人以下に成り下がっているだろうから。


 ドンッと、突然大きな音が脳髄に響いた。

 景色が歪んでいく事を認知する間もなく、俺は自分の頰に畳の感触を感じた。








 ふと目を覚ますと、目の前に果葉子がいた。

 別れた時の姿のままの中学生の彼女が、裏切られたような顔をしていた。


 あれ……なんだ、ここ……?


「そんな……ひどいよ……っ」


 果葉子はそう言って泣き出した。


 思わず、何か声を掛けようかと口を開いたが、声が出なかった。

 果葉子とも目が合わない。

 俺の事を見ているようで見ていない彼女の姿から現状を理解した。



 多分これ、夢なんだろうな。



 それにしても、ひどく懐かしい。

 いい思い出ではないけれど。

 ……いや、俺にとっては差し詰め悪い思い出でもないかもしれないな。

 こうやって泣いていたかつての彼女の事を、俺はまだ鮮明に覚えている。


 あの時の俺は間違っていた。

 そもそも果葉子と付き合う事自体が間違いだった。


 栗村さんの事が好きなら、俺はあの時__告白された時、きっぱりと断るべきだったのだ。

 それが普通だ。

 健全なる人間が人として取るべき行動だ。


 因みに果葉子も間違っている。

 あの時の果葉子が岬生への未練を断ち切れていないのは明白だった。


 そしてその間違いの全てに気付きながらも、告白を受け入れた俺は、本当にどうしようもない奴だったなと思う。



 そしてもっとどうしようもない事に、そうやって選択肢を誤った事を、俺はこれっぽっちも後悔していないのだ。



 俺は傷の舐め合いでしかない最低な関係も悪くないと思っていたけれど、きっとこれは一般的に言われる「幸せ」とは程遠いものだっただろう。


 果葉子にとっても、多分、俺にとってもだ。


 さらに付け加えると、幸せになれる選択肢が他にあるはずだという事は、中学生の時の俺にだってちゃんと分かっていたはずなのだ。



 ……はははっ、本当に救えない。

 救えないのは俺だけだったのかもなぁ。

 正解を知っているのに、わざと不正解を選んでしまう。


 何でだろうな。

 だが、素直に幸せな道を選ぶというのは、案外難しい事なのだ。

 果葉子も、そういう意味では同類だったんだよ。

 きっと無自覚な上に、指摘しても認めないんだろうけど。


 果葉子はどうだが知らないが、俺は今も尚、そうやって選択肢を誤り続けながら生きている。


 随分とまぁ、哀れむべき人間性だなと自分でも思う。

 だけど、別にそれでもいい。それでいいよ。


 俺はそれでいいとしても、果葉子は健全で至って普通の女の子だ。

 果葉子は俺の本心を知った時、さぞ残酷に思ったであろう。

 苦しかったであろう。


 でもさ、それはそんなどうしようもない男で妥協してしまった代償でもあると思わない?

 ……まぁ、俺が言える事じゃないけどね。


 きっと果葉子は、こんな俺の所為で必要以上に傷付いてしまった。

 だから。


 果葉子は俺の被害者だ。

 この事実は動かない。



 なぁ、果葉子。

 お前は俺を、一生許さないでいいよ。





「……ちや、満夜っ!」


 肩を強く揺さぶられ、脳が揺れたような衝撃に耐えられず、思わず目を開けた。



 ……目の前には果葉子……じゃなくて、和葉ちゃんがいた。

 あ、そうか。さっきのは夢だったんだよな。

 なんで急に寝ちゃったんだっけかな。

 ……あ、いや寝ていたんじゃない。気絶していたんだ。多分。


 ただいま、現実。

 そう思って起き上がろうとした刹那、頭に衝撃が走り再び倒れた。


「だ、大丈夫!?」

「……大丈夫、死んでないし」

「そういう問題? っていうか」


 和葉ちゃんが俺の頭にそっと濡れタオルを乗せてから聞いてきた。


「何で自殺しようとしたの?」

「…………」


 何故このタイミングだ。本当読めない人だな。

 ……面白い。


 自分でも分かっている。

 俺の自殺の動機は一般の人には理解し難いものである事も。

 俺の自殺が何の意味も成さない事も。


 そもそも、俺が自殺しようとした理由をこの人に話して、一体何になると言うのだろう。

 当然理解なんてされず、気色悪がられるのがオチだ。


 そんな数分後には起こるであろう悪いケースを想定した上で、俺は寝転がったまま和葉ちゃんにぽつりぽつりと自殺の動機を語り始めた。


 あ、俺、また選択肢を誤っているな。

 そんな事実を悟りながら。






「……何それ、そんなの間違ってるよ」


 俺の話を全て聞くなり、和葉ちゃんはそう言った。

 だよね。

 予想通りの反応に絶望しながらも薄ら笑いを浮かべると、うんうんと頷いた。

 そもそも、俺のこの反応が間違っている。




「でも、あんたは優しいね」




 そう続いた言葉に目を見開いた。


「優しい?」


 思わずそう尋ねると、和葉ちゃんは真っ直ぐ俺の目を見て頷いた。

 嘘のない瞳。

 その瞳に俺は自分の心を手で直接揺すぶられているような、そんな強い衝撃を受けた。



「だって、好きな人のために命をも掛けようとしたんでしょう? やり方は間違っていたとしても、それは優しいよ」



 それは予想外の言葉だった。

 今までこんなに予想に反した事があっただろうか。

 間違いを指摘しながらも、否定しないなんて。


 俺は心の中で渦巻く感情達を何一つ言葉にできないまま、ただ和葉ちゃんの姿を見つめていた。


「よし、決めた」


 そう言った和葉ちゃんは急に立ち上がると、俺を見下ろしながら得意げに口を開いた。






「あんた、放っておいたらすぐに自殺しちゃいそうだから、私がしばらく見張っておいてあげる!」



 またも予想だにしなかった言葉が落ちてきた。

 ……お前もな。

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