第15話 Enervation4:栗村 夢月の感情

他人の涙を初めて見た気がする。

私以外の人間は小さい子ども以外泣かないものだと思っていた。

こんな大人になっても泣くもんなんだな。案外、みんな。


涙の理由は私とは全然違うけれど、きっと本質的には大差ないのだろう。



松野は悪だ。

あいつのせいで何もかもが無茶苦茶になった。

だけど無茶苦茶にされたのは、どうやら私一人ではなかったらしい。

あいつなんて、本当に死んでしまえばいいのに。何で生きてんだよ。

あいつが死んでいれば、私も気兼ねなくとっくの昔に死ねたというのに。


あいつがもっと早く死んでくれてれば、赤城くんへの気持ちも、今の苦しみも、隣で誰かが泣く悲しみも、全部全部、味わずに済んだというのに。



悲しみ、かなしみ?


え。







え?



悲しみ、何で?

私は今、悲しいのか?


……悲しい。


そう考え出して止まらなくなった思考回路に、押し流されるように席を立った。


こんな感情も多分初めてだ。

私は今まで、一体どうやって、どんな想いを抱えながら生きてきたのだろう。

感情と呼ばれるそれらの大半を、感じずに生きてきた気がする。


ただ辛かった。

しんどかった。

息苦しかった。

胸の奥がどんよりと沈んでいて、重たかった。

そんな状態が自分にとっての普通だった。

一瞬でも、そうじゃなかった時なんてあったのだろうか。少なくとも思い出せない。


黒い霧で覆われた、虚無感と苦痛の中をぼんやりと歩き続けていた。

嬉しい、楽しい、悲しい、怒り。

そんな自分の感情なんて、意識した事がなかった。

そんな事を意識する余裕なんてなかった。




あーあ……、ははっ。

やっぱり栗村夢月って、つまんねぇ人間だな。

他人にも環境にも自分にすらも、流されながら生きている。

機械と何が違うんだよ。機械の方がよっぽど有能だろう。

嫌いだ。頼むから死んでくれ。


バーカ。



現状をそこまで把握しておきながら、私はまたしても、自分の明確な意思ではない何かに流されながら口を開いた。


「謝んなくて良い。そんな価値、ない。から」


途切れ途切れながらにそう言った。

ふと思った事を、そのまんま素直に言ってしまった。

どうしよう、伝わってんのかな。


けれど今までしてきた会話(瀬尾との会話は例外なので除外する)の時にいつもあったしんどさや、苦痛や自己嫌悪や心労による疲労は、不思議と感じなかった。

何でだろう?


「わがままじゃない、と思う。みんな、自分の事考えて生きてる。そういうもんじゃないの? わたし、 は……」


考える間も無く、ぽろぽろと言葉が零れ落ちていく。

え、大丈夫なのかな。


怖い。反応が、自分が、相手がどう思ってるのかとか。

こんなに何も考えず、私なんかが喋って、時間を取ってしまって良いのだろうか、とか。


いつもはそんな事を、喋る度に考えながら話しているのに。

ぐるぐるぐるぐる、巡り巡る思考に振り回されるように周りを見渡しては自分の発言を気にして、挙げ句の果てに、結局モゴモゴと口籠ったまま、何も言えなくなるのに。



「私は、松野が、というより……人が嫌いだった」



何言ってんだ、自分は。



「みんな死ねばいいのにと思ってた。でもそれ以上に、私が死にたかった」



止まらない。どうしよう。



「誰の言うことも、特に松野の言うことは何も聴きたくなかった。

下の名前で呼べとか教室から出て行けとか死ねとか全部全部全部、守りたくなかった……それだけ、それだけ」



瀬尾にすらひた隠しにしてきた自分だけの思考回路を、知り合って間もない飯田さんにぶちまけ続けていた。

こんなのは初めてだ。いいのかな。

誰かに、こんな黒い、汚い本音を吐露してしまうなんて。



「友達、いなかったから。昔から。瀬尾としか、喋ったことない。親ともあんま喋んないし。だから、その……」


言葉の紡ぎ方が分からなかった。

今までの人生の中で「会話」というものを経験しなさすぎた。

声を発さなかった代償として、気不味い沈黙が流れた。


自分の想いを声に変換するには、一体どうすればいいのだろう。

そもそも私の想いって、一体どこにあるのだろう。

今この瞬間、私は何を感じているんだ。

何を想って生きているんだ。




私は今、何をしているんだ。



飯田さんに話して何になる?

飯田さんにとって私の話は、なんか関係があるのか?

いや、違う、そうじゃなくて……じゃあ何なんだ。飯田さんに、違う、飯田さんの話を聞いて、私は、どう思ったんだ。え? あ。あれ?



そもそも、知り合いなんて瀬尾以外もういらないと思っていた。

はずなのに。

それでも、赤城くんが私から離れていった後、私は確かに泣き叫んでいた。


きっとその時、私は「悲しい」と思ったんだ。



こんな私でも、感情を認識できたのは、きっと。


「飯田さんが、話してくれて、赤城くんとも、会えて、嬉しかった。やっと、瀬尾以外とも、喋れた……」


喜怒哀楽という言葉が自分の中にもあったのだと、私はようやく気付く事ができた。

こんな私でも、自分の世界というものが広がった。

ほんの少し、それも他人から見れば狭くて汚くてドロドロとしたものなのかもしれない。

それでも、私にとっては確かに大きいことなんだ。


そして、多分それは、案外悪くはない事、だったのかもしれない。



私はカバンを漁ると、家のどこにあったかはもう忘れたが、適当に掘り出してきた、どっかのおしゃれな買い物袋を取り出した。


そして、飯田さんに差し出した。

飯田さんはきょとんとしていた。





……あ、なんか言わないと分かんないのか。

そりゃそうだな。



「あの、時……ファミレスで、貸してくれたから」



そう言うと飯田さんは私が渡した袋を開けて、中からハンカチを取り出してくれた。

飯田さんは、驚いた様に私を見た。


「その、ありがとう」


私は飯田さんの目を、しっかりと見て言った。

初めての経験に、腕が僅かに震えた。



あの時、飯田さんが渡してくれたハンカチは、その場で返してしまうと汚いかなとか、洗うべきかなとか、でも持って帰るのも迷惑かなとか、何か色々考えているうちに、返すタイミングを失ってしまい、結局持って帰ってしまっていた。


私が外に出るなんて事は、ソーシャルゲームで狙いのSSRが3回連続で出る程に珍しい事だから、もし、万が一タイミングが合えば返そうと思い、一応持って来ていた。


昨日、鞄に入れておいて良かった。

でも、よく考えたら家出る時に渡せば良かったかなぁ。

あの時は何かイライラしてて、そんな事すっかり忘れていたのだけれど。



「あ……あは、ごめん。そう言えば返してって言うの忘れてたね」


未だ涙を流しつつも、笑いながらそう言った飯田さんに釣られ、私も笑った。

あぁ、まただ。

誰かと笑いあったのなんて、今まで一度も。


すげぇ。


今日は何か、今まで知らなかった事をたくさん知った気がする。

今までの自分が、如何に狭い世界を生きていたのかも、漸く本当の意味で理解できた気がする。

そんな事、今までも分かっていたつもりだったけれど、違った。



他のものなんて、何も知らなかったくせに、自分の持っているものは、分かっている気になっていたなんて。

あー、どうしようもねぇ生き物だな、本当に。

いつかこの言葉を、過去形に出来る時は来るのだろうか。



ふと、飯田さんの後ろに人影を見た。

見覚えのある姿だった。

あーあ、せっかく和やかな空気だったというのに。


本当、空気読めねぇな。



「瀬尾」



人影の正体の名を呟くと、飯田さんは後ろを向き、瀬尾が来ていた事にようやく気付いたようだった。

僅かに驚いている事が、飯田さんの右肩から見て取れた。


飯田さんが少し泣いている事に驚いたのか、瀬尾がやや目を見開いた。

煩い声を上げそうだったから、阻止すべく言葉を紡ごうとした。


その時、



ピリリリリ、ピリリリリ、ピリリリリ。




スマホのコール音が鳴った。


全員が同時にビクついた後、音の主が分かったらしい飯田さんが自身の鞄の中からスマホを取り出した。



「もしもし?」



飯田さんが私達から少し距離を置いて、電話し始めた。

すると瀬尾は、逆に私に少し近寄って話し掛けてきた。


「あいつと和解できたか?」


は? なんだこいつ。

私と飯田さんの間柄なんて、お前に説明してなかったってのに。

つーか白々しいんだよ、イラつくな。


「お前、どうせ一部始終全部見てたんだろ」


そう矢を射ると、瀬尾が分かりやすくドギマギした。

相変わらずバカだな、こいつ。


私が言い放った解答は、答え合わせのされないまま刹那、沈黙が流れた。




しばらくして口を開いた瀬尾は、




「……お前もさ、人を好きになるとかいう感情ちゃんとあったんだな」



そう、模範解答ではない一言をぶっ放してきた。


「失礼な奴だな!」


そう言うと「いや、安心したっつったんだよ」とかいう、瀬尾の訳の分からない言い訳を無視して、肩や背中を何度も殴打した。


本当、何なんだこいつ。




そんなくだらない無駄話をしていると、すぐに戻ってきた飯田さんの顔に、思わずハッとする。

戻ってきた彼女は、泣きそうな顔をしていた。

まだ辛うじて涙を押し殺せてはいるものの、何やら、非常に切羽詰まったような様子だった。

少しだけ冷や汗もかいている飯田さんに、「どうした?」と瀬尾が私の代わりに瀬尾が事情を聞いてくれた。


「束沙がなんか……急に電話してきて。なんか、良くわかんないけど今からここに来るんだって」


そう言った飯田さんは、左手で胸元を押さえつけていた。

胸元を渦巻く不安に、蓋をするような仕草だった。



すると、飯田さん以上に切羽詰った様子で女の人が走ってきた。

反射的に身構える。

真っ正面から何かが突進してくるのって、怖くない?


だがその女の人は、私に激突することなく、飯田さんの手前で止まった。

どうやら飯田さんの知り合いらしい。名前を呼びあっていたが、イマイチ聞き取れなかった。

さっき電話していた相手なのだろうか?


飯田さんの知り合いらしい彼女もまた、泣いていた。

何なの今日。全日本女の子泣き顔選手権大会かなんかでもあんの? みんな泣きすぎでしょ(もちろん自分の事は棚上げだ)。


「吏沙……!? 何、どうしたの、何で泣いて」

「み、岬生が…………!」


「束沙」と呼ばれた彼女から、意外な名前が飛び出した。

飯田さんの肩が、分かりやすく強張った。

この公園に突如として漂い始めた緊迫感に、吐き気がした。

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