言えないヒトコト

志月さら

言えないヒトコト

 姿見をじっと見つめて、綾音は自分の恰好を全身くまなくチェックした。

 買ったばかりのワンピースに短めのソックスを合わせ、髪は軽く巻いてハーフアップに。メイクをするかどうか迷ったけれど、眉を整えて色付きリップをつけるだけにしておいた。

 今日のことを話したら友達がメイク道具を一式貸してくれたが、自分ではちゃんとやったことがないので自信がなかった。失敗して変なことになったら嫌だし、何より学校では毎日すっぴんの顔を見られているのだ。

 可愛いとは思われたいけれど、変に気合いを入れすぎて引かれたくはない。


「……よしっ」


 鏡に映る姿にひとまず納得して、小さく頷く。お気に入りのショルダーバッグを掴んで、ふと時計を見るとすでに家を出なければいけない時間を過ぎようとしていた。ばたばたと慌てて部屋を出る。

 焦りながらも出かける前にきちんとトイレを済ませて、履き慣れたぺたんこの靴に足を入れる。

遅刻するわけにはいかないが、走ってうっかり汗だくになりたくもない。

 今日は、桜木綾音さくらぎあやねの人生至上もっとも大切な日――初デートの日なのだから。

 綾音はできる限りの早足で、待ち合わせ場所である駅前に向かって歩き出した。


***


「先輩、お待たせしました! 遅れてすみませんっ」

「おはよう、綾音ちゃん。俺もさっき来たばかりだから」


 軽く息を切らせた綾音が待ち合わせの時間に数分遅れて着くと、先に来ていた柚樹は柔らかく微笑んで彼女を迎えてくれた。


「そんなに急いでこなくて大丈夫だよ。せっかく可愛い恰好してきたんだから、転んだりしたら大変だ」

「は、はい……あ、えっと、先輩も私服、素敵です!」


 さりげなく可愛いと言われてしまい、一気に頬が熱くなる。思わず目を逸らしてしまいそうになってから、慌てて口を開いた。

 初めて目にする彼の私服姿。爽やかな水色のシャツがよく似合っている。


「ありがとう。じゃあ行こうか」


 はい、と頷いて歩き出すと柚樹はそっと彼女の手を取った。あまりにも自然に手を繋がれたことに内心どぎまぎしながら、綾音はその手を握り返した。心臓がドキドキして、手のひらにしっとりと汗が浮かんでくる。

 どうしよう、手を離したほうがいいかなと戸惑っていると柚樹は優しい表情を向けてきた。


「そんなに緊張することないよ」

「あ、す、すみませんっ。手汗が……っ」

「俺は気にしないよ。それより綾音ちゃんと手繋いでいたいから。嫌?」


 そんなことを言われると嫌だとは答えられない。綾音は小さく首を振って、赤く染まった顔を隠すように俯いた。



 彼――一条柚樹いちじょうゆずきと出会ったのは去年の夏休みだった。

 まだ中学生だった綾音が訪れた高校のオープンスクール。トイレの場所がわからなくて迷ってしまい、挙句の果てにおもらしをしてしまったのだ。それも、彼の目の前で。

 頭の中が真っ白になった綾音に彼は手を差し伸べてくれて、保健室まで連れていってくれたり、彼女が粗相をしてしまったことを他の生徒に知られないようにフォローしてくれたりした。


 物凄く恥ずかしかったけれど、優しくされたことはとても嬉しくて。その後も何かと気にかけてくれた彼に惹かれるのに時間はかからなかった。

 彼と同じ学校に通いたくて、受験勉強を頑張ってなんとか合格した。

 入学してから彼が今年度の生徒会長だと知り、少しでも近付くために生まれて初めて自分から生徒会役員に立候補した。面倒くさそうな役割を自分からやりたがる人は一年生の中にはほとんどいなかったようで、綾音は無事に生徒会に入ることができた。


 そして、五月の大型連休が明けたばかりのつい先日。放課後の生徒会室で偶然二人きりになったとき――柚樹に告白したのだ。

 半年以上、一人で抱え続けていた想い。伝えるのはいましかないと思った。

 ほんの少し面識があるだけの入学してきたばかりの後輩に、勝算があるとは考えていなかったけれど。それでも、どうしてこの高校に入学したのか。どうして、生徒会に入ったのか。その理由を彼に知ってほしかった。


 必死に言葉を紡いで、そして、告げた。――好きです、付き合ってください、と。

 正直、断られるかもしれないと思っていた。突然告白なんかして、彼のことを困らせてしまったかもしれないとも。けれど彼からの返答は信じられないことにOKで、思わず泣き出してしまって、結局彼のことを少し困らせた。でも、本当に泣いてしまうくらい嬉しかったのだ。

 こうして、晴れて恋人同士になり、この週末に初デートの日を迎えたわけなのだが――。



 綾音は緊張した面持ちで、柚樹の隣に並んでショッピングモールの中を歩いていた。

 バスに乗るときに離した手は、ショッピングモールに着いてもそのままだった。

 近場の遊びスポットとして顔見知りに遭遇する確率も高いこの場所で、堂々と手を繋ぐのは気恥ずかしいので実は少しだけほっとしている。

 どこを見るのでもなく賑わう店内の通路をゆっくり歩きながら、綾音はちら、と柚樹の表情を窺った。待ち合わせのときからドキドキしっぱなしの綾音と違って、彼の様子は普段と変わらないように見える。綾音にとっては文字通り人生初のデートだが、二つ年上の彼にとってはそんなことはないのかもしれない。


 貰い物の前売り券があるから映画に行かないかという誘いを受けて、日曜日が来るのを心待ちにしていたはずなのに、いざ彼と会ってデートだということを意識するとどうしても緊張してしまう。学校ではもう少し気軽に話せていたのに、今日はほとんど口を開けずにいた。


「さて、時間あるけどどうしようか……」


 柚樹がふいに思案するように呟いた。

 映画館で前売り券とチケットを引き換えたが、近い上映時間の回は座席がほとんど埋まっていたのだ。二人並んで座れる席は前方しか空いていなかったため次の回を予約したのだが、三時間近く時間が空いてしまった。


「綾音ちゃん、どこか見たい店とかある?」

「い、いえ、とくには……先輩が行きたいところあれば、どうぞ」

「俺もどうしてもってところはないかな。とりあえず、ぶらぶら見てようか」

「そうですね」


 柚樹に従って広いショッピングモールの中を歩き、気になった店に入っては商品を見ていく。何度も来たことがあるショッピングモールでも、彼といるとなんだが新鮮に感じた。

 店内を見て回っているうちに、いつの間にか緊張もほぐれていく。とくに何を買うわけでもないが、柚樹と話をしながら雑貨や洋服を見るのは楽しかった。彼の好みもさりげなくリサーチしたので、今後誕生日プレゼントなどを選ぶときには参考にできそうだ。

 レストラン街が見えてきて、柚樹はふと腕時計に視線を移した。


「少し早いけど、そろそろお昼食べようか?」

「そうですねっ」


 彼の提案に、反対することなく頷く。まだ十一時半を過ぎたばかりだが、お腹はほどよく空いている。正午を過ぎると混むだろうから、いまのうちに店に入ればちょうどいいかもしれない。


「綾音ちゃん、食べたいものある?」

「なんでも、先輩が食べたいもので大丈夫です」


 何の気なしに応えると、柚樹は微かに苦笑したように見えた。


「……洋食と和食だったらどっちが好き?」

「えっと、洋食、です」

「俺も。じゃあ、ここにしようか」


 レストラン街を歩きながら、彼が選んだのは雰囲気がおしゃれなわりにリーズナブルなレストランだった。綾音も家族や友達と何度か入ったことがあるので、変に気負う必要はない。


「ここでいい?」

「はいっ」


 店内に入ると休日ということもあるのか、すでにかなり混んでいるように見えたが、すぐに空いているテーブルに案内された。

 メニューを開いて、綾音は熟考した。以前に来たときとランチセットの内容が変わっていて、どれにするか悩んでしまう。なんとか選択肢を二つまで絞ったが、どちらにするべきか。


「決まった?」

「ええと、ローストポークかハンバーグで迷ってて」

「どっちもおいしそうだから迷うよな。俺はローストポーク頼むつもりだったから、一口交換しようか?」


 柚樹の提案に、綾音はぱっと顔を輝かせた。


「いいんですか?」

「もちろん」

「じゃあ、ハンバーグにします!」


 店員を呼んで注文を伝える。セットのサラダとライスはすぐにきたが、メインの料理が運ばれてくるのには少し時間がかかるみたいだった。けれど、サラダをつつきながらとりとめのない話をしていると待ち時間はあっという間だった。

 焼き立てのハンバーグは湯気を立てていて、口に入れると肉汁とデミグラスソースの味が広がった。食感も柔らかい。


「おいしい……」

「こっちもおいしいよ。食べる?」

「ありがとうございます。先輩もどうぞ」


 一切れ食べさせてもらったローストポークも肉が柔らかく、ハニーマスタードソースがさっぱりしていておいしい。

 食事は和やかに進み、食後に出てきた紅茶を綾音は何も考えずに飲み干してしまった。



「そろそろ映画館に行こうか」


 昼食を終えて、お腹を落ち着かせてから再び店内を見て歩いていたが、気が付けば上映時間が近付いていた。まだ時間には少し余裕があるが、ショッピングモールの中は広いので映画館までは少しだけ距離がある。


「飲み物買ってくるね。綾音ちゃんはいる?」

「私は大丈夫です」


 売店に向かいながら訊ねられ、綾音は小さく首を振った。トイレが心配なのでいつも飲み物は買わないようにしている。柚樹がドリンクを買うのを待っていると、ちょうど入場開始のアナウンスが流れてきた。


「じゃあ行こうか」

「は、はい」


 チケットを出し、スクリーンに向かって歩いていく。目的の五番スクリーンの手前に化粧室の案内表示を見かけ、綾音は歩調を緩めた。席に着く前にトイレに行っておきたい。


「あの、先輩……」

「ん?」

「え、えっと、私、その……」


 先にお手洗いに寄っていきますね。そう、一言口にすればいい。けれど柚樹に見つめられると言葉が出てこなくなり、もごもごと唇を動かしてしまう。


「ああ、トイレ行っておく?」


 少し恥ずかしいが、彼は綾音の言いたいことを汲み取ってくれたみたいだ。


「は、はい……」

「俺もこれ置いてから行くから、先に行っておいで」


 柚樹に促され、綾音は小さく頷いてトイレに足を向けた。

 女子トイレに入ると何人か順番待ちができていて少し焦ったが、タイミングよくいくつかの個室が空いたのでさほど待つことなく入ることができた。

 下着を下ろして便器に腰かける。ほどなくして、水音が陶器を叩いた。

 擬音装置の流水音に混ざって勢いのいい水音が耳に入ってくるのを感じながら、ほっと息をつく。そういえば、家を出る前に済ませたきりだった。

 本当は食事の後からずっと尿意に気付いてはいたのだが、言い出すタイミングが見つからずにいた。映画を見る前にトイレに行けてよかったが、自分からきちんと言えたわけではないのでなんとなくきまりが悪い。


 恥ずかしくても、トイレに行きたくなったらちゃんと柚樹に言えるようにならないと。

 彼の前で去年のような粗相はもう二度としたくないし、するわけにはいかない。

 ふと腕時計を見ると、もう上映時間が迫っていた。

 膀胱の中を空っぽにして、綾音は急いでトイレから出た。

 少しだけ急ぎ足でスクリーンの中に入るが、幸い場内はまだ明るかった。

 チケットを見ながら指定された席に向かう。真ん中より後ろ寄りの端から二番目の座席。行ってみると、手元のチケットに書かれた数字の席には柚樹がすでに座っていた。

 一瞬困惑してしまったが、人の気配に気付いたのか柚樹がこちらに顔を向けた。


「ああ、綾音ちゃん。席そこだよ」

「えっと、逆じゃ……?」

「ごめん、チケット間違えて渡しちゃったみたいで。端がいいって言ってたよね?」

「は、はい。言いました」


 座席を取るときに希望を訊かれて、できれば端の席がいいと答えたら、柚樹は出入り口から近いほうの席を端から二つ取ってくれたのだ。そのとき綾音の分のチケットを渡してくれたが、どうやら手元のチケットは彼の座席のもののようだ。


「こっちの席のほうがいい?」

「い、いえ、こっちで大丈夫です」


 腰を浮かしかけた彼に慌てて応え、隣へ腰を下ろした。頬が少し熱くなったが、ほどなくして場内が暗くなったので彼には気付かれずに済んだ。

 映画の予告が映し出されるのを眺めながら、ちら、と横目で柚樹のほうを窺う。


(トイレ長いとか、思われてないかな……)


 綾音のほうが先にトイレに入ったのに、彼よりも遅く出てきてしまったことがなんとなく恥ずかしいのだが、柚樹は気にしていないだろうか。女子トイレは少し混んでいたし、女の子のほうが用を足すのに時間がかかってしまうから仕方のないことだとわかってはいるけれど。


(あんまり気にしてちゃだめ、だよね。せっかくデートなんだから、楽しまなきゃっ)


 気恥ずかしい気持ちを振り払うように気分を切り替え、綾音は目の前のスクリーンに集中することにした。



 柚樹が誘ってくれた映画は人気のファンタジー小説を映画化したものだった。綾音も小学生の頃から大好きな小説だったが、柚樹にそのことを話したのは複数人での雑談中に少し言っただけだった。そんな些細なことを覚えていてくれたことが嬉しい。

 映画化することは知っていたが、実は観に行くつもりはなかった。映画館には少し苦手意識があるからレンタルを待とうと思っていたのだけれど、柚樹に誘われたら断るという選択肢はなかった。


 綾音は目の前の大スクリーンを夢中になって観ていた。

 何度も何度も繰り返し読んでいた物語。脳内で想像していたものとほぼイメージ通りの映像が画面には映っていた。

 不思議な世界に迷い込んでしまった少女が、そこで出会った不思議な生き物――喋る猫や動く人形、フードで顔を隠した少年とともに、元の世界に戻るために冒険の旅に出るという話だ。

 迫力のある演出や卓越した演技に見入ってしまい映画の世界に浸っていた綾音だが、ふと下腹部の重さに気付いて、気持ちが現実に引き戻されてしまった。


 どうして、さっきちゃんと済ませたはずなのに。

 上映前にトイレに行っておいたにもかかわらず、想定よりも早く催してしまったことに戸惑う。少しして、食後に紅茶を口にしてしまったせいだと気が付いた。食事の最中には水にも口をつけていた。せめて紅茶を全部飲まずに残せばよかったのだが、そこまで気が回っていなかった。

 我慢できるだろうか。

 不安に思いながら目の前のスクリーンに集中しようと意識する。途中で席を立ちたくはない。こっそりと膝を寄せて、ぎゅっと力を込めた。

 ストーリーを追うことでしばらくは意識を逸らすことができたが、だんだん余裕がなくなってきた。すぐにトイレに行けないときほど余計に尿意が膨らんでくるような気がしてくる。お腹の奥がずっしりと重たくなっていた。


(……どうしよう、我慢できるかな……?)


 もじもじと膝を擦り寄せて、時折襲い来る尿意の波に耐える。あまり大きな動きをして隣に座っている柚樹にばれてしまうと恥ずかしいから、こっそりと。

 トイレに行きたい。映画、あとどのくらいかな。上映時間は二時間とちょっとだから、まだ大分ありそう。おしっこしたいな。我慢できるかな。終わったらすぐにトイレに行かないと。でも切羽詰まった状態で柚樹先輩に言うのは恥ずかしいな。……途中で、抜けちゃおうかな。


 悶々と考えながら画面を眺めていたが、内容は全然頭に入ってこない。映画に対する集中力はすっかり薄れていた。

 じっとりと、嫌な汗が浮かんでくる。

 できればいますぐにでもトイレに駆け込みたいのだが、途中で席を立つことにはどうしても抵抗感がある。

 じっと座っていることがつらくなってきて、綾音は小さく身体を揺すった。爪先を動かしたり、膝を寄せたり、太腿を軽くさすってみたり。何をしても尿意は薄れてくれない。


 おしっこしたい。トイレに行きたい。お腹が苦しい。早くすっきりしたい。

 気が付くと、綾音の頭の中はおしっこがしたいということでいっぱいになっていた。

 こそっと隣の柚樹を窺う。彼の視線はスクリーンに向いていて、綾音のほうを気にしているようには見えない。綾音は、鞄で隠しながらそっと太腿の間に片手を挟んだ。

 暗がりなのをいいことに足の付け根をぎゅうっと押さえてしまう。ほんの少しだけ楽になったが、今度は逆に手を離せなくなってしまった。この手を離してしまったら、我慢しているものが溢れてしまいそうで――。


(どうしよう……終わるまで我慢なんて絶対無理……!)


 映画はやっと後半に差しかかったというところだろうか。下腹部の奥、膨らんだ水風船はすでに限界を訴えていた。このままではあと十分ともたないかもしれない。

 ――脳裏を過るのは去年のこと。まさか再び彼の前で粗相をしてしまうわけにはいけない。

 意を決して、綾音はそっと席を立った。

 柚樹に声をかけるか迷ったけれど、「トイレに行ってきます」とこっそり告げるのも恥ずかしくて仕方がない。


(すぐに戻ってきますから……っ)


 心の中で言い訳しつつ、綾音は物音を立てないように急ぎ足で出口に向かっていった。出入りしやすい端の席を取ってもらえてよかったと心の底から実感しながら。


(漏れちゃう、早く、早くっ)


 大きな音を立てないように気を付けつつ扉を開けて、綾音は通路に飛び出した。上映中の通路に人気はなく、人目がないのをいいことにワンピースの前を両手で押さえながら女子トイレに足を向ける。

 お腹の奥に溜め込んだ水分は少しでも気を抜くといまにも飛び出してしまいそうで、トイレに入っても気を緩めないようにして一番手前の個室に飛び込んだ。


(まだだめっ)


 ばたばたと小さく足踏みしながら、出口を押さえつけていた手をなんとか離して下着を引き下げる。腰を下ろした途端、しゃあぁっ、とおしっこが勢いよく溢れ出した。


「は、ぁぁ……」


 思わず熱いため息が漏れる。よかった、間に合った。

 我慢していたおしっこの勢いは凄くて、激しい水音を立てている。


(すごい……いっぱい出てる……)


 上映前にトイレを済ませてから一時間半程度しか経っていないというのに、水音はなかなか止まなかった。音消しをするのを忘れていたと終わりかけになって気付いたが、他の個室は空いていた気がするから誰に聞かれることもないだろう。

 すっかりお腹の中が軽くなって、綾音は再び息をついた。意地を張って我慢し続けて、おもらしをするような羽目にならなくてよかったと安堵する。


 すっきりした気持ちで水を流して、トイレから出た綾音は静かに座席へ戻った。

 一瞬、柚樹がこちらを見たような気がしたが、気付かなかったことにしてスクリーンに視線を移した。なんとなく気まずいが、この場で弁解するわけにもいかない。

 映画はクライマックスに突入していた。途中で席を立ってしまい、そもそもその前も集中して観ることはできないでいたが、原作を読んでいたおかげで展開にはついていくことができる。


 残りの数十分は落ち着いて画面に見入り、エンドロールが流れ終わるまで座席を立つことはなかった。

 客席の電気が点き、観客は次々と席を立っていく。周囲に流されるように、綾音と柚樹も席を立った。


「面白かったね。小説のほうも読んでみようかな」

「は、はい。図書室にもありますけど、私持ってるのでよかったら貸しますよ」

「そうなんだ。じゃあ貸してもらおうかな」

「はいっ」


 柚樹は何事もなかったかのように話しかけてくれるが、綾音は勝手にいたたまれない気持ちを感じてしまい、思わず口を開いた。


「……あ、あのっ。途中で、席立っちゃってすみませんでした」

「ああ、全然構わないよ。少し長かったもんな。俺もちょっとトイレ行ってくるね」

「あ、はい。待ってますね」


 男子トイレに向かう柚樹を見送り、綾音は他の人の邪魔にならないように壁際に移動した。

 一人になった途端、つい、小さなため息が漏れた。

 柚樹はいつもと変わらない優しい態度でいてくれたが、本心はわからない。もしかしたら呆れられたかもしれないし、そうでなくても、映画の途中で席を立つほど切羽詰まっていたと知られてしまったことが恥ずかしい。

 それでも、漏らすよりはマシだったと自分に言い聞かせる。万が一、映画館の椅子を汚していたら更に迷惑をかけることになっていただろう。


 柚樹を待ちながら、綾音はちら、と女子トイレに視線を移した。

 上映終了直後ということもあってか、トイレの外にまで列が伸びている。映画が終わるまで我慢して、ここに並んでいたら確実に間に合わなかっただろう。そうならなくてよかったと考えていると、なんとなくお腹の奥がむずむずした。

 トイレに行きたいような気がする。――いやいや、きっと気のせいだと綾音は内心頭を振った。

 少し前に済ませたばかりなのだから、こんなに早く行きたくなるわけがない。それに、柚樹には待っていると言ったのだから急にいなくなったら困らせてしまうだろう。何より女子トイレは混んでいる。モール内にはいくつもトイレがあるのだから、本当に行きたくなったらそのときに行けばいい。

 思った通り、さほど時間が経たないうちに柚樹はトイレから出てきた。


「お待たせ。このあとどうしようか?」

「ええと……」


 言葉に迷いながら、綾音は上目遣いで彼を窺った。当初の予定では映画の後に昼食のつもりだったが、先に済ませてしまったのでとくに予定はない。だが、このままお別れするのは少し早すぎる。せっかく休みの日に学校の外で会っているのだから、もう少し彼と一緒に過ごしたい。


「もしよかったら、もう少しお話ししたいです」

「そうだね、俺もそう思ってた。カフェかどこか入ろうか」

「はいっ」


 柚樹が同意してくれたことが嬉しくて、思わず顔がほころぶ。

 ひとまず一番近くのカフェに足を向けたが、混んでいて空席はなさそうだった。いくつかのカフェやファーストフード店などを回ってようやく空席を見つけたコーヒーチェーン店に入った。

 カウンターで飲み物を頼み、向かい合って座る。

 柚樹はアイスコーヒーを頼んでいたが、綾音はなるべくトイレに行きたくならないものをと考えてホットココアにした。ゆっくりと飲みながら、彼との他愛のない会話を楽しむ。


 先ほどの映画の話から始まり、好きな映画や本の話、学校での出来事など。一度話し始めると話題は尽きなくて、あっという間に時間が過ぎてしまう。


「へえ、綾音ちゃん、お菓子作るの好きなんだ?」

「はい。中学のとき家庭科部だったんですけど、家でも色々作ってみるようになって……あの、先輩、甘いものは苦手ですか?」

「普段はあまり食べないけど、綾音ちゃんが作ってくれるなら食べたいな」

「本当ですか? 嬉しいですっ。今度作ってきますね!」

「楽しみにしてる。ああでも、学校だと他の人に食べられそうだな……」


 デートのときがいいな、とさらっと言われ、綾音は頬を染めて小さく頷いた。


(……あ)


 ふいに、お腹の奥がじんと疼いた。Mサイズのココアはほとんど飲み切ってしまったし、映画の途中で手洗いに立ってからは時間が経っている。名残惜しく思いながらも、綾音はそっと口を開いた。


「あの、先輩、そろそろ……」

「ああ、もうこんな時間か。ちょっと長居しすぎちゃったね」


 腕時計を見て、柚樹は仄かに苦笑した。


「今日はもう帰ろうか」

「はい……」


 店内を出て、綾音はさりげなく周りを見渡した。トイレ、トイレ、トイレ。トイレ、どこだろう。まだ多少の余裕はあるが、それでも帰る前に寄らせてもらわないと、家に帰るまでは我慢できない。

 歩きながらようやく見つけた手洗いの表示に視線を向けると、女子トイレには長い列ができているのが見えた。あそこに並ぶと柚樹をかなり待たせてしまうことになる。それは申し訳ない。


 他に空いていそうなトイレを見かけたら声をかけよう。そう思って、平静を装って足を進める。

 フロアの端から、入口に一番近いエスカレーターまで歩いていく。女子トイレを見かけるたびにそっと視線を向けるが、もう夕方の時間帯とはいえ休日のショッピングモールのトイレはどこも混んでいそうだった。

 言い出せずにいるうちにエスカレーターに乗ってしまう。歩いているときはまだ平気だと思ったのに、じっと立っていると一気に尿意の強さを感じた。前に立っている柚樹に気付かれないように、ワンピースの上からこっそりと出口を押さえてすぐに離した。ほんの一瞬だけ楽になったけれど、じわじわと切羽詰まってきていることを実感する。


(早く、トイレ行かないと……恥ずかしいけど、先輩に言わなきゃ……)


 じいっと柚樹の背中を見つめる。彼は視線に気付くことはなく、ゆったりとした足取りでエスカレーターから降りた。そのまま、下の階へ下りるエスカレーターに向かって歩いていく。


「あ……」


 声をかけようとして、すぐに口を噤んでしまった。

 だめ、恥ずかしい。声が出ない。

 何も言えないまま、綾音は柚樹の後ろについていった。三階から二階へ、二階から一階へ。

 エスカレーターを降りて、あとは出口まで歩いていくだけ。ワンピースの裾を両手でぎゅっと握って、彼の隣で懸命に足を動かす。お腹の奥がたぷんと揺れた。


 どうしよう、言わないと。お手洗いに行きたいですって、ちゃんと言わないと。

 足取りが重たくなってくる。柚樹と少しだけ距離が開いて、ふいに彼は足を止めた。


「綾音ちゃん? どうした?」

「あ、あの……っ、先輩、私……っ」


 綾音が追いつくのを待ってくれた柚樹の顔を見上げて、唇を開く。

 足元は落ち着かなくて、じっとしていられずにもじもじしてしまう。

 どうしよう。どうしよう。この先の言葉を口にしないといけない。ちゃんと、行きたいところを言わないといけない。でもどうしてもその言葉を口にすることができない。トイレに行きたいと告げるということは、つまり、もうおしっこが我慢できないと彼に伝えるのとおんなじことで。

 そう意識してしまうと喉が凍りついてしまったかのように言葉が出てこなかった。

 だって、好きな人の前で「おしっこしたい」なんて言える女の子はいない。


「……っ」


 言葉が続かなくて、思わず俯いてしまう。どうしよう、泣きそう。


「綾音ちゃん? ……もしかして、トイレ?」


 小声で訊ねられて、瞬時に顔が熱くなった。声を発することができず、ただぎこちなく頷く。


「ええと……あっちだね、行こうか」


 柚樹に促されて、一番近くのトイレに足を向ける。

 気付いてもらえてよかったけれど、それ以上に恥ずかしい。それほどまでに我慢しているのがわかりやすかったのだろうか。自分の言葉でトイレに行きたいと言えないことに呆れられていないだろうか。せめて、これ以上に恥ずかしい思いをすることは避けないと。せっかく気付いてくれたのに、間に合わなければ元も子もない。

 トイレには着いたけれど、女子トイレの前には順番待ちの人が何人もいた。やはりここも混雑しているみたいだ。思わず柚樹の顔を窺う。


「待ってるから、行っておいで。時間かかっても気にしなくていいから」

「……はい」


 小さく頷いて、綾音はトイレ待ちの最後尾に加わった。

 女子トイレの外にまではみ出して伸びている列。一体どのくらい並んでいて、あと何分待てば中に入れるのか想像もつかない。綾音は片手でバッグの肩紐を、もう片方の手でワンピースの裾をぎゅうっと握り、身体を小さく揺すりながら自分の番が回ってくるのを待った。通行人や、何より柚樹の目があるため大きな動きをするわけにはいかない。


 女子トイレの中にはわりと早く入ることができたが、前にはまだ何人も並んでいる。まだかな。早く入りたい。早く、おしっこしたい。

 もじもじと膝を擦り合わせながら、一人、また一人と列が進むたびにそっと足を前に動かした。


「……っ」


 ふいに、ぞくぞくとした寒気が走り、綾音は思わずワンピースの裾を握っていた手を前に持ってきてしまった。ぎゅ、と押さえる。少しだけ波が遠のいたが、一度手で押さえてしまうともうだめだった。離すことができない。それほどまでに切羽詰まっているのだと改めて自覚する。でも、トイレにはまだ入れない。


(早く、早くして……漏れちゃう……)


 全ての扉が閉まっている個室を恨みがましく見つめる。綾音の前に並んでいる女性はあと三人。

スマホを触っていたり、鏡を気にしたりしながら順番を待っている。

 そんなに行きたいわけじゃないのかな、とつい思ってしまうが、それだったらこんなに混んでいるトイレにわざわざ並びはしないだろう。

 異性の目から逃れた空間でも、大半の女性は平然と待っていられるのかもしれない。幼い子どものように、前を押さえておしっこを我慢しているのは綾音ひとりだけだ。


(あと、少し、もう少しだけだから、頑張って……っ)


 また一人トイレから出てきて、綾音の前にいるのはあと二人だけだ。あと少し。あと少し我慢すれば、おしっこできる。

 また一人、扉が開いて先頭の一人が入れ替わりに入る。

 あと少し。あともう少し。

 張り詰めたお腹が苦しい。どうしてこんなにおしっこがしたいのか、自分でもわけがわからなかった。映画を見ていたとき以上にしんどい。早く、トイレ空いて。おしっこさせて。

 ざあ、とトイレを流す音が聞こえた瞬間、じゅ、と下着が熱くなった。


「やっ……」


 思わず、焦った声が口から出た。必死に手で押さえて、前屈みになって、それ以上の決壊を押しとどめる。だめ、まだ出てきちゃだめ。こんなところでおしっこをしてはいけない。懸命に自分の身体に言い聞かせる。

 一番奥の個室の扉が開いて、綾音よりも年下らしき少女が出てくる。

 綾音の前に並んでいた女性はすぐに個室に入らず、こちらを振り向いて遠慮がちに口を開いた。


「あの、よかったら先にどうぞ」

「……すみませんっ」


 トイレの順番を譲られたことを恥ずかしく感じながらも、綾音にその好意を断る余裕はなかった。小さく頭を下げて彼女を追い越す。じわじわと下着が濡れてくるのを感じながら、個室に飛び込んだ。

 乱暴に扉を閉めて鍵をかける。――そこで、限界だった。

 待ち望んだ場所に足を踏み入れた瞬間、膀胱が勝手に収縮し始めてしまった。


「あっあっ……」


 じゅ、じゅう、と溢れたものは、布を突き抜け指先をじっとりと濡らした。ぎゅ、と押さえる力を強くしても意味はなく、下着の中に温かい感触が広がっていく。つう、と溢れた一筋が腿を伝った。

 このままでは床を汚してしまう。

 綾音はとっさに便器に腰を下ろした。下着を脱ぐこともできないまま、片手はワンピースを握り締めたままで。じょろろ、と指の隙間を突き抜けて、水流が陶器の中に落ちていく。


「ぅぅ……」


 お尻が温かく濡れていく。不快感に眉を寄せるが、もう止めようがない。諦めて、押さえていた手を離した。


(おしっこ、出ちゃった……)


 身体から力が抜けて、一気におしっこが勢いを増した。じゅー、じゃああと大きな音を立てている。綾音は、慌てて音消しのためにセンサーに手をかざした。個室内に流水音が流れ出すが、我慢に我慢を重ねたおしっこはその音にも掻き消されなかった。頬が熱くなる。早く止まってほしいのに、水音はなかなか止まない。

 流水音が弱まっていくのと同時に、おしっこも勢いを弱めていった。ぴちゃぴちゃと滴が落ちて、ようやく排尿が終わる。

 苦しかったお腹は軽くなったものの、綾音の気持ちはまったくすっきりしていなかった。


 どうしよう。漏らしちゃった。

 下着もワンピースもぐしょぐしょで、このままではトイレから出られない。紙で拭く程度ではほとんど意味がないだろうし、当然のことながら着替えも持っていない。


(どうしよう、どうしたら……)


 涙を浮かべながら、混乱した頭でどうしたらいいのか必死に考える。いつまでもこうしているわけにはいかないし、柚樹のこともずっと待たせておくわけにはいかない。

 逡巡の末に、綾音は肩にかけたままのショルダーバッグに、濡れていない片手を伸ばした。

 震える手でスマホを取り出し、メッセージアプリを開く。


【先輩】

【ごめんなさい】


 何と書けばいいのか考える余裕もないまま、ただ頭に浮かんだ言葉を送る。

 数十秒も待たないうちに既読マークがついた。


【どうした? 大丈夫?】


 まにあわなくて、と送信してから、慌てて続きの文章を入力する。


【服とかよごしちゃって

トイレから出られないです

どうしよう】


 少しだけ間が空いて、柚樹から返信がきた。


【着替え買ってくるから

 少しだけ待ってて

 すぐ戻るから】


 間髪入れずに、もうひとつ。


【大丈夫だよ】


 柚樹の優しい声が聞こえた気がして、綾音はスマホを片手で握り締め、小さく頷いた。


***


【待たせてごめん、出てこられる?】


 十五分ほど経ったあと、柚樹からメッセージが送られてきた。

 すぐに出ます、と返しておずおずと立ち上がる。

 濡れた手や下着はトイレットペーパーで拭いてみたけれど、ぐっしょりと濡れたワンピースは少し拭いたくらいでは誤魔化しようがない。この姿でトイレから出るのは恥ずかしくて仕方がないが、綾音は覚悟を決めて水を流した。

 混雑しているトイレに長い時間篭ってしまったことに罪悪感を覚えながら、そっと扉を開ける。足早に洗面台へ進んで手を洗った。周りの女性たちの視線が突き刺さるような気がする。顔を俯けてそそくさと女子トイレから出ると、すぐ近くの壁際に、紙袋を持った柚樹が立っていた。


「あ……」


 視線がぶつかって、思わず逃げ出したくなる。けれど逃げる場所なんてない。綾音はおずおずと、彼に歩み寄った。濡れた下着が肌に張り付いているのが、冷たくて気持ち悪い。


「あの……」

「着替えとかタオルとか買ってきたから、着替えておいで。待たせちゃってごめんね」


 綾音が口を開くより先に、柚樹は紙袋を差し出してくれた。


「い、いえ……ごめんなさい。ありがとう、ございます」


 紙袋を受け取りつつ、綾音は戸惑ったように女子トイレのほうに視線を移した。着替えるためにはまたトイレに入らなければいけないが、多少はマシになったものの女子トイレにはまだ順番待ちの列がある。びっしょりと濡れた恰好で、再びあの列に加わるのは躊躇ってしまう。


「いまだけ、こっちを使わせてもらおう? 急げば大丈夫だよ」

「は、い」


 柚樹にそっと促され、綾音は空いている近くの多目的トイレに入った。紙袋の中を開けてみる。タオルが二枚と女性用の下着、シンプルなシャツワンピースに靴下まで入っている。すべてタグが切ってあった。彼の気遣いに有難さと申し訳なさを感じながら、綾音はタオルで手早く身体を拭いて着替えを済ませた。

 汚れた衣服は紙袋の中にしまっておき、そっとトイレから出る。柚樹は少し離れたところで待っていてくれた。


「落ち着いた?」


 問われて、こくんと頷く。彼と目を合わせることができなくて、つい視線が下がってしまう。


「気にしなくていいよ、って言っても、気にしちゃうかもしれないけど。でも、大丈夫だから、……泣かないで?」


 少し困ったような柚樹の声を聞いて、初めて、自分が泣いていることに気付いた。頬が濡れている。気が付いてしまうともうだめで、何か言おうと開いた唇からは嗚咽しか出てこなかった。


「……っ、ごめ、なさ……っ」

「ああ、ごめん、ごめん。無理に泣き止もうとしなくていいよ。ちょっと座ろうか」


 柚樹に誘導されて、隅にある長椅子に腰を下ろした。ぼろぼろと零れてくる涙を必死に指先で拭っていると、彼からハンカチを差し出された。自分のハンカチもあるので断ろうとしたけれど、その前に顔を拭われてしまう。そのまま彼のハンカチを受け取って、そっと目元を押さえた。

 綾音が泣き止むまで、柚樹は静かに隣に座っていてくれた。



 しばらくするとようやく気持ちが落ち着いてきて、綾音はおずおずと顔を上げた。柚樹の顔をそっと窺うと、彼は目を細めて優しく言った。


「……落ち着いた?」

「はい。……泣いちゃって、ごめんなさい。ハンカチ、ありがとうございました」


 洗って返しますね、と言ったが、そのままでいいよと手の中から取り上げられてしまった。

 彼に迷惑をかけてばかりで、情けなくなってしまう。はたと、綾音は大事なことを思い出した。


「あ、あの、さっきのお金、返します。レシート見せてください」

「ああ、別に……」

「よくないです、ちゃんと返しますっ」


 柚樹は少しだけ躊躇う様子を見せてからレシートを差し出した。書かれていた金額は五千円弱。

 衣服も生活雑貨も置いてある手近な店で急いで買ってきてくれたのだろう。

 お小遣いしかもらっていない身としては痛い出費だが、自分の失敗のせいなのだからお金を返さないわけにはいかない。

 財布から千円札を五枚取り出して、おつりはいらないです、と彼に手渡した。今月はもう無駄遣いはできない。


「……たくさん、迷惑かけちゃって、すみませんでした」


 ワンピースの裾をきゅっと握って、震える声でぽつりと呟く。

 迷惑なんかじゃないよ、と柚樹は言ってくれたけれど、綾音は小さく首を振った。

 映画の途中で席を立ってしまったり、トイレに行きたいというたった一言さえ、恥ずかしくて言い出せなかったり。挙句の果てにはおもらしまでして、彼に下着まで買ってきてもらって。これが迷惑をかけてないなどと言えるわけがない。

 それに、彼の前で粗相をしてしまったのは、これで二度目なのだ。


「だって私、先輩の前で二度も、お、おもらししちゃって、汚いし、嫌に、なりませんか……っ」

「……初めて会ったときから、綾音ちゃんのこと汚いとか嫌だなんて思ったことないよ」


 初めて会ったとき。彼の言葉を聞いて、頬が熱くなる。あのときも綾音はおしっこを漏らしてしまって、けれど、柚樹は嫌な顔ひとつせずに優しく対処してくれた。

 彼の言葉も、優しさも、本心からのものだと、信じていいのだろうか。

 黙り込んでしまった綾音に、柚樹は立ち上がって手を差し伸べた。


「帰る前に、少しだけ買い物に付き合ってくれる?」

「はい……?」


 断る理由などなく、前を歩く彼についていく。連れていかれたのはアクセサリーショップだった。手に取りやすい価格帯で、中高生の女の子に人気がある店だ。


「あの……先輩……?」


 てっきり彼の買い物に付き合うものだと思っていたので、思いきり女の子向けのショップに連れてこられたことに困惑する。彼は並んでいるアクセサリーをいくつか眺めて、ひとつのペンダントを手に取った。


「これとか綾音ちゃんに似合うと思うんだけど。どうかな?」

「……かわいい、です」


 首に当てて鏡を覗いてみる。音符がモチーフの小さなペンダントトップ。シンプルな可愛らしさのあるデザインはどんなコーディネートにも合うような気がした。


「気に入ったなら、プレゼントするよ」

「えっ、そんな、悪いです」

「俺がプレゼントしたいんだ。今日が嫌な思い出になっちゃわないように。ね?」


 優しい笑顔で顔を覗き込まれる。「迷惑かな?」と訊かれて、そっと首を振った。


「……嬉しい、です」

「ならよかった。買ってくるね」


 会計を済ませた柚樹は、可愛らしくラッピングされた小さな包みを手渡してくれた。

 大切に受け取る。決して高くはないアクセサリーだけれど、彼の心遣いが嬉しくて、どんな高価な贈り物よりも価値のあるものに思えた。


「次に着けてきてくれると嬉しいな」

「はい。そうします」


 次があるんだ。彼の何気ない言葉に喜んでしまい、さっきまでの落ち込んでいた気持ちが晴れてくる。バスから降りた帰り道、彼はそっと手を繋いでくれて、綾音を家まで送り届けてくれた。

 繋いだ手が温かくて、彼の優しさが伝わってくる。


「また明日、学校でね」

「……はいっ」


 手を振る柚樹に、綾音は精一杯の笑顔で頷いた。

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言えないヒトコト 志月さら @shidukisara

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