第11話 第八処へ




 その日の食事では、初めて第一関門たる暗闇の障害を抜けることができた。

 見えていれば、こんな簡単でいいのかと思うほどだ。


 小さくガッツポーズを決めて、駆け抜けていく。


 しかし次の難所はなんと、水。

 下り階段を下りていくと、途中から水が張っていた。


 泳げということらしい。


(おもしろい)


 泳ぎにはちょっと自信がある。


 俺は水泳を小学1年の時からやっていた。

 3年生までの2年間で辞めはしたが、クロールなら200メートルを泳いでいた時期もあるくらいだ。


 いや、思えばやめてから俺、太ったよな。

 続けていればよかった。


 そんなことを考えながら、足を水につけて、ぎょっとした。


「うあ……冷たすぎだろ」


 しかしそんなことを言っている場合でもない。

 ここはプールではないのだから。


(くそったれが)


 息が止まってしまうほどに冷え切った水に身体を沈め、顔をつけて潜る。

 とたんに全身がガクガクと震えた。


(こりゃきついな)


 泳いで下向き階段を抜けていくと、水深30メートル以上はありそうな広い水槽に繋がっていた。

 頭上からは陽光が差し込んでいる。


(あそこが出口か)


 水が澄んでいるから見えていた。

 正面に上向き階段らしきものがある。


 しかし、かなり遠い。

 上がる階段までは100メートルはある気がする。


 皆が前を潜水しながら泳いでいく。

 しかし誰一人として、水面には浮上しない。

 よく息が続くものだ。


 俺も頑張ってみたが、ブランクが効いているのか、平泳ぎで15メートルも泳いだあたりで苦しくなり、水面に浮上した。


「ぷはっ……おっ!?」


 見えた、水面の上。

 そこにはずらりと並んだ骸骨の兵士が、弓を引いて待っていた。


「がはぁっ!?」


 当然のごとく、俺は矢でハチの巣にされた。


 もしかして、これが第八処にあたるのか。





 ◇◇◇




 

「……たった10日で第九処をクリアだと!?」


 大理石製の巨大な円卓を囲んでいた一人の悪魔が、たまらず赤革の椅子から立ち上がって叫んだ。


 ここは魔界に立つ石の城、ゴリアテ城の第八階にある会議室。

『七つの大罪』で知られる大悪魔たちが集い、魔界の運営方針を決める場所である。


 本来は先日新たに天使たちに襲撃を受けた西ギリアド地区の被害報告と、今後の対策について話し合う予定だった。


「厳密にはクリアしていない。奴は門の前まで行きながら、開始地点まで戻った。クリアしたも同然というだけだ」


 黒い鱗に赤い斑点がまだらについた、小さな蛇が答えた。


「……は?」


「なぜそんなことをする?」


 大悪魔たちが、顔を見合わせる。

 7体の大悪魔のうち、蛇以外の6体は人型をとっている。


「それは本人に聞かないとさっぱりだな」


 テーブルで、蛇はとぐろを巻いている。


「それにしても早すぎる。上位悪魔になる者でさえ、第九処は最低一年はかかる」


【臨獄の九処】では、自身を高めようと努力し、繰り返し死亡することで能力が少しずつ磨かれていく。


 だが素質ある悪魔でさえ、タイルと闇が区別できるようになるのに、半年から一年。

 トラップタイルの色が判別できるようになるまで、さらに半年以上が必要なのである。


「こレほどまデに成長が速イのは」


 緑色の光沢をもった、蠅のような顔をした悪魔が低い声で訊ねる。


「あのせいだろう」


 蛇がちろちろと舌を出した。


「【欲転化】か」


「……とてつもないな。魔王様のスキルは」


 悪魔たちがざわついた。


 イーラが持つのは、〈URウルトラレア〉よりもさらに稀有とされる〈LRレジェンドレア〉級のスキル【欲転化】であった。

 かつて封印された魔王が持っていたとされるオリジナルスキルであり、そのせいでイーラのスキル欄には悪魔の言語で書かれていたのである。


 効果はシンプルなもので、欲を満たすことで自身の望む能力を次々と手に入れることができる。


 これほどに安易なスキルなら、本来は二、三種類のみと入手する能力に制限がかかるのが普通であるが、〈LRレジェンドレア〉【欲転化】は効果に天井がなく、無限に能力を伸ばすことができる。


 数多とあるスキルの中で頂点に位置するといわれるゆえんであり、悪魔たちがイーラに目をつけた理由でもあった。


「それにしても早すぎるじゃろう」


 黒板をひっかいたような寒気のする声で述べたのは、二人いる女のうちのひとりである。


 黒づくめの衣服をまとい、手元の水晶を覗いている、しわがれた老婆。

 その目から下は黒い布で覆われており、あたかもその金属声を抑えるかのようである。


【怠惰】の大罪を司るヴェルフェゴールである。


「若き頃の魔王とて、あれほどの速さで成長などできんかったわい」


 ヴェルフェゴールは『七つの大罪』の中で最も長い時を生きていた。

 魔王が生誕し、成長していく過程で付き添ったのはこの老婆であったのだ。


「本当かね」


「間違いない。【欲転化】以外にもなにかトリックがある」


 ヴェルフェゴールが頬の黒布のきわを指で掻きながら呟いた謎に、蛇が応じた。


「あ奴は【食の競争者フードファイター】という職業なのだ」


「【食の競争者フードファイター】?」


「人間の限界を遥かに超える量を腹に収められるらしい。それで【欲転化】が異常に活性化しているのだろう」


「なんと」


 皆が驚きを隠せずにいた時だった。


「――なんだろうと所詮は虫けら。あてにできない」


 鼻を鳴らして吐き捨てるように言ったのは、もうひとりの女。


 脚を組んで座っているうら若い方である。

 その女は十八歳で、純白の、大理石を削ってできたような内巻きの角を生やし、胸までの髪は碧と橙が入り混じっている。


 紺色のビスチェドレスで、ふわりと広がって紅色に変わった裾は白い膝上で終わり、その足には膝下までを隠す底厚のロングブーツ。


【強欲】の大罪を司る大悪魔、マモンである。


「……ぬ?」


「どういうことだ、マモン」


 大悪魔たちが振り返る。


「いくら伝説級のスキルがあろうと、器が小さすぎる。どうせ第七処で脱落する」


 マモンはそれだけを言うと、くるりと背を向け、カツカツとヒールを鳴らしながら、会議部屋を立ち去った。




 ◇◇◇





 その二日後。

【暗闇耐性】の最上位スキルを獲得した後、俺は第九処を出た。


「ここは」


 俺は最初のころに降り立った白い世界に来ていた。

 どうやら処から出ると、ここにやってくるようだ。


「よくやったな。【魔神ヴァラクの貫通眼】まで身につけた者は過去に一人もおらぬぞ」


 あの蛇が俺を待っていた。


「次に連れて行ってくれ」


 俺の言葉に、蛇が目を丸くした。


「そなたは休むことを知らぬのか」


「休みたくないだけだ」


 蛇が無表情のまま、赤い舌をちろちろと出している。

 いや、最初から表情なんてないのだが。


「……まあよい。では行け」


「おう」


 目の前が暗くなり、移された先は水の第八処。

 幸いいきなり水の中、というわけではなく、階段を下りていって水の中に飛び込む形だ。


「よし、いくか」


 俺は以前と違い、どうすれば自分が成長できるのかを理解している。

 それだけに戸惑うことなくまっすぐ前を見ることができた。


 周りには誰もいない。

 俺は着ていたローブを脱いで階段を下り、頭から水面に飛び込んだ。


 身体をひんやりとした感覚が包んだ。

 平泳ぎをして進む。


 階段を抜け、頭上が開放され、陽光が差し込む水槽部分に出る。


 肺が呻いて、差し込むように痛んでくるのは50メートル地点。

 今はこのあたりが限界だ。


(まあいい、全力で努力するだけだ)


 俺は再び水の中へと飛び込み、死亡を繰り返した。





 ◇◇◇




 あれから15日が経った。


 当然のように食事のレースでは脱落組を脱することができず、取れて豆3つ程度の食事だったが、今日になって【無呼吸】レベル1と【泳ぎの達人】レベル1を獲得した。


 ほんのちょっとずつの食べ重ねだが、効果を発揮してきたみたいだ。


 おかげで距離にして75メートルくらいまで行けるようになっていた。


 だがそこから先には大きな壁があるようで、なかなか乗り越えられない。


 おまけにこの処は空腹がすぐにやってくる。


 水の中はカロリー消費が桁違いなんだろうな。

 前回の第九処と違い、何時間もトライし続けると、さすがにばてた。


 俺の体重、すでに73kg。

 身長は172センチだから、まだ肥満といえば肥満かもだが、0.1トンだった頃とは比較にならないスリム体型になっている。




 ◇◇◇




 マモンとか言う大悪魔の誕生日がやってきたのは、その次の日だった。

 その悪魔には、心から感謝した。


「うめー」


 俺は祝いの晩餐で文字通り、死ぬほど食わせてもらった。


 大根おろしの載った、甘じょっぱいおろしカツと麻婆豆腐に似た辛めの料理にハマり、俺一人で大皿の半分近くを食い尽くした。


 おかゆは消化が速く、体が温まることを知ったのもこの時だ。

 いつも冷え切っていた指先まで火照ったのは、本当に久しぶりだった。


 晩餐の後半はまた女の踊り子たちが打楽器の演奏で魅惑的なダンスを披露し始めたが、俺は早々に八処に戻り、ごろりと横になる。


 すぐに意識が遠のいた。



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