拍手 069 百六十六話 「雨の道行き」の辺り

「あ、雨……」

 ギルドを出たところで、ぽつりときた。セロアが空を仰ぎ見ると、確かに重たい。

「しまったなあ」

 今世の帝国では、傘がない。雨が降った時は外に出ないか、雨よけ用のマントを羽織る程度だ。

 降り出したばかりで、まだ小雨だ。本降りにならないうちに、寮へ帰ろう。ギルドの寮はここから歩いても十分程度だ。

 小走りで走って、丁度寮の玄関に到着したところで、降り方が変わった。

「あら、間に合って良かったわね」

「ええ、本当に」

 寮母さんに声をかけられ、愛想良く返す。たいして濡れなくて、本当に良かった。

「これは、遅番の子達は濡れるわねえ」

「やむまでどこかで雨宿りしてくるかもしれませんよ?」

「今日は門限を緩めるか」

 そんなやり取りをしつつ、自室へと上る。寮は四階建ての大きなもので、セロアの部屋は二階だ。

 不文律のようなものがこの寮にはあり、出世頭程下の階に部屋が割り当てられるという。帝都に出てきたばかりの頃から、二階に部屋をもらっているセロアは、そこそこ出世が見込めるグループに属しているのだ。

「さて、今なら人も少ないだろうし、先にお風呂にしようっと」

 寮のいいところは、大浴場がある事だと、セロアは思う。特にこんな天気の日には、公共浴場に出る気にもなれない。

 仕度をして、地下にある大浴場に向かう。昼間は閉まっているここは、夕方のこの時間から開けられるのだ。

 いい時間帯だったらしく、脱衣所に人影はない。

「はー、極楽極楽」

 広い湯船に一人でつかり、一日の疲れを癒やす。いつもならこんなにのんびりとは入れない。大きな寮という事は、住んでいる職員の数も多いという事だ。

 ひとしきり貸し切り風呂状態を楽しんでから上がり、自室で熱を冷ます。外はまだ雨脚が強いらしく、あれから誰も戻ってきていないようだ。

「雨……かあ」

 前世で暮らしていた日本は、雨が多い国だった。あのじめっとした空気は好きになれなかったけれど、雨の時期のお楽しみはあったものだ。

 記憶も曖昧になりつつあるけれど、前世で暮らしていた場所の近くにあじさいが植わっていた。梅雨時は行き帰りに眺めていたものだ。

 紫、ピンク、白。色とりどりのあじさいは、今もはっきりと思い出せる。

 ティザーベルも言っていたが、前世の記憶は年々薄れていくようだ。特にそれで困るという事はないけれど、こうして少しずつこちらの人間になっていくのかもしれない。

 いや、生まれ落ちた時点で、帝国人なのだけれど。

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