リストランテへようこそ
河野章
リストランテへようこそ
洋食ココは都心部から少し離れた住宅街にひっそりとある小さな料理店だった。
カウンターとテーブルが三席ほどの本当に手狭な洋食店。ビーフシチューが一番の人気メニュー。昼間は軽い軽食やコーヒーなどの喫茶店のような雰囲気で、夜には近所の家族連れや恋人同士が訪れる程度の静かな店だ。
店主の田村が一人でなんとか出来る小さな店は、素朴な木の内装やテーブル、趣味で撮っている写真が幾枚か飾られている程度だった。
「いらっしゃいませ」
ドアが開く音に温和で少し低めの声で応える。
清潔な白い上下のコック姿、整えられた爪と指先。流行には興味がなさそうなざっくばらんに揃えられた黒髪の短髪が地味な印象を与えていた。目鼻立ちがはっきりしているぶん、男前と呼ばれる部類なのだろうが本人にはその意識が全くなく、そんなことよりもカツレツの焼き加減のほうを気にする男だった。
店に入って来たのは常連の上野。文筆業をやっているらしく、店でランチを食べてから、ノートパソコンを開き、コーヒーを飲みながら暫くキーを叩いている。
昼間は一人で来ることが多かったが、夜には三十歳程度の男性と連れ立って来ることもあった。なんとなく──その二人が恋人同士じゃないのかと、シチューを皿に注ぎながら田村は仲が良さそうな二人を見ていた。
上野にはそう思わせる妙な色気があった。
やや長めのゆるくウェーブががかかった髪をラフに耳にかけている。体格は普通の男性と変わりなく女性的でもなかったが、鼻筋の通った端正な横顔に相手へ向ける柔らかな笑顔を見ていると、二人で話す距離や親密さからもそう思わざるを得なかった。
パソコンの前で、ふと上野が固まった。なにかに悩んでいるのだろうか、唇へと手をやったまま長考し動かない。
ランチは人が途切れたところだった。
田村は少し迷ったもの、ピッチャーを手に厨房から出ていった。
向かう先は上野の席だ。
「お水、いかがですか?」
横から静かに、田村は声をかけた。物思いに耽っていたらしい上野が、ビクッと肩を上げる。
横に立つ田村に気づくと、見上げて目をやや見開いてから安心したように微笑んだ。
「なんだ。店長さんか。──長居しちゃって、すみません」
グラスをお願いします、と差し出してくる。
「ここ居心地が良くてつい……」
肩越しに店内をちらりと振り返り、首を傾げて田村へ目線を戻す。
「どうしようかな……珈琲もう一杯、大丈夫ですか?」
ランチ営業の閉店時間を気にしているようだった。
「もちろん大丈夫ですよ、すぐにお持ちしますね」
もう店内には田村と上野しかいなかった。
いつものんびりとした雰囲気なこの店では閉店時間も曖昧で、客足が途切れたら閉めるというのが暗黙の了解となっていた。むしろ逆に客がいれば遅い時間でも開いたままだ。
厨房で珈琲を丁寧に入れる。少し濃い目が上野の好みだと知っていた。
「お待たせしました。ミルクはいらない──」
テーブルにカップを置いてそう言いかけたとき、田村を見上げるようにふと顔を向けた上野の瞳からすっと涙が零れ落ちる。
「ミルクはいらないです」
頬に流れ落ちる涙を拭くこともなく、震える声のまま不自然な笑顔を浮かべて上野はそう答えた。誰が見ても明らかに動揺している彼の姿。
「あ、あの……」
どういう反応をすればいいのか分からず、田村はテーブルの側で立ち尽くしたまま上野の顔を見つめていた。
──こんなに静かに泣く人がいる。でも感情を殺せない人なんだろう。
田村が感じたのは、流れ続ける涙を隠そうともしない上野の表情から眼を離せなかったせいかもしれなかった。
手は自然と動いた。指を伸ばし、そっと上野の頬を流れる涙の雫を受け止める。
次々と流れる涙で指先は濡れた。
やってしまってからはっとした。これでは、どう言い訳も出来ない。固まってしまった田村に、涙を拭われた方の上野がふふっと笑った。
「すみません……驚かれましたよね」
目を細めると、また涙が目の縁にたまり流れ落ちる。こんなに綺麗な涙を田村は見たことがなかった。
田村は手を動揺しつつもゆっくりと離した。自分がしてしまったことが信じられなかった。
「いや、あの……こちらこそ、すみません──」
コック帽を取り、ばっと頭を下げる。顔に血が上っていくのが分かった。
涙が綺麗だったからつい、なんてととても言えなかった。濡れた指先を拳の中に握り込む。
「なにか、あったんですか?」
そっと上目遣いに尋ねてみる。上野は小首を傾げると、また微笑んだ。
「頭を上げてください、田村さん」
目尻はほんのりと赤いが、涙はもう流れてはいなかった。何だか惜しいような気もしてゆっくりと田村は顔を上げる。
「僕が、驚かせてしまったんですから──先日、振られてしまったんです、僕」
軽く頷いて、上野が自分の向かいの席を示す。
「良かったら、少しお話を聞いていただけませんか」
上野が店に来始めてもう半年以上は過ぎていた。恋人らしき人と連れ立って来たのも、もう数ヶ月はあった。あの涙はその彼のせいなのかもしれないと、話を聞く前からなんとなく想像がついていた。
テーブル席の上野の正面に腰を下ろし、ようやく涙が止まった顔を見つめる。
いままではいつも店に来てくれる物静かな客という印象しかなかったが、たぶん、とても複雑な感情を心に隠している人なのだろうと思いながら。
「俺なんかが話し相手でいいんですか」
「僕の独り言だと思って聞いてくれるだけでいいんです。こんなことに付き合わせてむしろすみません」
「もう店も閉めますから、俺は一向に構いませんが」
掌で少し会話を遮る仕草をし、椅子から立ち上がると、店のドアを開いてクローズの看板を掲げる。照明をやや落としてから席に戻ると改めて上野の顔を見つめた。
「いつも一緒に来ていた男の人を覚えていますか。あの人に振られたんです」
「……そうなんですか」
「僕がゲイでも驚かないんですね」
「とても仲が良さそうでしたから、なんとなくそんな気はしてました」
恥ずかしそうに微笑む上野の頬が薄暗い店内の中でうっすらと紅潮しているを見て、田村はどこか落ち着かない気分に襲われた。
「新しい恋をまた見つけないと。寂しいの、嫌いなんです」
冗談っぽく上野が告げた言葉に田村が頷く。
泣き声も上げず、涙を零しながら不器用に笑う姿をもう見たくはない。
そこまで考えてはたと田村は我に返る。
思えば上野をずっと見ていた。
ゲイだろうという勘ぐりも、恋人同士の語らいだろうかとのゲスな考えもした。
珈琲の好みも、よく頼むランチセットも知っている。恋人を見る時のやや上気した頬や、楽しげな笑い声も。
(最初から、この人を意識していたのは俺──)
ぐっとテーブルの上で拳を握り田村は俯いた。今のこの気持ちが何なのか分かってしまった。鳩尾の辺りがずんと熱く重くなる。
仕事仕事で、長らく遠ざかっていた。
こんな気持ちは久しぶりだった。
「上野さん、は……どういった人が好みなんですか?」
どうにか平静を装って尋ねると、上野はまつげを瞬かせてきょとんとする。
「どうだろう……おしゃべりしていて、楽しい人は好きですね」
気持ちを失恋から盛り上げようというのだろう。上野は考え込むと、やや声のトーンを上げつつも、ゆっくりと答える。
「うん、後は僕のペースに合わせてくれる人かな」
少しぼんやりなんで、と照れ笑いをする。上がった口角がいつもの彼の笑顔で、田村はほっとする。
「俺も鈍感なほうなので……その気持ちちょっと分かるような気がします」
「店長さんは優しいから。あ、そう言えば店長さんの名前聞いてなかった」
「田村です」
もう何ヶ月も顔を知っているのに改めて自己紹介をするという行為が恥ずかしかったが、洒落た話題を切り出せるタイプでもない。
「都心のホテルでずっと働いていて、やっとこの店を開けるようになったんです。父もっコックをやっていて、自分の店を持つのが憧れだったのでいまがとても楽しいです」
「僕は売れない小説家をやっています……って、毎日ぐらい田村さんの店でパソコンを打っていたらバレちゃってるかもしれないですけど」
お互いの話をするのは新鮮であり、二人の距離を縮めるようだった。これまではただの店主と客だったのが、違うものに変わっていく。
なにも手を付けない肉や魚に塩や胡椒を振りかけるだけで料理の味が変わるように。
「新しい恋が出来るといいですね」
そう田村が自分で告げた言葉に、なぜか胸が痛む。
上野の涙を拭いた指先はもうすっかり乾いているのに、その感触が残っていた。
「下手くそなラブストーリーなら書けるんですけれどね」
少し長めの柔らかそうな髪を耳に掛けながら、上野は恥ずかしそうに眼を細めた。
そんな仕草一つにも胸が騒ぐ。
「上野さんなら、すぐですよ」
田村は嘘にならないようにと微笑む。
「恋愛物をお書きになるんですね」
ふと、思い立って聞いてみた。今始まったばかりの自身の心の変化を悟られたくはなかった。
「はい、本当に売れてないんですが……若者向けの、ポップな物を少し」
上野は更に恥ずかしそうに下を向いてしまう。
確かに意外だった。
「若者向け? 俺は門外漢でよくわからないんですが……」
「十代の子達向けの、軽い……青春物や、群像劇的な恋愛物なんです。若い子達の恋を描くのは、嫌いじゃないので」
自身の作品のことを語る上野は恥ずかしそうながら、目を輝かせていた。
自分もそうだと田村は思った。自分も料理が楽しい。自分の料理で客をもてなし、喜ばれるのが一番嬉しかった。
「分かります。──好きなことを仕事にするのって、辛いですけど……楽しいですよね」
そう言うと、上野はぱっと顔を上げた。頬が僅かに染まり、頷く様子も元気そうに見えた。
「そうなんです。だから、居心地の良いのに任せて、ここで毎日仕事をって……話がループしちゃってますね」
リラックスしてきたのかふふっと嬉しそうに首を傾げる姿は、心底楽しそうに田村には感じられた。
「僕、恋愛下手で振られてばかりなんです。でも田村さんと話していたら、さっきまで悲しかったのが楽になりました」
「俺との話なんかで?」
「田村さんだからいいんです。安心できるっていうか……こんなこと言うと僕が田村さんを口説いてるみたいですよね。気分を悪くさせてたらすみません」
そんなことはないというふうに田村は首を横に振り、微笑むとより色気の増すような上野からそっと視線を外した。
──こんなに可愛い人なのに。
田村も恋愛上手ではなかった。むしろ恋愛経験が乏しいといえる部類になるかもしれない。恋愛よりも友人と遊ぶことや、自宅で料理の研究をすることのほうが好きで彼女から別れを告げられたことのほうが多い。
「……俺なら上野さんみたいな人を振ったりしないのに」
口にするはずではなかった言葉が口からこぼれ落ちる。
その言葉に上野もまた驚いたような表情を浮かべ、しばらく二人で見つめ合っていた。
無言の時間がひどく長く感じられた。
恥ずかしさと、胸の鼓動が響くような静かな店内。
上野が微かに俯き、前髪がその表情を隠してしまう。
「……そんなこと言われたら、田村さんのこと好きになってしまうじゃないですか。ずるいです」
小さなその声が田村の胸を刺した。心拍がどんどんと上がっていく。
上野の目元は見えなかった。
今にも冗談ですよと柔らかな笑顔を向けられそうで、田村は躊躇する。
「ずるいのは、貴方ですよ……」
しかし田村は口にした。
「俺の方こそ、貴方を好きに……いや、以前から気になってたのかもしれない」
表情を覗こうと顔を傾けると、いやいやをするように上野が首を振った。その顎先を指で捉えて、顔を上げさせる。
上野の目元は潤み、肌は白い首筋まで真っ赤に染まっていた。
目線がかち合い、上野が目を見開く。表情を隠そうと揺れる毛先を、田村はそっと指先にとって絡ませる。
「貴方……ずるい人だ。泣いたのはきっと偶然でしょうけど──」
「そんな」
目を彷徨わせる上野を田村は逃さなかった。頬を片手で包んで、上を向かせる。
田村は目を細めていった。
「貴方、僕の今までの視線を分かってて……ここに来たでしょう?」
「そんなことは……気にも──」
上野の言葉を遮るように、テーブル越しに唇が不意に重ねられる。上野を逃さないとするようにその頬を両手で包み込み、唇でお互いの熱を伝えあった。
「……っん!」
口づけの合間に上野の唇から甘い吐息がこぼれる。紅潮した頬は熱く、伏せられた瞼の睫毛が震えていた。
「……た、田村さん、駄目なんです、僕……こんなふうにされると……」
「どうなるんですか」
駄目だと言いながらも上野は田村の唇を貪るように吸い付き、腕を伸ばして首筋に手を廻す。本能が自然にそうさせるように、淫蕩な仕草で指先がヒクリと蠢く。
「……は……恥ずかしい……こんな自分が……」
「可愛いです……どうしてこんなに可愛いのに、誰かに振られてしまうんですか」
口づけの合間に囁かれる言葉と吐息を飲み込みながら、上野は薄く眼を開く。
「騙されて……しまいやすいんです」
僅かだが、上野と喋ってその性格の片鱗が見えたような気がした。真っ直ぐで純粋で、人を疑うようなことがない。その率直さに付け入る人間も多かったのかもしれない。
「俺なら、貴方を騙したりなんてしませんよ……?」
田村は自身の首筋に絡む細い指を感じながら、囁く。唇を離し、間近で吐息を絡ませ田村は目の前の黒い瞳を見つめた。
「田村……さん……」
キスだけで息が上がったのか、ハアっと上野は息を吐く。涙だけではなく瞳は薄み、目尻の赤さに色っぽさがあった。
田村は親指の腹で濡れた上野の唇を拭い、その唇の端に今までとは違い触れるだけの柔らかなキスをした。
ピクリとそれだけで上野の指がまた動く。
軽く唇の表面で撫でるように、何度も唇の上へとキスを降らす。
「いや……俺に、騙されてください……上野さん。──泣かせたり、しませんから」
「田村さ……ん」
髪がはらりと上野の額へ落ちかかった。
田村は顎を支えていた指を動かし、その髪を掻き上げて、上野の額へとキスをした。目を閉じて上野はそれを受けた。
「俺じゃ、駄目ですか?」
間近で田村は上野へと告げた。
「……駄目じゃない、です。もう泣きたくない……田村さんを信じたい」
田村の首筋に廻していた手を解き、上野は照れくさそうに頷いた。
お互いに抱きしめたい気持ちが溢れんばかりだったが、まだそこまでにいくのには羞恥心があった。簡単なことなのに、キスまでしたばかりなのに。
「……珈琲、冷めてしまいましたね」
「は、はい……でも、もう……」
「俺も上野さんと飲みたいですから、もう一度淹れますね」
田村は立ち上がり、上野へと手を伸ばす。
不思議そうにその手と田村の顔を見比べている上野に、微笑んでみせた。
「珈琲は明日の朝に二人で飲みましょう。トーストとサラダを付けて」
意味深な言葉に再び顔を赤く染める上野の側へと近づくと、田村はその手を握って店舗の
二階にある自宅へといざなった。
【end】
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