第3話

 用を足してからトイレを出ると一人の少女が出口のところで花を持って立っていた。黄色いカーネーションを一輪、まっすぐ胸の前に両手でもっている。知らない少女なので、無視しようとしたら、少女が歩みよってきた。


 そして、じっと僕の顔を見上げながら、花を差しだした。


 その瞬間、僕はこの少女のことを思い出した。会ったことがある。そうだ、あの時だ。五年前の夏の県大会準々決勝。9回表の先頭打者で二塁に進塁した時。ーー


 三盗すべきかどうか考えながら、二塁ベースからじりじりリードを広げていた僕は、牽制球でさされないように背後のセカンドとショートの動きには十分警戒していた。


 ふと、二塁ベース上に人の気配を感じた。しまった!とおもった。


 ところが、そこにいたのは黄色いカーネーションをもつ少女。そんなことがあるわけないので、バッターの方をふりかえると、1番中田はセカンドフライを打ち上げた。


 僕はゆっくり二塁ベースにもどった。すると、そこにはまだ少女が立っている。少女はなにもいわずにカーネーションを差しだした。僕は気が立っていたので、少女に「どけ!」と怒鳴った。次の瞬間、少女は消えていた。やっぱりまぼろしだったのだ。


 考えてみれば、僕の気持ちはその時にもう決まっていた。


 僕はやるべきことはやった。本塁生還は、後続の打者に任せることにしよう。絶対に無理はするまいーー。自分の意志は捨て、まるですごろくの駒のように、サイコロの目が前へ進めてくれるのを待つことにしたのだ。


 ーーその少女が今、目の前に立っていた。しかし、まわりにはもやがかかっている。まるで夢の中にいるようだ。少女は僕に語りかける。


「花をどうぞ」

「君はだれ?」

「私はあなたの後悔。未来のあなたが生み出したあなたの後悔」

「野球場にいたのも君?」

「あれは、今のあなたの後悔」

「未来の僕はどうなってるの?」

「知りたい?」

「ああ、教えて欲しい」

「私は知らない。誰も知らない。でも、それはあなたの中にある。未来は過去の積み重ねでしかないのだから」

「でも、未来の僕はこの瞬間を後悔し続けてるってこと?」

「……みたいね。だから私がいるの」

「それとも、まぼろし?」

「きっとそうね」

「何年後の僕の後悔なんだ?」


 とつぜん少女はまるで大人のような声で笑う。


「あなたが生きている限り、ずっと、私は消えないよ。野球場の私も。それ以外のところに現れる私も。ずっと消えない。この花をあなたが受け取らない限りーー」


 僕はその黄いカーネーションをじっとみつめた。それはきっと僕自身の決意の象徴なのだろうとおもった。


 未来の僕がどうなっているのか、僕にはわからなかったけど、未来の僕が今日の僕をどう思い続けるのかは簡単に想像がついた。


 ーー福岡行きの最終案内のアナウンスが流れる。


 僕はカーネーションをうばいとり、猛然と空港の廊下を元来た方向へ走り出す。もう迷いはない。


 廊下の突き当たりのところに、三塁コーチャーの吉田がユニフォーム姿で立っていた。吉田は僕にむかって興奮気味になにかさけんでいる。そして、コーチャーボックスから大きく片足をはみ出しながら帽子を飛ばしてグルグルぐるぐる左腕をまわしていた。


 僕は吉田に目で合図を送りながら、三塁ベースをまわるように、右へ少しふくらむ。そして廊下のとっつきを左に曲がった。


ーー由麻が見える。


 あとは、ホームベースへと一気に加速するだけだ。


(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まわせ、三塁ベースコーチャー! 床崎比些志 @ikazack

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ