第四章(4)以洋、懷天に礼を言う

「ん……、あ、あれ……痛たた……」

 気が付くと、なぜかいきなり頭が痛い。頭痛そのものは午後からあったが、今感じているのはそれとは違う、どこかに頭をぶつけたような物理的な痛みだ……。

 以洋イーヤンを助け起こしてくれた懷天フアイティエンが、部屋の電気を点けて頭の状態を見てくれている。

「怪我はないみたいだけど、痛む?」

 ぶつけた部分を探るように懷天フアイティエンの手が動くのを感じ、以洋イーヤンは首を横に振って目を擦った。

「痛くないよ」

「ついさっき、痛いって唸ってたくせに」

 懷天フアイティエンが苦笑する。

「もう痛くなくなったんだって。……いつ帰ってきたの? 僕、また寝ちゃってた?」

 そう言いながら以洋イーヤンはまだぼうっとしたまま、自分の状態を確認した。どうやら今自分が横たわっているのは、自分の部屋の床らしい。

 僕、床に寝そべって何する気だったんだ?

 頭を掻きながら懷天フアイティエンを見ると、その顔にはまた苦笑が浮かんでいた。

「あ、李東晴リー・ドンチンだね? あいつ、また僕が寝てる間に出てきたの?」

「うん。君、彼のことを調べたの?」

 懷天フアイティエン以洋イーヤンを引っ張って起こしてくれる。

「午後に図書館でね。……あいつってなんでいつも懷天フアイティエンが帰って来る時を狙って出てくるんだろ?」

 訝しい気分で懷天フアイティエンを見る以洋イーヤンの前で、懷天フアイティエンが肩を竦めてみせた。

「先に食事にしないかい? そろそろ空腹で」

「えっ、わかったすぐに用意するね」

 頭を摩りながら部屋を飛び出そうとした以洋イーヤンは、それでも何かが変な気がして、もう一度、懷天フアイティエンを振り返る。

「あいつ、懷天フアイティエンに何を言ったの?」

 懷天フアイティエンが狼狽えたのがわかった。

「いや、何も……」

 どう答えるべきか迷っている懷天フアイティエンに、以洋イーヤンは唇を尖らせる。腕組みをして懷天フアイティエンを見据え、もう一度訊ねた。

「あいつ、いったいあなたに何をしたわけ?」

 言いたくなさそうに苦い笑みを浮かべていた懷天フアイティエンが、しばらく考えた末にようやく口を開く。

「彼は、君が持っている全てのものに嫉妬しているだけだと思うよ。家族や、友達や……その他の全てに」

「だから?」

 以洋イーヤン懷天フアイティエンから目を離さなかった。その言葉には確実に続きがあるはずだ。

 懷天フアイティエンがかすかに溜め息を吐く。そして仕方なさそうに口にした。

「俺と一度。やりたいと。それが終わったら消えるそうだ」

 やる……? やるって、何を!

 真っ赤になった以洋イーヤンは、自分でもそれが怒りのせいなのか恥ずかしさのせいなのかわからなかった。

「あいつ、なんのつもりだよ! これは僕の身体だぞ! なんであいつ、そんなことを気軽に、気軽にっ……」

 怒鳴りながら、怒りのあまりそれ以上言葉が出なくなる。

 僕だって、僕だってまだ懷天フアイティエンとしたことなんてないのに……。いや、そうじゃない。これは僕の身体なんだし。けど、けど、そんな状態だったら、それはやっぱり僕自身とは言えないじゃないか!

「そんなに怒らないで、落ち着いて、ほら」

「そ、そそそそそれでっ、それでどう答えたわけ?」

 以洋イーヤンをなだめようと肩に手を載せてきた懷天フアイティエンを、ほぼ逆上状態で以洋イーヤンは睨んだ。

「俺が欲しいのは君だけで、他の誰も欲しくないって」

 穏やかにそう答えられ、以洋イーヤンは頭の中が真っ白になった。

 顔が、今にも火を噴きそうなくらいに熱い。どう名付けたらいいのかわからない感情で瞬時に胸がいっぱいになる。

 今、何と口にするべきなのかわからずに以洋イーヤンは俯いた。しばらくしてようやく、懷天フアイティエンに礼を言うべきだと考えつく。

「あの、ありがとう……ありがとう、懷天フアイティエン




「何のお礼? 俺がこの機に乗じなかったことへの?」

 笑いだした懷天フアイティエンは、手を伸ばして以洋イーヤンの頬に触れた時にようやく、その頬が驚くほどの熱を帯びていることに気付いた。

 首筋まで完全に赤く染まった状態の以洋イーヤンが、顔を上げて懷天フアイティエンを見る。澄んだその瞳が涙に潤んで煌めいていた。

「ありがとう。僕を好きでいてくれて。僕を守ろうとしてくれて」

 あまりにも真剣な口調で告げられ、懷天フアイティエンは一瞬呆然とした。

 あたたかいものが胸に湧き上がってくる。誰かを好きになることでここまで心が動くのを感じるのは懷天フアイティエンにとって初めてのことだった。

 以洋イーヤンの柔らかな頬にそっと手を這わせる。指先を唇の際まで滑らせたところで、懷天フアイティエンは顔を伏せ以洋イーヤンの唇に唇を重ねた。

 上気して熱い以洋イーヤンの頬。ふわふわとした唇。身体まで今にも発火しそうに体温が高くなっている。

 以洋イーヤンを抱きたい。自分のものになりたいか訊ねてしまいたい。

 それでも、今はまだその時ではなかった。以洋イーヤンの中に「別人」がいる、そんな状態で愛する相手とセックスしたくはない。

 今するのは口吻けだけだ。穏やかに優しく以洋イーヤンの唇を吸い、以洋イーヤンの口の中にも緩やかに舌を忍び込ませた。逃げまどっているようにも誘っているようにも感じられる以洋イーヤンの舌に舌を絡める。




 唇が離れた時、以洋イーヤンはほとんど懷天フアイティエンの胸に倒れ込むようにして荒い息を吐いていた。

 そんな以洋イーヤン懷天フアイティエンが抱き締める。しばらくして、懷天フアイティエンが口を開いた。

「明日は……君はやっぱりイエ家に行った方がいいのかな? それとも誰かに見張っていてもらうか。明日もまだ一日中研修があるんだ。でも、もう二度と君を失うのは御免だ」

 溜め息を吐いているかのような懷天フアイティエンの声。

 自分はやっぱり懷天フアイティエンに心配を掛けているなと以洋イーヤンは思った。懷天フアイティエンの鼓動がこんなにも乱れている。

 これまで聞いたことのない速さで脈打っている懷天フアイティエンの心音に耳を傾けながら、以洋イーヤンは小さく頷いた。懷天フアイティエンの腰に自分からも腕を回す。

「わかってる。僕の先輩のところに行こうと思うんだ」

 しっかりと懷天フアイティエンに抱きつきながら以洋イーヤンが感じるのは、温もりと幸福だ。懷天フアイティエンもきっと同じだろう。

 それでも以洋イーヤンはもう一つ、自分のものではない憎しみが、自分の心の奥深くに宿っているのを感じた。そしてそれは絶えず成長し続けている。

 小さく溜め息を漏らした以洋イーヤンは、その件についてはしばらく考えないでいようと思った。今は懷天フアイティエンにただ抱きついて、そのぬくもりだけを感じていたかった。




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