第四章(3)以洋、またもや乗っ取られる

 滅多にないような頭痛をこらえながら帰宅した以洋イーヤンは、冷蔵庫を開けた時点で、またもや買い忘れを思い出した。慌ててカレンダーを見に行く。

「ええと……冬至はと……、まだ二日余裕があるし……だったら明日買い忘れなければ」

 時計に目をやると、そろそろ夕飯を作り始めるべき時間だ。懷天フアイティエンはこのところどうやら忙しいようだった。

 警察学校での講習で毎日、署と学校とを行ったり来たりしなければならない上、空いた時間では以洋イーヤンの心配までしてくれている。本当に頭が上げられない。

 夕飯を作り終えて懷天フアイティエンの帰りを待ったが、いつもの帰宅時間を過ぎても、まだ懷天フアイティエンは戻ってこなかった。溜め息を吐いた以洋イーヤンは、料理を保温するため一旦電鍋に戻してから、リビングに行ってテレビを点けた。

 ソファに座ってニュースを見るが、このところそんなに大きな事件は起きていないらしい。

 立法委員会でいつも通り議員が罵り合っている他は、水道管から出られなくなってしまった子猫が消防隊に無事救出されましたとか、誰々さん宅のワンちゃんが珍しい子犬を生みましたとかの退屈なニュースばかりで思わず欠伸が漏れる。

 家の中は静まり返っているし、午後は頭痛に悩まされた後だ。知らず知らずのうちに以洋イーヤンの瞼は閉じていった……――――。




 ――――……それから十分経たずに、また以洋イーヤンの瞼が開く。

「俺を追い払う力があるってんなら追いだしてみな」

 笑い声を立てた李東晴リー・ドンチンは、家の中をぶらぶらと歩き回り始めた。

「ふ~ん、お巡りにしてはいい家に住んでんじゃん」

 台所では以洋イーヤンの作った夕飯が保温中だ。ついでなので一口味見してみる。

「このガキ、マジでいい奥さんになれるぜ」

 今のうちにここから出ていこうか、それとももう少しこの家の中を探検してみるか、まだ李東晴リー・ドンチンが決めかねている時に、玄関の鍵が開けられる音がした。




「ごめん、遅くなっ、て……」

 以洋イーヤンの姿を見た瞬間それが以洋イーヤンではないとわかり、懷天フアイティエンは思わず苦笑を浮かべた。

 午後に電話してきて、僕は大丈夫だからとそう報告したばかりじゃないか。だからてっきり夏春秋シァ・チュンチウがどうにかしてくれたのだとばかり。

 僅か一日で解決して以洋イーヤンを家に戻してくれるなんて、いったい春秋チュンチウはどんな手段を使ったのかと、そう思っていたのに。

「そんなに違ってるか?」

 李東晴リー・ドンチンも笑って後ろを向き、掃き出し窓に映っている自分の顔を確認する。

「顔も身体も別にこいつのままだろ?」

「君はいったい何がしたいんだ? あの子はとても善良ないい子なんだ。これ以上こんな風につきまとわないでやってくれ」

 真面目な顔でそう告げた懷天フアイティエンに、李東晴リー・ドンチンが返したのは嘲笑だった。

「善良ないい子? 善良さがなんの役に立つってんだ。多少ワルな方が世の中上手く渡っていけるって、さっさと教えてやれよ。人が好過ぎる奴なんて食い物にされるだけだぜ」

「君みたいに?」

 真っ向から懷天フアイティエン李東晴リー・ドンチンを見据える。

 この死者が以洋イーヤンの身体を占領することにこだわり続ける理由がわからない。

「あんた、俺がそんなにいい奴っぽく見えるのかよ?」

 笑ってそう答えた李東晴リー・ドンチンに肩を竦め、懷天フアイティエンはその傍に数歩歩み寄った。

「この子の身体を奪い取ったところで、この子の人生まで君の手に入るわけじゃない。それはわかってるのか?」

 李東晴リー・ドンチン懷天フアイティエンの方に足を踏み出す。

「それはつまり、あんたが俺のものになるわけじゃないのと同じようにってことか? あんた、こいつでなきゃダメなわけ?」

「ああ。俺は別に誰も欲しいわけじゃない。それでも、もし誰かを俺が求めるなら、それはこの子だけだ」

 あっさりとそう認めた懷天フアイティエンに、李東晴リー・ドンチンの顔から笑みが消えた。

「なら、心の準備をしとけよ。一生こいつがお前の手に入らないって覚悟をな!」

 陰惨な眼差しが懷天フアイティエンを睨み据えている。懷天フアイティエンは眉を顰めた。

 以洋イーヤンの顔にこんな表情が浮かんでいるのはあまりにも見慣れない光景だ。以洋イーヤンは大抵笑っているし、泣いたり怒ったり恥ずかしがったりでいつも顔を真っ赤にしている。

 子供っぽく口を尖らせている時など、可愛すぎてそのまま食べてしまいたくなるレベルだ。そんな以洋イーヤンが唯一これまでその顔に浮かべたことのない表情、それが憎しみだった。

 以洋イーヤンがこれまでに誰かを恨んだことはない。不満を感じて愚痴を言うことはあっても、それが恨みや憎しみに変わったことはない。

 既にこの世を去った親族の手で命を奪われかけた時も、台湾大学の女生徒を殺して首なし幽霊にした犯人を見つけ出した時も、以洋イーヤンが彼等に対して憎しみをぶつけたことはなかった。

 いつだって以洋イーヤンが全力でやろうとするのは、他人の悲しみを引き受け、癒すこと。そして誰かに手を貸して事情を解決することだけだ。

 そんな以洋イーヤンに自分がいつもどれだけ惹きつけられてきたかを懷天フアイティエンは知っている。自分がどれだけ以洋イーヤンを愛しているかも。

 それでもこういった事態が起こっている時に以洋イーヤンを助ける術を懷天フアイティエンは持っていない。

 陸以洋ルー・イーヤンの顔をした、陸以洋ルー・イーヤンではない相手を、懷天フアイティエンはただ見つめた。

「君がこの子のどこを憎んでいるのはわからないが、この子は決して君が思っているような順風満帆のただ愛されるだけの人生を歩んできた子じゃないよ」

 李東晴リー・ドンチン懷天フアイティエンを見つめ返し、しばらくしてようやくまた口を開く。

「それは俺の知ったこっちゃねえよ。俺の見る限り、こいつはもう充分幸せそうじゃねえか」

「それはこの子がもともと持っている善良さや明るい性格があったからこそ得られた環境だよ。君とは全く違う。君は自分の人生を変えるために何をしてきた? 君を育ててくれた母親にその恩を返したのか?」

 懷天フアイティエン李東晴リー・ドンチンから目を逸らそうとしなかった。

 李東晴リー・ドンチンに関する資料は確認した。自殺現場となったあのビルの監視カメラの映像もチェックした。李東晴リー・ドンチンは誰に殺されたのでもなく、確実に自分の意思で死を選んでいる。

「てめえに何がわかるんだよ! 俺にそんなこと言う資格がてめえにあんのか!」

「俺が何もわかってないと言うんなら、君は俺にわかるように話すべきだ。無実の罪を着せられたなら、君はそれを晴らす方法を考えるべきだったのに、責任を負う勇気もなかった。ただ自殺して自分の家族の心に傷を残し、君を陥れた相手の思い通りの結末をもたらしただけだ。それどころか、本来恨みを晴らすべき相手のところに向かいもせず、人の好い相手を見つけて迷惑を掛けている。君は君を傷付けた人間と何が違うんだ?」

 一欠片の容赦もなく言い放たれた懷天フアイティエンの言葉に、李東晴リー・ドンチンが凄まじい形相になり、しばらくして不意に笑いだした。

「確かにな。俺は俺をこんな目に合わせた奴と何も変わらねえよ。あいつのせいで俺はこんな人間になった挙げ句、何にも手に入れられなかったんだからな」

 俯いた李東晴リー・ドンチンの顔に一瞬、荒み切った笑みが浮かぶ。だが、懷天フアイティエンににじり寄った李東晴リー・ドンチンが再び顔を上げた時、そこにあったのはどこまでも魅惑的な微笑だった。

「これでどうだ? あんたがそこまでこいつを好きならそれに免じてやるよ。あんたが俺と一発ヤったら、俺はこいつから離れてやる。一挙両得だろ? こいつのことをそんなに好きならあんたにとって損はないよな? こいつにしたってそんだけあんたを好きなら嫌がる理由は何もないだろ?」

 眉間に皺を寄せ、懷天フアイティエン李東晴リー・ドンチンの目を覗き込んだ。

「君が傍に立って見ているということなら、彼とするところを君に見せることはできるが」

 李東晴リー・ドンチンが笑みを消し、再び懷天フアイティエンを睨めつける。

「いいさ。本気でこいつ以外とは無理だってんなら仕方ない。俺も別な相手を探すぜ。惚れた相手の身体が他の男に玩具にされてるところを、あんたがその目で直視できるかどうか見てやるよ」

 そう言い捨てて身を翻した李東晴リー・ドンチンの手を懷天フアイティエンは掴んだ。出ていこうとする李東晴リー・ドンチンを自分の傍へと引き戻す。

「なんだよ? 気が変わった?」

 嘲笑う李東晴リー・ドンチン懷天フアイティエンは無言で引き摺り、部屋の中へと押し込んだ。そしてドアを閉め、鍵を掛ける。

「君を閉じ込めておくことは俺にもできるんだよ」

「開けやがれ!」

 力いっぱいドアが叩かれる。その音を聞きながら、懷天フアイティエン以洋イーヤンの手が心配になってきた。しかし……今はとにかく以洋イーヤンが外に出られないようにするのが一番だ……。

 首を横に振りつつ向かった台所には、以洋イーヤンが作った夕飯が保温されている。

 まずはこれを食べ、その後、以洋イーヤンを再びイエ家に連れていくべきだろう。電鍋から夕飯を取り出しつつ懷天フアイティエンがそう考えている間も、ドアを叩く音はまだ続いていた。

 ふと、それが止む。そして、誰かが倒れたような音がした。

 慌てて懷天フアイティエンは部屋へ走った。ドアを開けると、以洋イーヤンが床に倒れている。

 頭をぶつけたのかも知れない。今朝、自分が殴った頬の腫れもまだ完全には退いていないのに、この上また頭を打つなんて。顔を顰めた懷天フアイティエンは心の中で李東晴リー・ドンチンを罵りながら、以洋イーヤンに声を掛けた。

小陸シァオ・ルー?」


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