第四章(2)以洋、幽霊の過去を知る

 自分を呼ぶ激怒した声が三人分聞こえた気がして、以洋イーヤンは震えあがった。

「ごめんなさい……」

 小声で謝りながらも足は停めず、そのままMRTの改札を潜る。

 何が起こったのかは大体わかった気がしていた。以洋イーヤンが身に着けている聚魂盒じゅこんばこがあの死者を吸い込んでしまったのはほぼ間違いないはずだ。

 聚魂盒じゅこんばこの中に潜んでいるからこそ、あんなふうに好き勝手に現れたり消えたりできたし、春秋チュンチウの家の観音様も懷天フアイティエンの家の關帝様もその行動を阻めなかったのだと思えば納得だった。

 ただわからないのは、なぜあの死者を聚魂盒じゅこんばこが吸い込んだのかということ。これまで他の死者相手にそんなことが起こったことはないし、以洋イーヤンだってそんなことをした覚えはない……。

 乗り込んだMRTの車内で、原因を考えてみても考えつけずにいた以洋イーヤンは、ちょうど鳴り始めた携帯電話を慌てて取り出した。

 掛けてきているのは槐愔フアイインだ。まだましだと思い、以洋イーヤンはほっと息を吐く。

 春秋チュンチウだったら叱責の嵐にしかならない。もちろん好意に基づいてのことなのだが、それでも春秋チュンチウ以洋イーヤン槐愔フアイインについていくことにしたのをやはり受け入れられていない……。

「……槐愔フアイイン……」

 恐る恐る以洋イーヤンは通話に出た。

『お前な、春秋チュンチウじゃなかったら怒られないとか思っただろ?』

「ごめん……、でも、わかったんだ、何が起こったのかが。……あの死者は……聚魂盒じゅこんばこに吸い込まれちゃったんだよね?」

 車輌のできるだけ隅に引っ込み、携帯電話をきつく耳に押し当てる。

『ああそうだ。よく聞けよ。あいつはお前相手に何もできない。だからお前はあいつを怖がる必要なんかないんだ。お前の意識がある限り、あいつがお前の身体を操ることもない。俺の見たところじゃ一番いい方法は、誰かにお前を見張っててもらうことだな。春秋チュンチウのとこにいるのがベストだ。でなかったら俺と一緒に事務所に戻って、俺がお前を見張るんでもいい。後は、お前んとこの高懷天ガオ・フアイティエンを呼んで、お前を縄か何かで繋いでてもらうってのもありだぜ。あの死者は遅かれ早かれお前から離れるからな』

「離れるって、それ、いつ? あの死者が自分であの世に向かうってこと?」

 憂鬱な気分で訊ねた以洋イーヤンに、槐愔フアイインが一瞬沈黙した。

『お前、学校に行くのか?』

 再び口を開いた槐愔フアイインが、唐突に話題を切り替える。

「うん……」

『あいつのことを調べに行く気だな? あいつが離れていくまでお前が大人しく待っていたくないってんなら、俺もなんにも言えねえよ。自分の身はお前が自分で守れ。ただし、春秋チュンチウが自分の命を差し出してまでお前を守ったってことは忘れんな。絶対にふざけた真似はすんなよ、お前』

「わかってる。気をつけるよ。絶対に気は抜かない」

 力強く以洋イーヤンは頷いた。

 電話の向こう、槐愔フアイインが通話を切った音がする。これに続けて春秋チュンチウ冬海ドンハイからも電話が掛かってくるという事態はないはずだ。槐愔フアイインが阻止するだろう。

 大きく溜め息を吐いて、以洋イーヤンはMRT車輌のドア脇に身を凭せ掛けた。地下を走る車輌の窓が鏡になって、以洋イーヤンの姿を映し出している。

 槐愔フアイインがさっき口にしなかった言葉はなんだったんだろう……。

 告げられなかった言葉の内容を考えていた以洋イーヤンは、ガラスの中にあの死者の姿が映っているのに気付いた。

 車内の人々に紛れるようにして立っているあの死者。眼窩から飛び出し掛けた眼球を伝って鮮血が流れ出ている。以洋イーヤンを嘲笑うように口は開いたり閉じたりしていた。折れてねじ曲がった死者の腕が上がり、以洋イーヤンを指差す。

 深く息を吸い込み、以洋イーヤンは死者から目を逸らした。

 お前なんか怖くない。少しも怖くなんかない!

 心の中でそう叫んだきり、その姿が見えていないようにふるまう。イヤホンを耳に挿し込んだ以洋イーヤンはボリュームを上げ、言葉にならない恐怖を大音量の音楽で追い払おうとした。

 深呼吸を繰り返すことで、動悸を落ち着かせる。

 以洋イーヤンが向かおうとしているのは大学の図書館だ。以洋イーヤン自身もあとは卒業証書を受け取りさえすれば卒業できることになっているのだが、担当教授が国外へ行ってしまっているため、いつになったら証書を受け取れるのかわからない。

 MRTから降り、駅を出て学校へ向かう。キャンパスを貫く大王椰子の並木道を抜けて、以洋イーヤンは図書館に足を踏み入れた。

懷天フアイティエンに訊かれた名前は確か……ホー……ユイリンだったような。ユイリン、どんな字だろ。玉林ユイリンかな? それとも、聿霖ユイリン? いったいどのユイで、どのリンだよ……」

 ノートパソコンを取り出して、大学のサイトに入り、検索を始める。

「これかな? 賀昱霖ホー・ユイリン教授」

 プロフィール写真の顔立ちにはどこか見覚えがあるような気がした。別なウィンドウを立ち上げ、最近のニュースを検索してみる。

「自殺、自殺っと。……あった」

 見つけた記事に以洋イーヤンは目を走らせた。某ビルから青年が飛び降り自殺。台湾大学の研究室の助手だったが、使い込みがばれての自殺らしい。

 その研究室の教授である賀昱霖ホー・ユイリンのコメントも載っていた。優秀ないい学生だったのに、一時の過ちでと、故人を悼んでいる。使い込まれた研究費も死んだ助手に代わって自分が補填すると述べていた……。

『あんた、よく俺にこんな真似できたな!』

「うわ……」

 怒りの籠もった罵声が突然脳裏に響き渡り、以洋イーヤンは頭を殴られたような痛みを覚えた。

『あんたの将来の方が俺の将来より重要だとでも思ってんのか? 俺はこの手の悪事には絶対手を出さないんだよ!』

『安心してくれ。君の家族の面倒は私が見る』

 ……痛たた……。

 頭を押さえてみても、その呪いのような声は以洋イーヤンの耳の奥に谺して跳ね回っている。声もますます大きくなり、頭蓋が破裂しそうだ。

 幻のような景色が見えた。十四、五歳くらいの少年の姿。葬儀に参列しているようだ。

 その少年が母親を慰めているのが見える。今執り行われているのは少年の父親の葬式だった。

 少年が一人で葬儀の席から出ていく。男性が一人その子の後を追った。少年を慰めている男の顔は……今よりも随分若いが――賀昱霖ホー・ユイリン教授だ。

『そんなに悲しまないで。君のお父さんだってそんなことを望んじゃいないはずだ』

『あんな奴、俺の父親なんかじゃない……』

『君の面倒は私が見るよ。だから安心しなさい』

 まだ若い賀昱霖ホー・ユイリンが少年の肩に手を置いて微笑む。

 時間の針が不意にそこで跳ね飛んだようだった。

 今よりはまだ若い賀昱霖ホー・ユイリンと、さっきよりは少し成長しているあの少年。少年の眼の中にははっきりと、賀昱霖ホー・ユイリンへの思慕が見て取れる。それが父親に対するようなものなのか、それとも恋愛感情なのかはわからないが。

『ほんとに……ほんとにこんなこと……していいの?』

『怖がらなくていい。教えてあげるよ』

 次に見えたのは、二人のベッドシーンだった。少年は、まだ十六歳にもなっていないはずだ。

 もういい……もう見たくないよ、こんなの……。

 なんとかこの光景を掻き消そうと以洋イーヤンは頭を抱え込んだ。それでも以洋イーヤンの脳裏で幻は再生され続ける。

 成長していく少年。高校進学、そして大学に進学した後も二人の関係は続いている。院に進み卒業した後も少年は賀昱霖ホー・ユイリンの傍にいた。ただし、少年の顔からは徐々に輝きが消えていく。

『この論文は少し修正した方がいいね。私が手伝おう』

『うん……』

 少年は知っている。その論文が最終的には賀昱霖ホー・ユイリンの名前で発表されるはずだと。それでも少年は気にしない。そうなると知っていて、わざと賀昱霖ホー・ユイリンに見せた論文だからだ。

 少年が成長するにつれ、賀昱霖ホー・ユイリンは少年への興味を失っていく。だからそうやって貢物をすることでしか、少年は賀昱霖ホー・ユイリンを引き留められない。

『……別に俺、プレゼントなんてもらわなくても。これ……高いんじゃ?』

『大した金額じゃないよ。心配はいらない』

 論文が賀昱霖ホー・ユイリンの名前で発表される度に、賀昱霖ホー・ユイリンが別な男の子と関係を持つ度に、少年には高価なプレゼントが贈られる。

 車を買い替えてくれる。時計を買い替えてくれる。ブランド物のスーツ、そして靴。少年はますます不安になってくるが、賀昱霖ホー・ユイリンは気にも留めない。

 そして、少年はついに知ってしまい、真っ青になる。自分にプレゼントを贈る金を、賀昱霖ホー・ユイリンがどこから用立てていたのか。

『なんでこんなことを! これって、これって公金横領じゃないか!』

『何も心配はいらないよ。適当な名目で報告すればそれで済む。みんなそうやっているんだ』

『数千とか数万とか、その程度の金額じゃないんだぞ。何十万使い込んだか、あんたわかってるのか?』

『君が心配する段にはまだなっていないよ。何もしなくていい』

 少年は意気消沈し、どうするのが一番いいのかわからずにいる。そんな時、合同で研究を進めている法人が、急に監査に来ることになる。

 賀昱霖ホー・ユイリンが色を失っている。まさかスケープゴートにしようとした少年が、それを断固拒否するとは思わなかったのだろう。

 自首する、そう賀昱霖ホー・ユイリンは答える……。

 自首すると、そう少年に答えたのに……。

 自分が犯人だということにされてしまっている、そう気付いても、少年は受け入れることができない。自分が愛した人が、自分をこんな目に合わせたという事実を。

 どうやっても信じることができない。恩師として敬い、父親のように慕っていた相手が、自分をこんな目に合わせたのだとは。

 失意の底で少年が思っているのは母親のこと。母親にすまないと謝っている。しかし、少年にはわからない。着せられた罪を、どうすればいいのか。賀昱霖ホー・ユイリンに対するこの恨みと憎しみをどうすればいいのかも。

 自分を取り巻いているこの全てから抜け出したい。少年が考えているのはもうそれだけだ。これ以上苦しむのはもう嫌だ。

 そして、少年の視線はビルに向けられる。あのビルの、最上階に……。

「ちょっと、ねえ、どうしたの?」

 肩に手が置かれる。親切な誰かの呼び掛けが、以洋イーヤンを現実へと引き戻した。

 自分が全身にびっしょりと汗を掻いていることに、荒い息を吐きながらようやく以洋イーヤンは気付く。顔を上げた先、以洋イーヤンを覗き込んでいるのは図書館職員のおばさんだった。

 額の汗を手で拭い、どうにかおばさんに笑い掛ける。

「大丈夫です。ちょっと頭痛がするだけで」

「熱も出ているんじゃない? 医務室まで送っていきましょうか?」

 おばさんが手を以洋イーヤンの額に押し当ててきたので、慌てて以洋イーヤンは左右に首を振った。

「いいですいいです。大丈夫ですから。ありがとうございます」

 おばさんに礼を言って、ノートパソコンを片付け、図書館の外に出る。

 図書館前の芝生に辿り着いたところで、以洋イーヤンは地面にへたり込んだ。この季節には珍しく顔を覗かせている太陽の光を浴びながら、大きく息を吐く。

 ようやくまた立ち上がったのは、しばらく経って多少気分がよくなった後だ。

 そういう……ことだったんだ……。

 とぼとぼと並木道を歩きつつ、今し方見たばかりのあの自殺者の過去に思いを馳せた以洋イーヤンは、ふと口を開いた。

「教えてくれない……? 君がなんていう名前なのか」

 少し待ってみたが、やはり反応はない。それでも以洋イーヤンは更に言葉を続ける。

「もし僕に助けてほしいなら、そう言ってよ。助けがいらないなら僕から離れて。今みたいな態度を取っていても、君にだってなんにもならないだろ?」

 そう言って以洋イーヤンが眉を顰めた時だ。

『なんにもならないってことはないさ、あんたくらい若くてかわいけりゃな。あんたが俺を追いだすまでは、俺は好きなだけここにいるぜ』

 その言葉にも以洋イーヤンは腹を立てなかった。

「ようやく僕と話す気になったね。君の名前は? 君が言わないなら、自分で調べに行くけど」

『……李東晴リー・ドンチン

「ふうん、悪くない名前じゃん」

 笑みを浮かべた以洋イーヤンは、もう何歩か歩いたところで足を停める。

「君さ、僕についてきていったい何がしたいわけ? 無意味にこの世に留まっているのは無理だよ? 僕の身体にだってそんなに取り憑いていられるわけじゃなし」

『そんなに取り憑いていられないって、なんでそんなことがお前にわかるんだよ? 俺は好きなだけお前の中にいる気だぜ!』

槐愔フアイインが言ってたんだよ。君はそんなに長くはここにいられないって。君が宿ってる場所は……君が、って言うか……人間……が宿っているべき場所じゃないんだ」

 幽霊が、とは以洋イーヤンも敢えて口にしようとは思わなかった。わざわざその事実を突きつける必要はない。

『ふん、どうせお前は俺を追い出せないだろ。お前に何ができるのか見ていてやるよ』

「だから君がそんなんじゃ、僕だってどうにも助けようがないんだってば……」

 以洋イーヤンは溜め息を吐いた。さっき図書館でこれまでのいきさつを見てしまって以来、この幽霊に対する以洋イーヤンの恐怖心は急速に低下している。変わって込み上げてきたのは強い同情心だ。

「君は賀昱霖ホー・ユイリンに復讐したいの?」

『余計な真似すんじゃねえよ!』

 思い切り殴られたような痛みが頭に走り、以洋イーヤンはしゃがみ込んで頭を抱えた。くらくらしてしばらく立ち上がれない。

「……ああもう……まさかこんな攻撃手段があるなんて。……君さあ、もうちょっと理性的に話せない?」

 どれだけ待ってみても、返事が戻ってくることはなかった。

 まだ頭の痛みが退かない。ぼうっとしている頭で考え、今はやはり家に帰るのがベストだと結論を出す。

 懷天フアイティエンに電話し、以洋イーヤンは自分の無事を告げた。これから家に帰って食事を作るという予定を伝え、電話を切る。

 李東晴リー・ドンチンが何をしたいにしろ、これ以上は心配しない。怖がることもしない。今やるべきことは、家に帰って夕飯を作り、懷天フアイティエンに食べさせること。そして、今度こそあのDVDをラストまで見ることだ!

 あ……、DVD、春秋チュンチウのところに置いてきちゃったよ……。

 決意した矢先に、それに気付いて項垂れる。さすがにこの状況であの家にDVDを取りに行く度胸は以洋イーヤンにもない。

 仕方ない。あの映画とは縁がなかったんだよ。

 そう思いながらしょんぼりと家に帰るしかなかった。

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