第四章(2)以洋、幽霊の過去を知る
自分を呼ぶ激怒した声が三人分聞こえた気がして、
「ごめんなさい……」
小声で謝りながらも足は停めず、そのままMRTの改札を潜る。
何が起こったのかは大体わかった気がしていた。
ただわからないのは、なぜあの死者を
乗り込んだMRTの車内で、原因を考えてみても考えつけずにいた
掛けてきているのは
「……
恐る恐る
『お前な、
「ごめん……、でも、わかったんだ、何が起こったのかが。……あの死者は……
車輌のできるだけ隅に引っ込み、携帯電話をきつく耳に押し当てる。
『ああそうだ。よく聞けよ。あいつはお前相手に何もできない。だからお前はあいつを怖がる必要なんかないんだ。お前の意識がある限り、あいつがお前の身体を操ることもない。俺の見たところじゃ一番いい方法は、誰かにお前を見張っててもらうことだな。
「離れるって、それ、いつ? あの死者が自分であの世に向かうってこと?」
憂鬱な気分で訊ねた
『お前、学校に行くのか?』
再び口を開いた
「うん……」
『あいつのことを調べに行く気だな? あいつが離れていくまでお前が大人しく待っていたくないってんなら、俺もなんにも言えねえよ。自分の身はお前が自分で守れ。ただし、
「わかってる。気をつけるよ。絶対に気は抜かない」
力強く
電話の向こう、
大きく溜め息を吐いて、
告げられなかった言葉の内容を考えていた
車内の人々に紛れるようにして立っているあの死者。眼窩から飛び出し掛けた眼球を伝って鮮血が流れ出ている。
深く息を吸い込み、
お前なんか怖くない。少しも怖くなんかない!
心の中でそう叫んだきり、その姿が見えていないようにふるまう。イヤホンを耳に挿し込んだ
深呼吸を繰り返すことで、動悸を落ち着かせる。
MRTから降り、駅を出て学校へ向かう。キャンパスを貫く大王椰子の並木道を抜けて、
「
ノートパソコンを取り出して、大学のサイトに入り、検索を始める。
「これかな?
プロフィール写真の顔立ちにはどこか見覚えがあるような気がした。別なウィンドウを立ち上げ、最近のニュースを検索してみる。
「自殺、自殺っと。……あった」
見つけた記事に
その研究室の教授である
『あんた、よく俺にこんな真似できたな!』
「うわ……」
怒りの籠もった罵声が突然脳裏に響き渡り、
『あんたの将来の方が俺の将来より重要だとでも思ってんのか? 俺はこの手の悪事には絶対手を出さないんだよ!』
『安心してくれ。君の家族の面倒は私が見る』
……痛たた……。
頭を押さえてみても、その呪いのような声は
幻のような景色が見えた。十四、五歳くらいの少年の姿。葬儀に参列しているようだ。
その少年が母親を慰めているのが見える。今執り行われているのは少年の父親の葬式だった。
少年が一人で葬儀の席から出ていく。男性が一人その子の後を追った。少年を慰めている男の顔は……今よりも随分若いが――
『そんなに悲しまないで。君のお父さんだってそんなことを望んじゃいないはずだ』
『あんな奴、俺の父親なんかじゃない……』
『君の面倒は私が見るよ。だから安心しなさい』
まだ若い
時間の針が不意にそこで跳ね飛んだようだった。
今よりはまだ若い
『ほんとに……ほんとにこんなこと……していいの?』
『怖がらなくていい。教えてあげるよ』
次に見えたのは、二人のベッドシーンだった。少年は、まだ十六歳にもなっていないはずだ。
もういい……もう見たくないよ、こんなの……。
なんとかこの光景を掻き消そうと
成長していく少年。高校進学、そして大学に進学した後も二人の関係は続いている。院に進み卒業した後も少年は
『この論文は少し修正した方がいいね。私が手伝おう』
『うん……』
少年は知っている。その論文が最終的には
少年が成長するにつれ、
『……別に俺、プレゼントなんてもらわなくても。これ……高いんじゃ?』
『大した金額じゃないよ。心配はいらない』
論文が
車を買い替えてくれる。時計を買い替えてくれる。ブランド物のスーツ、そして靴。少年はますます不安になってくるが、
そして、少年はついに知ってしまい、真っ青になる。自分にプレゼントを贈る金を、
『なんでこんなことを! これって、これって公金横領じゃないか!』
『何も心配はいらないよ。適当な名目で報告すればそれで済む。みんなそうやっているんだ』
『数千とか数万とか、その程度の金額じゃないんだぞ。何十万使い込んだか、あんたわかってるのか?』
『君が心配する段にはまだなっていないよ。何もしなくていい』
少年は意気消沈し、どうするのが一番いいのかわからずにいる。そんな時、合同で研究を進めている法人が、急に監査に来ることになる。
自首する、そう
自首すると、そう少年に答えたのに……。
自分が犯人だということにされてしまっている、そう気付いても、少年は受け入れることができない。自分が愛した人が、自分をこんな目に合わせたという事実を。
どうやっても信じることができない。恩師として敬い、父親のように慕っていた相手が、自分をこんな目に合わせたのだとは。
失意の底で少年が思っているのは母親のこと。母親にすまないと謝っている。しかし、少年にはわからない。着せられた罪を、どうすればいいのか。
自分を取り巻いているこの全てから抜け出したい。少年が考えているのはもうそれだけだ。これ以上苦しむのはもう嫌だ。
そして、少年の視線はビルに向けられる。あのビルの、最上階に……。
「ちょっと、ねえ、どうしたの?」
肩に手が置かれる。親切な誰かの呼び掛けが、
自分が全身にびっしょりと汗を掻いていることに、荒い息を吐きながらようやく
額の汗を手で拭い、どうにかおばさんに笑い掛ける。
「大丈夫です。ちょっと頭痛がするだけで」
「熱も出ているんじゃない? 医務室まで送っていきましょうか?」
おばさんが手を
「いいですいいです。大丈夫ですから。ありがとうございます」
おばさんに礼を言って、ノートパソコンを片付け、図書館の外に出る。
図書館前の芝生に辿り着いたところで、
ようやくまた立ち上がったのは、しばらく経って多少気分がよくなった後だ。
そういう……ことだったんだ……。
とぼとぼと並木道を歩きつつ、今し方見たばかりのあの自殺者の過去に思いを馳せた
「教えてくれない……? 君がなんていう名前なのか」
少し待ってみたが、やはり反応はない。それでも
「もし僕に助けてほしいなら、そう言ってよ。助けがいらないなら僕から離れて。今みたいな態度を取っていても、君にだってなんにもならないだろ?」
そう言って
『なんにもならないってことはないさ、あんたくらい若くてかわいけりゃな。あんたが俺を追いだすまでは、俺は好きなだけここにいるぜ』
その言葉にも
「ようやく僕と話す気になったね。君の名前は? 君が言わないなら、自分で調べに行くけど」
『……
「ふうん、悪くない名前じゃん」
笑みを浮かべた
「君さ、僕についてきていったい何がしたいわけ? 無意味にこの世に留まっているのは無理だよ? 僕の身体にだってそんなに取り憑いていられるわけじゃなし」
『そんなに取り憑いていられないって、なんでそんなことがお前にわかるんだよ? 俺は好きなだけお前の中にいる気だぜ!』
「
幽霊が、とは
『ふん、どうせお前は俺を追い出せないだろ。お前に何ができるのか見ていてやるよ』
「だから君がそんなんじゃ、僕だってどうにも助けようがないんだってば……」
「君は
『余計な真似すんじゃねえよ!』
思い切り殴られたような痛みが頭に走り、
「……ああもう……まさかこんな攻撃手段があるなんて。……君さあ、もうちょっと理性的に話せない?」
どれだけ待ってみても、返事が戻ってくることはなかった。
まだ頭の痛みが退かない。ぼうっとしている頭で考え、今はやはり家に帰るのがベストだと結論を出す。
あ……、DVD、
決意した矢先に、それに気付いて項垂れる。さすがにこの状況であの家にDVDを取りに行く度胸は
仕方ない。あの映画とは縁がなかったんだよ。
そう思いながらしょんぼりと家に帰るしかなかった。
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