第四章(1)以洋、葉家に連れ戻される

 イエ家のビルの下に車を停めた懷天フアイティエンは、珍しく自分も車を降り、以洋イーヤンを送って二十四階まで上がることにした。何か突発的な事態が起きるのを防ぐために。

「心配しなくても自分で上まで行けるよ?」

 そう言って懷天フアイティエンを見上げる以洋イーヤンの顔には、大きな青痣ができている。

 殴った時に、確実に力は加減した。それでもこんな痣を以洋イーヤンの顔に作ってしまった。

 胸の痛む思いで懷天フアイティエン以洋イーヤンの頬をそっと撫でた。

「まだ痛い?」

「ううん。もう全然」

 大きく以洋イーヤンが首を横に振る。

 チーンとベルが鳴ってエレベーターが最上階に到着したので、懷天フアイティエンは苦く笑って以洋イーヤンの頬から手を放した。

「着いたよ」

 二人ともエレベーターから下りたところで以洋イーヤンがカードキーを玄関ドアに潜らせようとする。だがその前にドアを開け、春秋チュンチウが飛び出してきた。

「この家から出るなって、俺はちゃんと言っ……その顔どうしたんだ!?」

 仰天して叫んだ春秋チュンチウが、両手で以洋イーヤンの顔を挟んで、思わずぎょっとするような青痣を確認する。

「その、ドアにぶつかっちゃって……」

「俺が殴ったんだ」

 以洋イーヤン懷天フアイティエンが口にしたのは同時だった。春秋チュンチウ懷天フアイティエンを睨めつける。

「殴っただと?」

 その後ろ、ちょうど玄関先に出てきた冬海ドンハイが、懷天フアイティエンの姿を見て驚いた顔になった。

「先輩」

 以洋イーヤンが引っ越していってから三週間後、冬海ドンハイ以洋イーヤンを問い詰めて引っ越し先が懷天フアイティエンのところだと白状させている。

 その引っ越し先がありなのか、冬海ドンハイもさんざん悩んだが、懷天フアイティエンが悪い人間ではないのは自分の先輩としてよくわかっているし、以洋イーヤンにしたところで別に本当の未成年者というわけではない。

 だから結局は何も言わず、経過を観察するだけにした。そして以洋イーヤンが相変わらず溌溂と毎日と過ごしているのを確認して以降は、特に口出しはしていない。考えるたびに若干微妙な気分になってはいたが、それだけだ。

 そしてその後、冬海ドンハイ自身も春秋チュンチウのサポートとイエ家の事業面で忙しくなってしまい、警官時代のように懷天フアイティエンと顔を合わせることもなくなっていた。そのため、昨日、懷天フアイティエンから電話が掛かってきたのは、冬海ドンハイにとっても青天の霹靂だった。

 春秋チュンチウが力いっぱい以洋イーヤンの頬を引っ張ったので、以洋イーヤンが悲鳴を上げる。

「痛た、痛いよ春秋チュンチウ!」

「痛くしてんだよ!」

 憤然とした表情で春秋チュンチウ以洋イーヤンの頬から指を離した。

「なんで勝手に出掛けてんだ、お前は!」

「自分が出掛けてるってわからなかったんだよ……」

 しょんぼりと俯いた以洋イーヤンは、ホテルの件を思い出し、腹が立つやら悲しいやらでまだ泣きそうになる。そんな以洋イーヤンを見て春秋チュンチウもそれ以上は責めるのをやめた。

「まずは入れよ」

 以洋イーヤンの手を引っ張ってそう言った時、またチンと音がして、もう一台のエレベーターのドアが開く。怒りの形相でケージから飛び出してきたのは、今度は槐愔フアイインだ。

「おいこら! 俺が探してるってわかったのに、なんで先に俺のところに来ないんだよ!?」

「え、ええと……」

 直視できず以洋イーヤンは視線を下に向けた。春秋チュンチウ槐愔フアイイン、これではどっちがより怖いかわからない。

「何怒ってんだ。こいつはいつもここに帰ってくんだよ。お前は入ってこないのか?」

 顔を顰めた春秋チュンチウが代わりにそう言い返す。

「なんで俺が入らなきゃなんねえんだよ。そっちこそなんで出てこねえ?」

 槐愔フアイインも負けずに反撃した。

「なんで俺が外に出る必要があんだよ。お前が立ってんのは俺んちの玄関先だろ!」

「俺が立ってんのがお前の玄関先だからなんだってんだ? 俺だってここに住んだことくらいあんだよ!」

 言い争う二人から距離を取り、以洋イーヤン懷天フアイティエンの手を引っ張ってささやく。

「先に帰っててくれていいよ。何日かしてほとぼりが冷めたら僕も帰るから」

 以洋イーヤンのその言い方に懷天フアイティエンが噴き出した。

「じゃあ、先に帰るよ」

 そう言った後、また以洋イーヤンの頬の痣を撫でて、穏やかに付け加える。

「氷で冷やすと腫れは早く引くから」

「うん、冷やしとく。でもほんとにもう痛くないから心配しないで」

 以洋イーヤンも真面目な顔で懷天フアイティエンを見つめ返しながらそう答えた時、冬海ドンハイが気まずそうに春秋チュンチウ槐愔フアイインを迂回して二人のところへやってきた。

「ええと、先輩……」

 その後ろからは春秋チュンチウ槐愔フアイインが二人して、なんだかデートの最後に名残を惜しんでいるカップルのような状態の以洋イーヤン懷天フアイティエンを睨んでいる。

 真っ赤になってあたふたと以洋イーヤン懷天フアイティエンの手を放した一方、懷天フアイティエンはこの場で一番の年長者としての余裕を見せて笑顔を崩さなかった。

「じゃあ先に帰るよ。邪魔したね」

「先輩もどうぞ中へ……」

 そう言いかけた冬海ドンハイが、ちらりと後ろに目をやる。そこでは春秋チュンチウが凶悪極まりない目つきで懷天フアイティエンを睨んでいた。慌てて視線を戻し、冬海ドンハイは乾いた笑い声を立てた。

「と思ったんですが、先輩、お忙しそうですね」

 懷天フアイティエンも笑いながら冬海ドンハイの肩を叩く。

「まだ署にも戻らなきゃならないからね。また今度会おう」




 冬海ドンハイの肩越しに以洋イーヤンに手を振って、懷天フアイティエンがエレベーターに乗り込む。ドアが閉まりエレベーターが下へ向かって動き出したところで、閉まったエレベーターのドアをまだ睨んだまま春秋チュンチウ以洋イーヤンの手を引っ張った。

「中に入るぞ」

「おいちょっと待て!」

 槐愔フアイイン以洋イーヤンのもう一方の手を掴む。

「俺と帰れ。春秋チュンチウ、あれがある以上、お前じゃどうしようもないだろうが!」

「けどここの方が安全だろ! お前のところなんかあの世の連中がどれだけ行列作って、こいつを傷つける順番待ちしてるかわかったもんじゃない」

 春秋チュンチウの方も以洋イーヤンの手を放そうとせずに槐愔フアイインを睨んだ。

「死人の方が安全だろうが。人間相手じゃどこに置いといたところでこいつはいなくなるぞ。死人に見張らせといた方が有効だ」

 槐愔フアイイン以洋イーヤンの手を放さずに春秋チュンチウを睨み返す。

「お前ら、やるならもっと力入れて引っ張り合いな」

 冬海ドンハイが肩を竦めた。

「力いっぱい引っ張り合って、心が痛んだ方が負けってことにしろよ。それとも包丁持ってきて、俺が小洋シァオ・ヤンを半分にぶった切るか?」

 二つのそっくりな顔が、はっとしたように以洋イーヤンに向けられる。泣き出す寸前の以洋イーヤンの顔を見て、二人とも一斉に手を放した。

 その槐愔フアイインの手を以洋イーヤンは引っ張る。

槐愔フアイインも中に入ってよ。……せっかくここまで来たんだし」

 そんな以洋イーヤンを睨んだ後、槐愔フアイインが手を伸ばして以洋イーヤンの頭を一発叩いた。

「俺に迷惑掛けるのはお前の専売特許だからな」

「まあここは、お前が育った場所でもあるわけだし、一歩足を踏み入れた途端に死ぬってわけでもないだろ……?」

 幾分ぎごちなく春秋チュンチウがそう口にし、そのままさっさと身を翻す。

「ま、入ってくるも来ないもお前の好きにしろよ」

 そう言い捨てて一人だけ春秋チュンチウが家の中へ戻っていってしまった後、笑って冬海ドンハイ槐愔フアイインに目を向けた。

「入れよ。長居しなきゃいい。ちょっとだけあいつに付き合ってやってくれ」

 むっつりとした顔になった槐愔フアイインが、それでも最後には諦めたように玄関を潜る。

「じゃ、僕、お茶を淹れに……」

 台所へ向かおうとした以洋イーヤンは、冬海ドンハイに笑顔で引っ張り戻された。

「お茶がどうしたって? お前はまずそこへ坐って、その顔を俺たちに手当させろ」

 春秋チュンチウが氷嚢を持ってきて以洋イーヤンに渡す。

「これ使いな」

「ありがと」

 大人しくそれを受け取り、以洋イーヤンは頬に押し当てた。冷たさに思わず顔が歪む。

「痛たた……」

「痛いのか? お前さっきデカい声で言ってやしなかったか? ボクもう全然痛くないから心配しないで~とかなんとか?」

 槐愔フアイイン以洋イーヤンを睨んできて、以洋イーヤンは顔を伏せた。

 ああもう、恥ずかしい。玄関先でラブシーンだなんて。

「それで、いったい今何が起こってんだ?」

 ソファに腰を下ろした春秋チュンチウ槐愔フアイインに顔を向ける。

「お前がこいつにやった変なブツに何か問題があったんじゃないのか? こいつに何が取り憑いてるのか、俺が全然見通せなかったんだぞ?」

 へ、変なブツ……?

 少しの間考えてから、以洋イーヤンは胸元を探った。春秋チュンチウが言っているのはこの聚魂盒じゅこんばこのことだろうか……?

「そんなヤバい物なんか俺がこいつに渡す訳ないだろうが」

 春秋チュンチウを睨み返した槐愔フアイイン以洋イーヤンの方に向き直る。

「あの日いったい何があってどういう状況だったのか、最初から最後まで俺に話してみろ。一つ残らずだぞ」

「ええと……ちょっと思い出すね」

 氷嚢を頬に押し付けたり離したりしながら、以洋イーヤンはあの日の場景を記憶に蘇らせた。

「あの日は……事務所からの帰りだったんだよ。そもそもは野菜を買いに行くつもりで……」

 ふと別なことも以洋イーヤンの脳裏に浮かぶ。

「あ、書店が三十%オフのセールしてたんだ。まだ三日あるから先輩に教えてあげなきゃ……」

 そう言いかけたところで三人に揃って睨めつけられ、以洋イーヤンは慌てて下を向いて更に記憶を辿った。

「ええと……書店の傍を通り過ぎたところで、急に誰かが僕を押したんだよ。それで僕が転んじゃって目を白黒させてて、そのすぐ後にその、落ちてきた人を見ちゃったんだ……」

 思わずぶるっと以洋イーヤンは身を震わせる。あの恐ろしい眼を思い出すと、今でもまだ寒気がするほど怖い。

「そこ、もっとはっきり話してみろ。お前は何を見たんだ?」

 コツコツとローテーブルを叩いて槐愔フアイインが先を促す。

「ものすごく怖い感じのする目を見ちゃったんだよ……」

 顔を顰めた以洋イーヤンは自分の身体に腕を回して腕をきつく抱き締めた。

「その後、急に視界が高いところに舞い上がったような気がして……誰かの声が聞こえた。誰かのことを許さないって言ってる声が。……それから、急に今度は下に落ちていって……、完全に落ちたところで僕の視界に戻ったんだ」

 春秋チュンチウ槐愔フアイインがどちらも呆然とした顔になる。先に口を開いたのは槐愔フアイインだった。

「そんな重大なことをなんでお前は言わないんだよ?」

「そ、そんなに重大だなんてわかんないし……心配掛けたくなかっただけだよ。あれってほんとに、ほんとにものすごく怖くて……」




 しょんぼりと項垂れた以洋イーヤンを見て春秋チュンチウが、怒りたいのに怒れないというように眉をぴくぴくさせている。

 苦笑しながら冬海ドンハイ以洋イーヤンの頭を撫でてやった。

「俺たちに心配掛けたって別にどうってことないだろ? お前に何が起こったかわからずにいるよりましなんだぞ?」

「うん……ごめんね」

 以洋イーヤンの眼からまた涙が溢れそうになっている。

「それでいったいどういうことなんだよ?」

 春秋チュンチウ槐愔フアイインを振り返った。

「思うに……そいつが聚魂盒じゅこんばこに吸い込まれたんじゃないか……?」

 そう言いながら槐愔フアイイン自身も、半信半疑という顔をしている。

「何にだって?」

 意味がわからずに槐愔フアイインを見つめた春秋チュンチウの前で、槐愔フアイインが手を伸ばし以洋イーヤンの顔を両手で挟み込むようにして自分の方に向けた。そのまま以洋イーヤンの眼を覗き込む。まるで、もっと深いどこかを見ているかのように。

 以洋イーヤンもむやみに動くことなく、大人しく座ったまま槐愔フアイインに覗き込ませていた。

「お前やっぱり……俺と一緒に帰った方がいいな」

 しばらくして槐愔フアイインがそう結論を下す。

「ちょっと待てよ」

 不満げな顔で春秋チュンチウが立ち上がった。

「帰る前にはっきり言っていけよ。こいつはいったいどうなってるんだ?」

「お前に説明したって意味ねえよ。お前ずっとこの辺の話は聞きたがらなかったろうが」

 うんざりしたような目を槐愔フアイイン春秋チュンチウに向ける。

「なんでお前今日はそんなにカッカしてるんだ?」

「なんてそんなに怒ってんのかだと? 俺がお前に渡したこのお人好しを、お前がこんな風にしたからだろうが! よくそんなことが訊けるな?」

 火に油を注がれたように春秋チュンチウが更に怒り出した。

「お前はあのガキのお母さんかよ! あいつが自分で望んで俺のところに来るって言ったのに、なんでお前がまだ過保護にくっついてんだ!」

「目を離せるわけないだろ! そもそも俺はお前にだって、そっちの道には行くなって言ってたのに、お前が聞かなかったんじゃないか。おまけに小洋シァオ・ヤンのことまでこんなにして返してきやがって!」

「俺がどの道を行くかは俺の家の問題だっての! 今さらそれを蒸し返すのかよ!」

 恐る恐る後退りながら以洋イーヤン冬海ドンハイの袖を引っ張る。

「あのさ、僕、逃げてもいい……?」

「どこに逃げるんだよ?」

 腹の立つお子様の頭を、笑いながらまた軽く冬海ドンハイは叩いた。

「部屋に戻ってりゃいいだろ?」

「僕、学校に行きたいんだけど」

 肩を縮こまらせながら、それでも以洋イーヤンが言い募る。

「みだりに出歩くなって言っただろ? 何が学校だ」

 睨みつけた冬海ドンハイの前で、以洋イーヤンが必死に顔を上げた。

「何が起こったのか、わかったような気がするんだよ……。槐愔フアイインがさっき言ったこと、あれを聞いてわかったんだ、冬海ドンハイ

「その槐愔フアイインがお前にもわかるように噛み砕いて言ってるんだろうが。自分の勝手な解釈で動くなってことを」

 もう一度以洋イーヤンを睨んでから、冬海ドンハイはまだけりが付きそうにない兄弟喧嘩の方を振り向いた。

「二人とももう充分だろ!」

 いい加減可笑しくなりながら二人を止める。

「そんな風に言い争って、なんか意味があるのか? 何箇月も会ってないくせに、顔を合わせりゃすぐ喧嘩かよ。座って仲良く話すってことができないのか、お前らは」

「こいつが俺に喧嘩売ってくるんだよ」

 槐愔フアイイン春秋チュンチウをまた睨みつけた。

「誰が好きでお前に喧嘩売ってるんだよ?」

 春秋チュンチウも負けずに槐愔フアイインをまた睨み返す。

「お前ら二人……なんかかんかでそっくりだな……」

 冬海ドンハイは溜め息を漏らした。

「なんでもいいから座れって。まずはこの件を解決しないと。ほら、お前も座りな。もう勝手にどこかに……あれ?」

 振り返って以洋イーヤンにも、勝手にどこかへ行ったりせず大人しくここに座るよう言おうとした時、既に以洋イーヤンはどこかへ行ってしまっている。

陸以洋ルー・イーヤン!」

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