第三章(4)以洋、幽霊に激怒する

 目を瞬かせて以洋イーヤンは周囲を見回した。見覚えのない室内だが、少し離れた場所には懷天フアイティエンが立っている。

 しかし、懷天フアイティエンの顔に浮かんでいるのは、これまで見たこともないような怒りの表情だ。小宛シァオ・ワンを殺した犯人のところに以洋イーヤンが一人で乗り込んだあの時だって、懷天フアイティエンは怒っていたがここまでではなかった。

 呆然としながら以洋イーヤンは床の上に座り直す。

 ええっと、これっていったいどういう状況? 僕、春秋チュンチウのところでDVDを見てたんだよね? ……で、その後、また寝ちゃった……ような?

 あれ? でもそれなら、なんで懷天フアイティエンはこんなに怒ってるんだろ? まさか僕がDVDを四回目になっても見終えてないからって訳じゃないよね?

 きょとんとして考え込んでいた以洋イーヤンは、左の頬と口の中が熱を持って痛んでいることにようやく気付いた。手を伸ばして口の端を触ってみると、指に血が付く。

 なにこれ? 口の端が切れてるっぽい? ……けど、ええと、つまり今のこれってどういう状況?

 顔を上げて懷天フアイティエンを見る。懷天フアイティエンは、さっきまでほどはもう怒っていないように見えた。今は、以洋イーヤンのことをまるで観察するように見つめている。

 以洋イーヤンは不意に申し訳なさに駆られた。頬を摩りながら、おそるおそる懷天フアイティエンに声を掛けてみる。

「……どうか、した?」

小陸シァオ・ルー?」

 懷天フアイティエンの表情が、また少し和らいだように見えた。それでもまだ警戒するような視線を以洋イーヤンから離さないままだ。

「うん。あの僕、僕達? どこにいるの?」

 それに答えるのをなぜか懷天フアイティエンが躊躇う。

 ズキズキと痛み始めている頬に手を押し当て、以洋イーヤンは室内に目を走らせた。この部屋は、なんだかホテルのように見える。でもホテルだとしたら、自分と懷天フアイティエンはホテルでいったい何をしてるんだろう?

「ここは……」

 そう言いかけた懷天フアイティエンが、不意に飛びつくように以洋イーヤンを抱き締めてきた。

「ごめん」

「え? ……何が」

 何が何やらさっぱりわからず懷天フアイティエンを見つめ返している以洋イーヤンの前で、抱き締めていた以洋イーヤンを解放した懷天フアイティエンがそっと以洋イーヤンの頬に手を伸ばしてくる。

「痛むか? ごめん。本当にごめん」

 謝罪する懷天フアイティエンの表情があまりにも辛そうで、以洋イーヤンの方まで胸が苦しくなってきた。懷天フアイティエンが触れている頬も確かに痛いが、こんな申し訳なさそうな懷天フアイティエンを見ている方がもっとやりきれない。

 腕を伸ばし、以洋イーヤンは自分から懷天フアイティエンを抱き締めた。

「別にそんなに痛くないよ……。だから、謝らないでよ……」

 痛みのせいで意識がはっきりする。この状況は、昨日と同じだ。ソファで居眠りしていた自分を起こしたあの時も、懷天フアイティエンは何かを確かめるように名前を呼んだ。

 何が起こっているのか、以洋イーヤンにも僅かながら察しがつき始める。もしかしたら自分はあの自殺者の霊に取り憑かれているんじゃないのか? そして、意識のないうちに何かしているとしたら……。

「僕、何かしたんだね?」




 確信をもってそう訊ねている以洋イーヤンにどう答えようかと、懷天フアイティエンは苦笑した。君は初対面の男を引っ掛けてホテルに連れ込んでいたんだよと、本当に伝えるべきだろうか?

「いや……別に。まだ痛む?」

 結局言わないことにした懷天フアイティエンは申し訳ない気分で、切れてしまった以洋イーヤンの口の端を見つめた。下顎を捉え、親指の先でそっと傷口を拭ってやる。

「ん……」

 愛撫のような指の動きに別の何かを感じてしまったらしく、以洋イーヤンが小さく身じろいだ。

「い、痛くないから」

 頬を赤く染めてそう告げる以洋イーヤンこそが、懷天フアイティエンの知っている以洋イーヤンだ。

 天真爛漫で純真で、すぐ真っ赤になってしまう以洋イーヤンが。確かに少々手間が掛かりはするが、いつだって真面目に全ての物事に取り組んでいる、そんな以洋イーヤンこそが。

 ほっとして懷天フアイティエンはもう一度以洋イーヤンを抱き締めた。

「本当にごめん……。すぐに良くなるとは、思うんだけど」




「うん……」

 いったい何が懷天フアイティエンにそんなショックを与えたんだろう?

 どうにも理解できないまま、以洋イーヤン懷天フアイティエンの背に腕を回し、なだめるように何度か叩いた。

「大丈夫だから。もう全然痛くないんだから、だから気にしないでよ」

 そう口にしてから、違和感を覚える。

 懷天フアイティエンがずっと謝っているのは、僕を殴ったのが懷天フアイティエンだからだよね? てことは……僕が何かやらかしたってこと、いや違う、あいつが懷天フアイティエンに何かして、それで殴られたってことか?

 改めて以洋イーヤンは部屋の中に目を走らせてみた。

 ここは、ホテルだ。つまり、僕は懷天フアイティエンとホテルにいるわけで……。

 眉を顰めつつ、着ている服になんとなく手を滑らせた以洋イーヤンは、気付いてしまった。シャツの前ボタンがほとんど全開になっている。

「ええええええ!!」

「どうした?」

 いきなり大声を上げた以洋イーヤンの顔を、幾分慌てた様子で懷天フアイティエンが覗き込んでくる。

「どこか具合が?」

 それに答える余裕もなく、以洋イーヤンは自分のズボンに目を落とした。こっちはどうやらきちんと穿いている状態だ。

 続いて懷天フアイティエンの姿を確認する。懷天フアイティエンも少なくともジャケットは脱いでいない。

 それでもいささかパニクって以洋イーヤン懷天フアイティエンに取り縋った。

「僕、僕いったい懷天フアイティエンに何したの? 違う、僕じゃなくて、あいつ、あいついったいあなたに何を?」

 ようやく気付いたのかと言うような苦笑が懷天フアイティエンの頬に浮かぶ。

「大丈夫、君は俺には何もしてないから」

 いや、そんな顔してそんな風に言われても。

「じゃあ、じゃあ、なんで僕達、ここに……ホテルみたいなところに……」

 こわごわと以洋イーヤンは辺りに目をやった。

「話すと長くなるんだ」

 まだ苦笑したまま懷天フアイティエンが、そんな以洋イーヤンを引っ張り起こしてシャツのボタンをはめてくれる。

「取りあえずここを離れようか」

「今、話して!」

 今度以洋イーヤンが真っ赤になったのは怒りのためだった。

「あいつ、いったい僕の身体を使って何しでかしたのさ?」

 以洋イーヤンの剣幕を見て懷天フアイティエンも誤魔化しきれないと思ったらしい。少しの間考えてから、仕方なさそうに口を開く。

賀昱霖ホー・ユイリンという人物と、面識はある?」

 聞いたこともない名前が突然出てきて、以洋イーヤンは面食らいながら首を横に振った。

「知らないけど」

 懷天フアイティエンが再び口ごもり、言葉を選びながら話しだす。

「その人物は、君の大学の教授なんだけど……今朝方、君は道でその人物にだね……声を掛けてこのホテルに……来てくれるよう頼んで……」

 以洋イーヤンは息を呑んだ。懷天フアイティエンは相当にオブラートに包んだ言葉で話してくれているが、その意味するところは、自分が大学の教授を引っ掛けてホテルに連れ込んだってことじゃないか!

「嘘でしょ! なんでそんな!」

 頭を抱えて以洋イーヤンは床にへたり込んだ。

 懷天フアイティエン相手ですらまだそんな真似したことないのに、あいつ、僕の身体を勝手に使って何してくれてるんだよ! しかも、相手はうちの大学の教授だって!?

 もうちょっと早くにわかっていたら……こんなことなら、いっそ一昨日、いや、もう三日前ってことになるのか、あの時にあのまま最後まで……。

 放心するあまりそんなことまで考え始めた以洋イーヤンを、何も気付かずに懷天フアイティエンがまた引っ張って立たせてくれた。

「安心していいよ。君達はまだ何もしてなかったから。ホテルの下で君を見掛けたんで、急いで止めに来たんだよ」

「ほ、ほんとに?」

 そろそろと以洋イーヤンは再び自分のズボンに目を落とす。ズボンをまだ脱いでないなら……ないなら、つまりギリギリセーフだった?

「本当だって。……あの男がそこまで素早かったとも思えないし」

 懷天フアイティエン以洋イーヤンにジャケットを着せてくれる。

「ほら、まずはここから出よう」

 まだ顔を強張らせたまま以洋イーヤン懷天フアイティエンとそのホテルを後にした。誰にも顔を見られたくなくてひたすら俯きがちになる。そうやって歩きながら、以洋イーヤンは穴があったら入りたいような気分になった。

 いったいなんだってあいつは、僕の身体を使って白昼堂々うちの教授をナンパしたりなんか。おまけに僕は全然意識がなかったんだぞ。懷天フアイティエンが助けに来てくれたとは言え……、ってか、もし懷天フアイティエンが来てくれてなかったら……。

 懷天フアイティエンの車の助手席で以洋イーヤンは顔を青褪めさせた。

 別に女の子じゃないんだから、とそんな風に言う人もいるだろう。別に減るもんじゃないし、と言う人も。

 けど……いやだ、ものすごく嫌だ。……せめて、せめて……こういうことは好きな人としないと!

 でないと気持ちが悪いだけだ!

 ますます腹が立ってきて、涙が出そうになる。膝に乗せた両手をきつく握り締め、掌に爪を立てて以洋イーヤンは涙をこらえた。これで泣き出したら、本当に自分が役立たず過ぎて許せなくなる。

 そんな以洋イーヤンに溜め息を吐いた懷天フアイティエンが、車を路肩に停めると、きつく拳を固めている以洋イーヤンの手の上に自分の手を重ねてくれた。

「あまり怒らない方がいいよ」

 懷天フアイティエンに慰められて涙腺が決壊する。自分は本当に役立たずだ、そう思いながら乱暴に以洋イーヤンは涙を拭った。どう答えていいかわからず、無言のまま首を左右に振る。

 懷天フアイティエンの手が伸びてきて以洋イーヤンをそっと抱き寄せた。

「大丈夫だから、怒らない方がいい。君が怒れば怒るほど、あいつの思い通りになるだけだって気がする」

「うん……わかった」

 涙を拭って嗚咽混じりに答えた以洋イーヤンの頬を、懷天フアイティエンも拭ってくれる。

「泣かないで」

「うん」

 頷いて顔を上げた時、車のフロントガラスの中、前方の電信柱の上に槐愔フアイインの鷹が止まっているのが見えた。

槐愔フアイインが僕を探してる……」

「え?」

 よく聞き取れなかったらしく懷天フアイティエンが問い返してくる。

「まずは、まずは春秋チュンチウのところに戻るのがいいと思う……」

 再度以洋イーヤンは涙を拭った。春秋チュンチウがきっと死ぬほど心配しているはずだ。

 無言で以洋イーヤンの頭を撫で、懷天フアイティエンが車を走りださせる。イエ家のビルへと二人は向かった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る