第一章(3)以洋、幽霊を目撃する

 高懷天ガオ・フアイティエンが帰ってきた時、以洋イーヤンは台所で奮闘中で手が離せなかった。

 しかもどこかあたふたして見える。以洋イーヤンの料理はあるものでちゃっちゃと作るスタイルなので、こんなにばたばたしているのは珍しい。

「あれ、なんでこんなに早いの? もっと遅いと思ってた」

 笑顔を見せながらも、以洋イーヤンの手はまったく動きを停めなかった。

小千シアオ・チエンが電話をくれたんだよ。君が今日、自殺現場に遭遇したって……」

 若干ためらいながらも懷天フアイティエンはそう口にする。

「ああ、あれね。大丈夫」

 以洋イーヤンの様子は、見た感じでは普通だった。答える口調も笑顔もいつも通りだ。それでもどこか変だと懷天フアイティエンは思う。

 ついているテレビの音声が、普段に比べて大きい。更に流れている番組は、いつもなら以洋イーヤンが見ないバラエティだ。そしてこの、やたらと忙しそうな料理風景。それほど料理をするわけではない懷天フアイティエンから見ても、切羽詰まったような空気はわかる。

小陸シアオ・ルー……」

 懷天フアイティエン以洋イーヤンに近付いた。

「大丈夫なのか?」

「なんともないって。絶好調だよ」

 そう言って笑った以洋イーヤンが、お玉でスープを掬い、味見をしている。

「うん、いい感じ。すぐにご飯にできるから、先に着替えておいでよ」

 どうにも安心できず、懷天フアイティエン以洋イーヤンの肩に手を伸ばし、以洋イーヤンを振り向かせた。

「大丈夫なように見えないよ?」

 何かを考えるように以洋イーヤンが僅かに俯く。しかし、どうやら懷天フアイティエンを誤魔化しきるのは無理だと理解したらしく、しばらくして口を開いた。

「ほんのちょっと……驚いちゃって。けど大丈夫だと思うんだ……」

 懷天フアイティエンはひそやかに溜め息を漏らした。しょっちゅう幽霊を見ているこの子にしても、死んだ人をリアルに見たことはなかったんだろうなと思う。ましてや、初めて目にしたのが、十何階から飛び下りた遺体だ。

 以洋イーヤンをそっと抱き寄せた懷天フアイティエンは、その背中を慰めるようにそっと叩いてやった。




「その人に線香を供えに行きたいなら付き合うよ?」

「うん……」

 目を閉じて、以洋イーヤンは頭を懷天フアイティエンの胸に凭れさせた。規則正しく脈打っている懷天フアイティエンの鼓動が聞こえる。強い生命力を感じさせるその穏やかな拍動に、自分の心が安らいでいくのがわかった。

 懷天フアイティエンと同居を始めて半年近くになるが、以洋イーヤン懷天フアイティエンの関係は別に進展してはいない。

 懷天フアイティエンから告白はされているし、一緒に生活する日々も本当に楽しいので、一歩先へ踏み出したところで何も差支えはない気がするのだが、懷天フアイティエンの方からも以洋イーヤンに対しそれらしい提案があったことはない。

 別にそれでいいと、以洋イーヤンの方も思っていた。とにかく毎日が楽しいのだから、それでかまわない、と。

 ただ、今日、懷天フアイティエンの「小千シアオ・チエン」と出会ってしまった今となっては……何かもやもやする。

小陸シアオ・ルー……」

 懷天フアイティエンの呼ぶ声が聞こえ、まだ眼を閉じたまま以洋イーヤンは口だけで答えた。

「うん?」

「スープが煮立ってるよ……」

 鍋がぐつぐつ言っているのが聞こえ、以洋イーヤンはカッと目を見開く。懷天フアイティエンの腕の中から飛び出して、スープの救助に向かった。

「ああああ! 僕の獅子頭シーヅトウがああ!」

 笑い出した懷天フアイティエンが、以洋イーヤンの頭を撫でてくれる。

「先に着替えてくるよ」

「うん」

 スープの救急救命に勤しんでいる振りで振り向かずに答えた以洋イーヤンだが、実際には顔が熱を帯びて真っ赤になっていた。一緒に暮らし始めてからというもの、いつだって懷天フアイティエンにくっつくことで心の支えとパワーをもらっている気がする。

 懷天フアイティエンが着替えて部屋から出てくる頃には、以洋イーヤンはもうテーブル一杯に料理を並べて懷天を待っていた。

 いつものようにたわいないおしゃべりをしながら食べる。今日の午後の出来事についてだけは二人とも話題にするのを避けて。

 食後に懷天フアイティエンが取り出したのは、一本のDVDだった。

「見る? 同僚がくれたんだ。前に見たがってた映画だよね?」

「ああっ! 見る見る! 見たい~」

 これ以上ないほどの速さで皿を洗い、以洋イーヤンはソファに落ち着いて、懷天フアイティエンと一緒に映画を見始めた。

 けど、と思う。懷天フアイティエンはこういったアクション映画はあまり見なかったはずだ。ドラマ性の高いものとか、以洋イーヤンが見てもさっぱりわからないアート系の映画とかばかり見ていたはずなのに。

 懷天フアイティエンの傍にぴったりとくっつく。眼は画面を見つめているのに、なぜだか没頭できなかった。あちらこちらに思考が乱れ飛んだ挙げ句、言い様のない疲労感が込み上げてくる。

 三度目に以洋イーヤンが舟を漕ぎだした時、懷天フアイティエンがDVDを停めて以洋イーヤンを揺り起こしてくれた。

小陸シアオ・ルー、もう寝なよ」

「……あれ、もうエンディング?」

「まだだけど何度も居眠りしてるし、別な日にまた見たら?」

 目を擦って訊ねた以洋イーヤンに可笑しそうな顔でそう答えた懷天フアイティエンが、以洋イーヤンの頭を撫でる。

「うん、じゃ、先に寝るね」

 朦朧とした意識で部屋に向かった以洋イーヤンは、ドアを閉じるや否やバッタリとベッドに倒れ込んで目を閉じた。思考が蕩け、もう眠ってしまう、というタイミングで、不意に言い争う声が聞こえてくる。

『あんたのためなら俺は喜んで何でもするってわかってるだろ! けど、幾らあんたのためだからって俺がこんな真似しでかしたら、うちの母さんと弟はこの先いったいどんな顔して生きてきゃいいんだよ?』

『二人の面倒は私が見る。……頼む。私を助けられるのは君だけなんだ。もしばれたら、私は完全におしまいだ。そうなったら私は生きていけない。頼むよ、お願いだ!』

『……無茶言わないでくれ。この数年間、俺があんたのためにどれだけのことをしてきたと思う? けど、これだけはダメだ。小さい時から母さんに言われてるんだよ、自分のものじゃないお金に手は出すなって。これだけは俺は絶対にやらない。……あんただって知ってるだろ? うちの父さんは公金横領で自殺したんだぞ。頼むからこんなことで母さんと弟を傷つけないでくれよ』

『……わかった。すまない。こんな事を頼むべきじゃなかったな。自首するよ。けど、お願いだ。私が自首するまで、この件を口外しないでもらいたいんだ。……責任は私が取るから』

『わかった。誰にも言わないよ。俺はあんたの傍にいるから。何があってもそれだけは変わらないから。絶対にあんたから離れたりしないから』

『……ありがとう』

 遠ざかったり近付いたりしながらもはっきりと聞こえてくる声。一階の家か駐車場で誰かが喧嘩中なのかもしれない。

 以洋イーヤンは寝返りを打ち、すっぽりと頭まで上掛けにくるまることで、その声をシャットアウトしようとした。

 それでも声は止まない。なんだか場面が切り替わったようなやり取りがまだ続いている。

『あんた、なんで俺にこんな真似するんだよ? この数年、俺がどんだけあんたのために動いたと? それに対して俺があんたに見返りを求めたことがあったか? なのに、まさか俺にあんたの罪を押し付けるだなんて!』

『仕方なかったんだ。私の未来を壊すわけにはいかなかった』

『じゃ、俺の未来は!?』

『君にこの先があるとでも? 私の研究室を離れられるとでも思っていたのかい? 君の未来は私の未来より有望だとでも?』

『あんたのここ数年の論文は、全部俺が書いたんじゃないか!!』

『それを誰が信じるんだね?』

『………………………………………』

『聞くんだ。私は本当に君を愛してるんだよ。ただ、この罪を私が犯したと認めることはどうあってもできないだけなんだ。今後は気を付けるし、二度とこんなことはしない。君のお母さんと弟君のことは私に任せてくれ。君のために最高の弁護士も用意する。君はまだ若いんだし、罪だってそれほど重いものじゃないんだ。刑は軽くなるよ。そんなに心配しなくてもいいんだ』

『……………許せない、……許さない!!!』

 上掛けの中で以洋イーヤンは目を見開いた。絶望の籠もったすさまじいその叫び声がまだ耳の辺りにこびりついている。

 上掛けを抱き締めるようにしてベッドの上に起き上がったところで、ようやく気付く。もしかすると今の声は、近所から聞こえてきたものではなかったのかも知れないと。

「……ありえない……」

 小さくひとりごちる。

 どんな死者だろうとこの家には入ってこられないはずだ。玄関からすぐ見える位置に關帝様が祀られている以上、例外なく死者はこの家への立ち入りを阻まれる。

 そして、何よりも以洋イーヤン自身が全く感じていなかった。午後に自殺したあの人の霊が、自分の後についてこの家まで一緒に帰ってきている気配など。

 室内は静まり返っている。押し殺したような以洋イーヤンの呼吸音と鼓動以外、もうどんな音も聞こえない。

 それでもまだ恐怖は残っている。冬海ドンハイと出会って以来、もうずっと長い間、こんな風に死者を怖いと感じたことはなかったのに。

 窓に背を預け、以洋イーヤンは部屋の中に視線を巡らせた。上から下へ、そして左右に、まんべんなく。何もいないことを確認し、ようやくほっとしてまた横になろうとする。

 だが、まさにその時だった。背後に何かがいる、そんな感覚がして息が止まりそうになる……。

 ごくりと以洋イーヤンは唾を飲み込んだ。抱き締めていた上掛けにをきつく爪を食い込ませながら、ゆっくりと、慎重に振り向く。

 そこにあったのは歪んでしまった顔だった。鮮やかに赤い血が、目からも鼻の穴からも口からも流れ出している。頭の右側は大きく陥没し、そこからは脳漿と血が一緒に溢れ出ていた。

 何か言いたげにぱくぱくと動いている口。不自然な形にねじ曲がった右手はそのねじれを更に大きくしようとするように腕までよじれつつあり、左手は何かを掴もうとするように前へと伸ばされている。

 足に履いているのは――血と泥で汚れてはいるが――あの真新しいコンバースだ。その足も落下の衝撃でスニーカーの足首部分のすぐ上の組織が断裂し、骨が白く覗いていた。

 以洋イーヤンは悲鳴を上げようとしたが、声すら出せなかった。がくがくと震える全身を引きずり、ベッドの上を後退るのが精一杯だ。

 そのまま床に転がり落ちた以洋イーヤンは、這うようにして自分の部屋から出た。ノックすらしないまま、懷天フアイティエンの部屋に飛び込む。

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