第一章(1)以洋、自殺現場に遭遇する

「さやえんどうとジャガイモと、大根と卵、オリーブオイルに……」

 これから買う予定のものをぶつぶつとつぶやきながら、陸以洋ルー・イーヤンは道を歩いていた。

「カレールウに、鶏の胸肉、それから豆腐と……あれ?」

 道に面した書店の前で足を停める。ガラス窓一面に、冬至に合わせたセールの広告が貼ってあったからだ。

「へえ……七日間限定での割引。今日からだ……あとで先輩に電話して教えてあげよっと」

 目は広告に向けたまま、また以洋イーヤンは歩き出した。

「柔軟剤と、牛乳と……、ええと……まだ何かあったような……」

 今朝がた確かに考えたはずの重要な買い物、それが何だったかを思い出そうとして速度を緩める。

「なんだっけ……、あ!」

 足を停めた以洋イーヤンは、ぽんと手を叩いた。

「思い出した、あれだ……」

 「あれ」が何なのか、以洋イーヤンが口にする直前だった。誰かが突然以洋イーヤンを後ろから力いっぱい突き飛ばす。

「うわあ――っ、痛たたた」

 ほとんど棒立ちのまま、以洋イーヤンは地面に倒れ込むことになった。何が何だかわからないまま状況を把握しようとした時、ドシャッという音がする。重いものが地面に落ちたような音だ。

 誰かもう一人、自分と一緒に倒れ込んだんだろうか。そう思った以洋イーヤンは立ち上がろうとして上半身を起こし、脇に目を向ける。

 そこにあったのは、見開かれた両眼だった。

 生きているものの目ではない。やや眼窩から飛び出しかけて人間のものとしてはありえないほどに大きくなった白目が、真っ赤に充血している眼球だ。白目に比べて異様に小さく見える瞳は、もうぴくりとも動かない。

 凍りついたようなその眼差しは、見る者をぞっとさせた。

 そして、その既に命を失った眼球が本来収まっていたはずの頭部も、既に原状を留めてはいなかった。鮮血の混じった脳漿がゆるやかに地面に拡がっていきつつある。

 僅かに開いた口だけは、まだかすかに動いているように――何かを言おうとしているように――見えた。それでもその口からも真っ赤な血が溢れ出し続けている。

 そして以洋イーヤンは、その目を見てしまったその瞬間に、自分が死者の双眸の中に吸い込まれていくような感覚に囚われた。全身がヒュッと吸い込まれ、そのまま傍のビルの上へと舞い上がる。

 今、以洋イーヤンが立っているのはそのビルの屋上だった。

 どうして自分がこんなところにいるのかわからない。下を向いてみると、コンバースのスニーカーを履いた足が見えた。それから、皺一つないスリムなストレートジーンズ。

 ふと手を上げてみると、左手の甲に一筋の細い傷跡がある。そして手首には綺麗な時計がはまっていた。ストップウォッチ機能付きのセイコーの腕時計だ。

 どれも、以洋イーヤンの持ち物ではない。

「許せない……許さない……なんで……なんで俺をこんな目に……」

 押し殺したような、恨みの籠もったつぶやき。それは自分の口から出ているはずなのに、やはり以洋イーヤン自身の声ではなかった。

 なんで?

 どうして自分のものじゃないこんな服を着てこんな時計を身に着けているのか、どうして知らない声が自分の口から出てくるのか、まだ以洋イーヤンが理解できずにいるうちに、足が以洋イーヤンの意思とは関係なく、勝手に一歩前へと進む。

 落ち、落ちる……っ。

 悲鳴を上げたはずなのに、その声が口から出ることはなかった。視界に映るのは灰色の空。それがくるっと回転し、視界はビルに埋め尽くされる。そして地面が見え、まっすぐにぶつかっていく。

 うわああああっ――――。

 ドシャッという音と共に地面に投げ出される。見開いた目が捉えたのは、自分の――以洋イーヤン自身の――驚愕の表情だった!

「わあああああっ――――」

 悲鳴を上げながら以洋イーヤンは後退った。

 周囲の人々も口々に悲鳴を上げている。へたり込んだまま、以洋イーヤンは立ち上がることもできなかった。全身ががくがくと震えている。

 今、いったい何が?

 混乱したままの以洋イーヤンを、親切な誰かが助け起こしてくれた。大丈夫かと訊ねてくれている声も聞こえる。それでも、声も出せずにただ震えていることしかできない。

 目の前に倒れている死体の、恨みを込めて見開かれた双眸から目が離せなかった。さっき聞いたあの声が、許せない、とつぶやくあの声が、脳裏に谺して消えない。

 近所にある店のスタッフが白い布を持ってきて、死体の上にかぶせている。だが死体が完全に覆われてしまう前に、以洋イーヤンの目ははっきりと捉えていた。

 遺体が足に履いているのは、真新しいコンバースのスニーカー。下半身を包んでいるのはストレートのジーンズ。

 そして、布の下からはみ出している手首についているのは、今は壊れてしまっているけど、セイコーの腕時計だ。

 全身が凍りついたように冷たくなる。怖かった。どうしようもなく怖かった。

 どうしてこんなにも恐怖を感じているのかわからない。自分はとっくにどんな怪奇にも慣れっこになったと、以洋イーヤンは思い込んでいた。それなのに、震えが止まらない。

 誰か心優しいおばさんが――たぶんこの辺の店の人なのだろう――、以洋イーヤンに熱いお茶の入ったカップを手渡してくれる。それでも以洋イーヤンの手はまだ震えていて、カップを受け取りはしたものの危うくひっくり返しそうになった。

「落ち着いて落ち着いて。まずは一口飲みなさいな」

 おばさんがそっと以洋イーヤンの背中を叩き、お茶を飲ませてくれる。まだ震えが収まらないまま、以洋イーヤンはどうにか口を開いた。

「あ……ありがとうございます……」

「酷いショックを受けたんだね。大丈夫、もうすぐ救急車が来るから。あんた、怪我は?」

 心配そうに訊ねられ、ろくに声が出せない以洋イーヤンはせめて首を横に振ってみせた。ただ、実際のところは自分が怪我をしているのかどうかよくわからない。痛みも何も感じられないからだ。

 ビルの上から墜落していくあの感覚が、まだ残っている。今もなお、どこかへ向かってどんどん速度を増しながら落ち続けているような気分だった。

 ちゃんと見えている。白い布の下の死体はもう身動き一つしない。それなのに、恐慌状態が収まらない。

 既に死んでしまった人々の姿なら、以洋イーヤンはいつだって見ている。それでも、人が死ぬ瞬間をその目で直接見てしまったのは、以洋イーヤンにとってこれが正真正銘の初めてだった。


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