プロローグ

 寒いな。

 傍にあるはずのぬくもりに、楊君遠ヤン・ヂュンユエンは無意識のうちに頬を刷り寄せようとした。

 足の裏に吹き付けている冷たい風は、それでも止むことはない。手を伸ばしベッドの上を探ってみた君遠ヂュンユエンは、冷え切っているベッドバッドが指先に触れてようやく思い出した。易仲瑋イー・ヂョンウェイは昨日からフィールドワークだった。院の一年生の引率役で、明日にならないと帰ってこない。

 明日、いや、たぶんもう今日になっているはずだ。仲瑋ヂョンウェイは今夜には帰ってくる。でも、どうしてこんなに寒いんだ……?

 両足を縮めながら考える。ベランダに出るリビングの掃き出し窓を寝る前に閉めた記憶は確かにあった。だったらいったいどこから風が……?

 ぼんやりと彷徨う意識の中、仲瑋ヂョンウェイが出がけに言っていたことを思い出す。

 帰ってきたら、急いで本を買いに行こうって。年末の期間限定セール七日間の最終日だから、一緒に行こうって。それと、あと、よろしくって……、○○の世話をよろしくって……、誰のだっけ?

 小陸シアオ・ルーのことだ!

 カッと目を見開き、君遠ヂュンユエンはベッドの上に身を起こした。

 ベッドの半分はやはり空っぽだ。振り向いた君遠ヂュンユエンの目線が向かったのは寝室のドア。開いたままのそのドア越しに、リビングの奥のベランダを捉える。

 床までの長さのカーテンが、風に吹かれて揺れていた。揺らめく金色のカーテンの向こう、ベランダの柵に腰掛けている人影が見える。

 慌てて君遠ヂュンユエンはベッドから飛び下り、リビングへと駆け込んだ。陸以洋ルー・イーヤンを驚かせてしまわないよう、そこからはゆっくりとベランダに近付く。

小陸シアオ・ルー? 何してるんだ?」

 押し出した声は震えていた。

 以洋イーヤンが身に着けているのは薄手のTシャツ一枚とジーパン。君遠ヂュンユエンの声に、柵の上に腰掛けたまま以洋イーヤンが振り返って、申し訳なさそうな表情になる。

ヤン先輩、すみません」

「別に謝らなくていいけどさ」

 なるべく明るい笑みをどうにか浮かべ、君遠ヂュンユエン以洋イーヤンに手を差し出した。

「寒冷前線が通過した影響で今日は気温が下がってるんだよ。そんなところに座ってないで、早く中に入りなって」

「先輩に見せるつもりはなかったんですが」

「なら早くそこから下りてくれって。吃驚させないでくれよ、小陸シアオ・ルー

 以洋イーヤンがあまりにもきまりの悪そうな顔をしているせいで、思わず苦笑してしまう。そのまま君遠ヂュンユエンがそろそろと以洋イーヤンに近付いた時だった。

「僕なら大丈夫ですって、楊先輩」

 なだめるような笑みを君遠ヂュンユエンに向けた以洋イーヤンが、不意に残念そうな声を出す。

「あ~あ、やっぱりまた買い忘れちゃった……」

「なんだって?」

 以洋イーヤンが何を言っているのかよく理解できず、君遠ヂュンユエンは聞き返した。どこか申し訳なさそうな笑みを浮かべたまま、以洋イーヤン君遠ヂュンユエンの背後を指差す。

「ほら、あれですよ」

 指差された方向を君遠ヂュンユエンは振り返った。だが、そこには何もない。

 ふと、いやな予感がして大急ぎで視線を戻す。ベランダの柵の上には誰の姿もなかった。

 息を呑んで君遠ヂュンユエンはベランダの柵に飛びついた。がくがくと震えながら下を見下ろす。

 以洋イーヤンが、下の地面に倒れている。その光景に頭が真っ白になった。どうすべきなのかもわからないまま室内に取って返し、玄関から飛び出す。エレベーターを待っている暇も惜しく、そのまま階段を駆け下りた。

 どうすればいい? 以洋イーヤンが万が一死んでいたなら、どうすればいい? いったいどう仲瑋ヂョンウェイに伝えればいいんだ、こんなこと?

小陸シアオ・ルー!」

 絶叫しながら路上に君遠ヂュンユエンは走り出た。

 辺りは寝静まっている。今し方の君遠ヂュンユエンの叫び声が夜に飲み込まれてしまえば、他に聞こえてくるのはたまに響く車のクラクションだけだ。

 冷たい夜風の中、無人の地面を見つめながら呆然と君遠ヂュンユエンは立ち尽くす。

 自分の頭がどうしたんだろうか? ひょっとして上に戻ったら、そこに以洋イーヤンはいるんじゃないか? それで寝ぼけまなこで、先輩どうかしたんですか? って訊いてくるんじゃ……。

 身震いがこみ上げてくる。もう数歩前へと君遠ヂュンユエンは足を踏み出してみた。

 地面には以洋イーヤンの姿もなければ、想像していたような血だまりもない。ただ、血痕はあった。ごく僅かな、どこか擦り剥いたかナイフでちょっと切ってしまった時に滴るくらいのそれが、点々と続いている。

 その血痕を追いかけてみることにして一ブロック程歩いてみたが、通りまで出ると血痕は途絶えてしまった。

 残業帰りらしいサラリーマンが君遠ヂュンユエンに奇異の目を向けた後、足を速めてそそくさと前を通り過ぎていく。

 冷え切った身体を少しでも温めようと、君遠ヂュンユエンは腕を擦った。

 着ているのはTシャツと、七分丈のパンツだけだし、足にもサンダルをつっかえただけで出てきてしまっている。夜の路上、十二、三度の外気の中に立っている人間の服装としては確かに相当奇妙なはずだ。

 春先の事件の記憶が、ふと君遠ヂュンユエンの脳裏に浮かんだ。後輩の少女の幽霊を初めて目にしたあの時も、こんな風に慌てふためいて街へ飛び出したはずだった。

 どのくらいの間、ぼんやりと立ち尽くしていたのか。寒さに耐えきれなくなって、マンションの正面玄関へと駆け戻る。建物の前に立って、ふと上を見上げた瞬間、今度こそ君遠ヂュンユエンの頭の中は疑問で一杯になった。

 君遠ヂュンユエン仲瑋ヂョンウェイが暮らしている部屋があるのは六階だ。この高さから落ちたなら、五体満足でこの場を離れることなんて不可能なはずだ……。

 つまり、以洋イーヤンはいったいどこに行ったってことに……?

 地面に落ちている少量の血へともう一度目をやった君遠ヂュンユエンは、全身がぶるぶると震えだすのを感じた。

 今できるのはもう、以洋イーヤンの無事を祈ることだけだった。






※楊君遠ヤン・ヂュンユエンの後輩の少女の事件は、第三巻のメインエピソードです。

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