第24話 東海が航行不可能となっている理由
へえ、と彼は感心した。偶然もあるものだ。
「ところが、私は見事に忘れていたんだ。奴が私に母親のことを聞いたりしているうちに思い出して」
「ああそういうこともあるんだ」
「そりゃそうだ。いちいち客の顔など覚えている訳ないだろう?そんな。毎日何人もやってくるんだ。それをいちいち覚えていたら私の頭が破裂する」
ナギはそう言って、肉料理を突き刺したフォークを目立たない程度に軽く振り回す。
「でも思い出したんだ?」
「思い出さない訳にはいかないさ。私の嫌いなタイプの上、嫌いなことをした奴だったからな。よく考えたら、奴みたいな男もいると思ったんで、町を飛び出したんだ」
「へ? どうして?」
「シルベスタあなた、『お医者さんごっこ』って知ってるか?」
「小さい頃ならあるが……」
「ならいい。大人になってからどう、なんて言ったら一発であなたを嫌いになるぞ」
「はあ」
「ところがそいつは――― 男爵は、ガキの頃しなかったから今やるというタイプだったんだ。それもちゃんと道具を持って」
「げ」
彼は付け合わせの花野菜を取り落とした。
「そりゃあな、別に商売だからある程度まではいいさ、我慢もしよう。そうでもしなけりゃ食べていけない。でもあれは、本気で寒気がしたんだ」
彼女は眉根を寄せ、ぶるっと震える仕草をする。どうやら本当に嫌いらしい。
「ところが奴は、別に誰にでもそういうことをするという奴ではなかったようで、それこそ、私のようなタイプにそうしたがる質だったらしい」
「君のようなタイプ?」
「つまりは、この年頃の発育未然の少女に、というところかな」
「発育未然ねえ」
「少なくとも私が豊満な成熟した身体を持っているとはあなたも思わなかっただろう?」
「……まあね」
「どうやらそういう豊満な女性とはまともなことをやっていたらしい。ところが私のようなタイプはそうやって遊ぶ。逆じゃないのか? と言いたかったね」
「……で、正体がばれたと?」
「ばらした、という方が正しいな。結構奴は根に持つタイプだから、下手に敵に回すよりは、味方につけた方がいい。好き嫌いは別として、利用はできる」
「なるほど、それで利用しようと」
「まあ一応契約を結んだ、と。それがさっき言ったことだ。とにかく帝国では父姓がないことには、全然身動きがとれないんだ。動けはするが、その動きに何の効力もない」
「なるほど」
彼は皿の上に取り落とした花野菜を再度突き刺す。
「東海が船で抜けられない海だ、ということは両国ともよく判っているはずだ」
「計器異常と濃霧か。ああ、そのために、あんな遠回りをしなくてはならないんだからな」
「ああそうだ。そのために昔はどれだけの船が無駄に沈んだことか」
現在、帝国-連合の海上ルートは、近海を大陸沿いにぐるりと回る南・北の二本のルートしかない。
もちろんそのルートは、現在あるもろもろの通運会社によって占められ、これ以上新しい企業が乗り込める余地などないと言われているくらいである。
「だから当初親父は冗談だと思ったらしい。だが、何度も男爵は申し入れをしてくる」
「そちらの東海に関する研究はどうなってる?」
「友人の地質学者によると、自然現象とは思えない、というんだ」
「人為的なもの?」
「だとしても、あの広い海全体にあんな計器異常や濃霧を起こさせるようなものが、現在の科学力でできるとも思えないんだ」
「……」
ふむ、とナギはスプーンを持ったままひじを立てる。
「東海」は、帝国の東側、連合の西側に面した海のことである。ここでは便宜上、東海と帝国側の言い方をしているが、もちろん連合には連合の呼び方がある。
シルベスタは実際には向こうの呼び方をしていると思ってもよい。
「すると、男爵は、いずれ東海が開くと思っていたんだろうか? 少なくとも彼の生きている間に……」
「東海が開かない限り意味のない契約だ。しかも奴は娘のために財産を残そうというタイプではない。まあだいたいの帝国の企業家はそうだ。息子はともかく、娘のために財産を残そうとする奴はいない。娘は道具だ。上手く乗り切るための道具に使われることが多い。シラさんも……」
「男爵の令嬢だったよね」
「ああ。彼女にしても、別に男爵に可愛がられていたという訳ではない。私がいなかったら、奴は彼女を連れていったかもな。でもメリットはどれだけあることやら……」
シルベスタは、ふっと彼女の表情が緩むのに気がついた。
「彼女のことは、好き?」
「え?」
ひどく意外そうな顔に彼女はなった。
「どうしてそう思います?」
「いや、何となく」
「そう思えるんですか。……そうか」
彼女は苦笑する。
「シルベスタあなた、鈍いんだか鋭いんだか、時々判りませんね」
「とすると、俺の読みは当たったのかな?」
ナギは大きくうなづく。
「ええ正解。でも、あまり今の話には関係ないですね」
そう、と彼はうなづく。おそらくこの話をしている間は、その件については触れたくないのだろう。彼は話を戻した。
「もしも、東海が本当に開くとして――― その方法が彼には判っていたのだろうか?」
「男爵がですか? そうですね、その可能性がないとは言い切れない」
「どうしてそう思う?」
「カナーシュ先生が私の師と言っただろう? 私は一年間彼に史学を教わったのだが――― 他にもいろいろと専門の先生が居まして。だいたいそれは、不敬罪すれすれの人だったんですよ」
「よくそういう人達を雇ったな」
「需要と供給の関係ですよ、シルベスタ。こっちは優秀な学者が欲しい、あっちは職が欲しい。だいたいそういう人々は職にあぶれてましたからね」
ああそれは考えられる、と彼はうなづいた。
デザートの黒いちごのムースが二人の目の前にあった。一口含んで、ナギがややその酸味に目を細める。
「判っていたとしたら……そしてそれが私という存在に関係しているとしたら………… そしてもう一人と取引をしたとしたら……」
「もう一人?」
「ちょっと待って、今考えている……」
彼女はムースを黙々と口に運んだ。
シルベスタは何となく、バズルのピースが揃いつつあるのを感じていた。
スプーンを置くと、彼女はぱっと顔を上げた。
「シルベスタ、東海が航行不可能になったのが、皇室のせいだとしたらどうだ?」
「皇室の?」
「私にもそれがどうして、かは判らない。だが、奴があの方と取引をしたという可能性が強いんだ」
「あの方?」
珍しくナギが敬称をつけている。男爵をあの奴呼ばわりし、皇帝を呼び捨てにする彼女が、だ。
「皇太后さまだ」
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