第21話 連合で「帝国史」を学ぶ
連合の学校で、「帝国史」は小中学校では全く教えない。
そもそも連合の成立自体が実にややこしいものなので、概要を教えるにしても、小中学校でも足りないくらいである。
その上の学校でも主流は国内史であって、帝国史など、「物好きな選択教科」の一つとされているくらいである。
従って進学を前提にした高等学校では教えず、逆に進学を前提としない実科学校の方で趣味的に教えられることが多い。
シルベスタはもちろん進学のための高等学校へ通っていたので、興味はあっても、学校でわざわざ教えられることはなかった。何しろ連合史だけでも実にめまぐるしく面白いのである。
おかげで興味はあっても手を出す余裕がなかった。
だが卒業したのである。今度は手を出す余裕があるだろう、と思っていた矢先だった。
母親が話した時は、その本一冊に全史が入っているのかと思ったが、どうもあれは最近の一冊に過ぎないらしい。十冊あるそれらは、続き物であった。帝国史の百科事典のようだ、と彼は思った。
そしてしばらく彼はその本の内容に埋もれた。
どのくらいの埋もれ方かというと。
「……何か変よ~」
小厨房のメイドの一人が泣きそうな顔で中厨房の同僚に訴えた。
「何が変なのよ」
「だってシルベスタ様が『食事持ってきてくれ』っておっしゃるのよっ」
「そんな、よくあることじゃない。それにそれがあたし達の仕事でしょ?」
「だってそうは言ったってシルベスタ様よ? 外で召し上がることが多いプラティナ様や、仕事が忙しいゴールディン様や、何かと忙しいスティル様じゃないのよ」
「でも別にいいじゃない」
「シルベスタ様はあんまり人に何かれやらすの好きじゃないんだってばあ。欲しければ何かないかって自分で取りに来る方なの!」
「……ほー」
「それにもう一週間もそれよっ!」
「それは異常よね」
そんな会話が小厨房と中厨房の邸内通信に乗っている頃、当の噂の本人は、昼も夜もなく溺れていた。
最初は母親に見せられた部分の確認だけのつもりだった。彼女が言った「化け物」の皇帝のことだけを見るつもりだったのだ。
だが、その最近のことを読むうちに、だんだん訳が判らなくなって、結局第一巻から広げなおすことになってしまった。
ところが第一巻から読んでいると、所々訳の判らない言葉や制度が出てくる。
しかも不親切なことに注釈も少ない。帝国ではおそらく誰にでも知られていることなのだろう。
シルベスタはそんな訳で、高等学校時代の歴史参考書と、帝国公用語辞典を引っぱり出した。
基本的には同じ言語なのだが、語彙に関しては全然違うことが多いのだ。特に学術用語は。
もちろんそれでも全部が全部理解できる訳ではない。
そこで少年時代の知り合いで、実科学校へ行った者に市内通信を入れてみる。そこで彼は「何時だと思ってるんだ!」と言われて、真夜中ということに気付くのだが――― 朝一番で彼は自転車を走らせた。
そして帰ってきては時間も忘れて、サンドイッチとミルク入りコーヒーを傍らに読みふけり、時にはメモもしたりする。
おそらくそのサンドイッチが卵とチーズとレタスのものだったか、チキンとピクルスとキャビアのものだったか、と問われても、彼は答えられなかっただろう。ミルク入りコーヒーがコーヒー入りミルクになっていても、はたまたココアになっていたとしても、同様だろう。
おかけで小厨房のメイドは、結局十日間気を揉み、彼の部屋担当のメイドは、ちゃんとお風呂に入ってくださいよ、と叫ばなければならなかったくらいである。
まあその甲斐あってか、彼はその十日間で、帝国史八百年とその前史のおおよその流れを理解することができた。
背伸びをしながら、やればできるもんだなあ、と山と積まれた参考書とメモと鉛筆のけずりかすを見て彼は思った。
そして奇妙なことに気がついたのである。
この歴史は何かが欠落している。
その欠落感の正体を彼が知ったのは、カシャルクス大学で帝国史の講義を受けるようになってからである。
大学で帝国史を担当するラングドシャ教授は、下地が妙にできているシルベスタに驚き、何かと質問する彼を可愛がった。
彼はすぐにでもその質問をしたかったのだが、その質問をどういう形でしたら良いのか気付くまで、一年かかった。
そして一年後にした質問に対し、ラングドシャ教授はこう答えた。
「帝国の歴史には表と裏があるんだよ」
シルベスタは驚いた。確かにそれは考えうることだった。だがあまりにも当たり前すぎて、考えに及ばなかったということでもある。
ただ、帝国史の場合、連合の過去におけるそれとは違い、表がその時の政権にとって望ましいだけの歴史で、裏が実は代々の政権担当者の悪逆非道がどうとか、という訳ではない。
少なくとも、「正史」とされる帝国の歴史は、皇帝の行状については、良かれ悪しかれ、きちんと記録され、まとめてあるのだ。その姿勢に関しては、ラングドシャ教授も帝国の文化省に敬意を払ったという。
「少なくとも、書かれたことは比較的、学問的に公正だよ」
彼はシルベスタにきっぱりと言った。
もちろん長い時間の集大成であるから、実際に写真や音声記録を取ったもの、きちんと書かれた記録だけではなく、伝聞を後の世になって収集したものもある。だがその際には、それが伝聞であることをきちんと記述してある。
それはシルベスタにも記憶があった。
だから少なくとも、公表されている「正史」の部分はある程度以上本当だと信じられる。シルベスタもその点は同感である。
「では、裏とは何ですか?」
彼は訊ねた。
「何が隠されているというんでしょう?」
「ヒントはいろいろあるんだがね」
「それは皇帝が、『化け物』じみていると――― いうことでしょうか?」
「化け物? 君時々怖いこと言うね」
「すみません。母がそういう形容していたので、つい」
ラングドシャ教授は、シルベスタの母親を知っていたので、ああ、と納得したようにうなづいた。
「彼女ならそう言うだろうね。でも彼女からそれ以上聞かなかったのかい?」
「あのひとは、自分の興味のない時に訊ねても気のない返事をするだけですよ」
「そうだろうね」
教授は苦笑する。
「まあそれもあるんだが、あのね君、その皇帝の横に居るはずの人を見たことがあるかね?」
「横に居るはずのひと?」
「皇帝が全て独身だと思っている訳じゃないだろう?」
あ、とシルベスタはその時ようやく思い当たった。その人物に関しては、一行たりとして書かれてはいないのだ。
「まあうちの国もそうだけど、確かに歴史の大半は男が動かしている。だけど女性の動きもゼロではない筈だ」
「ええ」
「実際君の母親は、そのいい例だろう? それにほら、北のカンフォート州は、昔から母系社会で、女性首長が権限を握ってきた。それを我々の連合史は無視したことがない。これだけ広い世界だ。その半分近い帝国で、全く女性の動きがないなんてことがあると思うか? シルベスタ君」
「おかしいですよね」
「そう。帝国は、女性の動きを故意的に無視してきているんだ。しかもそれが下層の女性だから、とかそういうのではなく、皇后すら正史に出ていない。生没年月日すら不明だ。何せ向こうの『正しい』皇室系図ときたら、ひどいもんだ」
「女性が全部◎で書かれてましたね。じゃ教授、裏、というのは女性の歴史なんですか?」
「そう言っても正しいとも思うね。実際のところ、向こうのその関係の書籍が本当に少ないんで、調べようがないというのが現状だ」
「調べようがない……」
「だからこそ、これから開拓の余地があるとも言える。君有望だぞ」
そして教授は、その「数少ない」書籍の一つを彼に見せてくれた。
そしてそこには、帝国流の飾り文字で、ハルシャ・イヴ・カナーシュと書かれていた。
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