はじまり
「お嬢さん、いつもここでなにをしているの?」
静まりかえった喫茶店の小さなテーブル。
突然、優しい声が、不意に背後から降ってきた。
「えっ」
驚いてすこし大きな声が出てしまい、慌てて口を押さえる。
「ごめんなさいね。毎日、夕方にいらしては熱心になにか書いているから。」
「えっ、ええと」
背後に立っていたのは、上品そうな老婦人だった。
襟に花の刺繍が施された白いブラウスに、茶色の長いスカートを履いている。その手には一冊だけ厚い本があり、柔らかく微笑んでいた。
「て、手紙を書いています」
「手紙?」
わたしはゆっくりとうなずいた。
「はい、手紙…。」
しかし、それ以上言葉が続かず、わたしはうつむいた。
「どなたへ?」
「だれでも、ありません」
だれでもない人への手紙。
わたしは、高校に入った時分から、よく「だれでもない人への手紙」を書いていた。
誰かへ出すこともない手紙。誰からでもない手紙。
どこにもいない誰かへ、どこにもいない誰かから、想いや彼らの姿、生活を想像して手紙を書く。
物語を書くように、わたしはいつも手紙を書いていた。
「お手紙を書くのは好き?」
「たくさん書いているので、苦手ではありません」
宝物の、夜空を映したような紺碧色にきらきらとした金色が散りばめられた万年筆を握りしめて言った。
「そう…」
老婦人は、何事か考えるように口をつぐんだ。
「では、私の夫に手紙を書いてくださる?」
「えっ?」
わたしは耳を疑った。
老婦人は言った。
「来月、50回目の結婚記念日なんだけれどね。あのひとにお手紙を書いてあげたいのだけど、言葉が上手くないの。お願いできる?」
「だ、旦那さんに…?」
そう、と老婦人はうなずく。
初めて、存在する誰かに手紙を書く。
頰が少しずつ熱くなり、心臓が高鳴った。
「や、やります!書かせてください!」
わたしは思わず立ち上がった。
「ありがとう。では、書いてほしいことを話すわね」
老婦人はわたしの目の前の椅子に腰掛け、静かに話しはじめた。
夫とどのようにして出会ったのか。どのようなところへ出掛けたのか。好きな食べ物や趣味、どのような仕事をしているか。子どもは何人いてどのようにして育ったのか。いま、夫に伝えたい言葉。
メモを取りながら、わたしの中に老婦人の夫の姿が出来上がっていく。
ーー書ける。
いつも、良い言葉を思いついた時のように胸がざわついた。
「すこし、時間をください。完成したら、お渡しします」
「ええ、楽しみにしているわ」
鞄から新しい白い便箋を取り出す。
万年筆にインクを補充して、深く息を吸った。
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