第9話 敵か? 味方か?

 悲鳴の勢いはこの階層すべてに共鳴するのではないのかと思われるほど大きなものであった。彼女は二、三歩後ずさるとあてどもなく全力で駆けだした。思考は完全にパニックに陥り、生まれてこのかた体験したことのない恐怖が彼女を包み込む。


 理性が恐怖の奥底へと退けられているはずなのに、一連の出来事がすべて夢であって欲しいという妙に冷めた思いだけは存在していた。


 すべては現実。


 そしてそれはミレアの理解の範疇を越えていた。狂気の箱から抜け出したいという願望だけがいまの彼女の原動力といえる。


 死の影に彼女は怯えていた。このままでは自分も死体の仲間入りをするのではないのか、と。


 T字路にさしかかった瞬間、ミレアの体は突如飛び出してきた何かと衝突し、その勢いに押される形で体全体が左方の壁へと叩きつけられた。


 パニック状態にある脳が状況を把握できないでいる間に、飛び出してきたその者は左手でミレアの首を掴み壁に彼女の体を押しつけた。そして右手の銃口をミレアの顎下に突きつける。


「人工生命体にしては随分間抜けな行動だな」


 首を支点として壁に押しつける男の左腕は常人では考えられない力をしていた。何せミレアの爪先が床に届くか届かないかの微妙な高さにあり、表現を変えれば彼女の体は首つりに近い状態にあったのだ。


 どうもこの男は警備員らしい。


 どうも…という曖昧な表現になるのはその制服が地上出入口にいた者たちと同じなのだが、至るところが引き裂かれおり、まるで薔薇園をくぐり抜けてきたような酷さであったからである。しかもボロ同然の制服にはあちこちに血痕がくっきりと染みついている。


 体格は大男の部類に入るだろう。しかし決して肥満ではなく精悍そのものの体つきをしている。肌は浅黒く、髪は短く刈り上げられており、その目つきは何か普通とは異なるものを感じさせた。


 ミレアにはもう何がどうなっているのか理解できない。アンドロイドの残骸に首なし死体…そうかと思えば今度は見知らぬ男に銃を突きつけられる。


「仲間は何人いる? …いや何体と言った方が適切かな」


 顎下へと突きつける銃口の力がグイと増す。


 ミレアは何か喋ろうとするものの首を掴む力が強力だったので思うように声がでない。さすがに相手はそれを汲み取ったのか少しばかり力を緩めた。


「あなたの…」言葉を口にした直後にミレアは咳き込み少し間をあけた。「…言ってる意味が理解できない。いったい何が…」


「聞いてるのは俺の方だぞ。他の仲間はどこにいる? おまえの特殊能力は何だ? 素直に答えれば楽に殺してやる」


 ミレアはぎこちなく呼吸しながら相手の言葉を吟味した。


 この男は何か勘違いをしている。しかもその勘違いが自分に死をもたらそうとしているのだ。顎下に突きつけられた銃口は夢ではない。相手がトリガーを引けば先程目にした死体の仲間入りとなる。


「私は…」何をどう話せば男が納得するのか、ミレアには落ち着いて考えることができない。彼女は心に思いつくままのことを口にした。「…高等弁務官です。だからその手を放しなさい」


「高等弁務官? おまえの特殊能力はジョークか? それとも下手な嘘で相手を油断させグサリという手合いか? …いや時間稼ぎだな。すぐ近くに仲間がいるのだろ。それまでの繋ぎ、か」トリガーにかける男の指にやや力がこもる。「殺すには惜しい美人だが俺も死にたくはない。おまえらのような化け物に温情をかけるほど強くはないのでね…悪く思うなよ」


 男があともう少し指に力をこめれば、恐るべきエネルギー流が顎下から脳天を貫き人生最後の瞬間を迎えることになる。


 ミレアの両目は大きく見開かれ絶望の光が瞳を覆った。このまま黙っていれば本当に殺されてしまう。


「…高等弁務官府に私のことを問い合わせてみなさい。そうすれば私の言っていることが本当だとわかるから」


「地上との通信回線を閉鎖したのはおまえらだろうが。あまり上出来な嘘とはいえないな」


 もはや何を言っても聞く耳を持たないことは明白であった。


 人間というものはいつか死ぬ運命にあるとはいえ、人生の最終点が得体の知れない地下で、しかもどこの誰ともわからぬ男に撃ち殺されるというのは、彼女にはいかにも理不尽に思えた。そして殺されようとしている背景も不明なまま…。


 ミレアは体を強張らせ心の中で「神様…」と哀願の祈りを捧げると瞼を閉じてそのときに備えた。


 ガッチャン、ガッチャン…と何かの機械音らしきものを耳にして彼女はさらに体を強張らせ痛みが最小限で済むことを祈った。


 ガッチャン、ガッチャン…。


 その音はとまることがない。いっこうに撃たれないことを怪訝に思い瞼を開けると、相変わらず銃口は突きつけられたままであるが、男は顔をミレアにではなく通路の先へと向けていた。


 ガッチャン、ガッチャン…。


 首を力強く捕まれていたので自由に顔を動かすことはできず、視線だけを男の目先と同じ方向へと向けた。


 そこには警備用アンドロイドの接近する姿があった。音は脚部の駆動音だ。男はミレアの耳にはそれとわかるくらいチッと舌打ちすると、アンドロイドと彼女の顔を相互に見比べ何かを迷っていた。


『助かった…の?』


 ミレアには状況がよく理解できないものの、いますぐ殺されるという危機的状況が少しは遠ざかったのを感じていた。


 しかし警備用アンドロイドといえば本来的にはこの男の味方であり、その登場が男に何か迷いを生じさせるというのは彼女には不可解だった。


 だがミレアがそれ以上何かを考えることはできなかった。相手は何かを決心すると彼女の首を掴む左腕にやおら力をこめて首筋の血管部分を圧迫しはじめたのだ。


 ミレアは両手で相手の左腕を解こうともがくものの万力のような力で締めつけるその指は微動だにしなかった。最後の抵抗も脳への酸素供給が途絶えるに従って意識は薄れ、やがてはフワリと浮遊するような感覚とともに気を失った。

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